負けました

(ああもうああもうあーもー!)


 歩きなれている最寄り駅までの道のりが、なぜだか今日は長く感じる。

 自然と早まる足は、ボクの鼓動に連動しているかのようだ。


 こんな調子で仕事に集中できるだろうか。

 あんなに好き勝手されて、誘惑されて、今日も仕事がんばるぞと、世の同棲している会社員たちは思えるのだろうか。


(帰ったら絶対する……いっぱいしてもらって、いつもよりたくさん……うー!)


 ご褒美を考えて仕事のモチベーションを上げようとしたけれども、どうやらボクには逆効果らしい。

 思い浮かぶのは、『仕事を休めばすぐにでもイチャイチャできる』ということばかりだ。


(いやでも有給は貴重だし……体調崩した時とか、もっと重要な日の為に取っておかないと……)


 ようやく駅まで辿り着いた。


 あとは改札を通って電車に乗ってしまえば、もうボクの心情とは関係なく後には戻れなくなれる。


「……」


 しかしここまできてボクの足は途端に動かなくなってしまい――


 学生服やスーツを着た人たちが改札を通るのをただ見守るばかりで――


 ――ボクの手は定期入れではなくスマホに伸びていた。




「ただいまー……」


 あれだけダメだと厳しく言っておきながら帰ってきてしまった気まずさ。

 仮病を使って会社を休んでしまった後ろめたさ。


 それらのせいか、ボクの声は自然と小さくなっていた。


(はぁ、なにやってるんだろ……)


 これではひーくんのことをとやかく言うなんてできない。

 誘ったのはひーくんだけれども、こうも容易く誘われてしまうボクもボクなのだから。


「……? ひーくん……?」


 てっきり鍵が開いた音を聴きつけて玄関に走り込んでくるかと思っていた。

 すぐさまボクを抱きしめて、気まずさも後ろめたさも即座に忘れさせてくれるだろうと期待していた。


 しかし、玄関で待っていてもひーくんは来ない。

 それどころか、物音一つも聴こえない。


(コンビニにでも行ってるのかな? ……いや、ひーくんに限ってそれはないか)


 極度の面倒くさがりのひーくんはコンビニで買えるような物が不足したくらいでは外には出ない。

 ボクにチャットを送って、仕事が終わって帰って来るのを待つような人だ。


 ひーくんは今何をしているのだろうか。

 考えられることとしてはヘッドホンをしてゲームに集中しているか、もしくは――


「……」


 ――もしくは、あれだけボクのことを名残惜しそうに引き留めておきながら――


 ――涙目になりながらボクに仕事に行かないでと縋っておきながら――


「……」

「ん~……むにゃ……」


 ――幸せそうな顔で二度寝を決め込んでいるかだ。

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