第116話

 由香里は発作が起きる直前もしくは寸前に、ギリギリセーフのタイミングでアズキのもとへ戻ってきた。ナルシィの本の中では発作が起きるまで我慢がまんしていたことを考えると、これは進歩なのかもしれないが……。

「由香里、もっと前に戻ってこいよ。ギリギリじゃなくて余裕よゆうで戻れ」

「うーん、そうだねぇ」

 そう言って由香里はいつもギリギリまで戻ってこなかった。まったく、俺の胃が心配でキリキリしそうだぜ。キリキリのまいでも踊ってやろうか。しかも由香里の体中、傷だらけときたもんだ。ツガイモに抱かれれば傷は治ってゆく。女神の体に傷あとは残らず消える。とは言え、傷をえば痛いしつらい。

「おいおい、由香里。歌と踊りと楽器をやってるだけだろ? それのどこをどうしたら、こんな傷を負うんだよ? こことかこことか、治りかけてるけど、かなりの大ケガしてんだろ」

「うーん、そうだねぇ。ビーだからねぇ。私自身、何の修業をしてるんだか、なんだかさっぱりわかってないし。歌も踊りも楽器もさっぱり、できてるんだかないんだか」

 そう言って首を傾げる由香里。

「おいおい、いろいろ大丈夫か?」

 由香里も、いろいろクレイジーじゃね?

「うーん、よくわかんないけど大丈夫みたい。ビーが、由香りんはぁ頭で考えなくてもいいお。体で覚えればぁいいんだお。って言うから、考えるのやめた。体で覚えてからぁ理屈りくつを当てはめるんだお。だって」

「いや、それは……」

 後で考えろって意味であって、考えるのをやめたらダメじゃね? あんに、バカって言われてんじゃねーのか?

「なんかさぁ、ビーはひとりなんだよね。だからって別に、さみしいとか思ってるわけではなさそうなんだけど……」

 由香里の声は眠そうだ。

「まぁ、あいつは誰も信用してなさそうだからな。弟子も仲間もなし。ナルシィと違ってツッチーみたいな存在もいなかったんじゃね?」

「うーん、だろうね……」

 由香里のまぶたが落ちる。

「ナルシィの本の中には、たくさんの者がいた。生前せいぜんの弟子も、本になってから取り込まれた者もいたけれど。でも、ビーの中には誰もいない。ビーはどうして本になったんだろうね……」

 由香里は話しながらムニャムニャと眠りに落ちていった。

「やれやれ、まったく」

 アズキは由香里の髪に指をからめた。腰まで流れるきれいな黒髪。いつの間にかずいぶん伸びた。

「ビーの事より自分の事を考えろっつーの」

 アズキは由香里の寝顔に見惚みほれた。


 

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