20XX年、山小屋での遭遇

藤原くう

第1話

 視界が白に染められていく。吹雪が役の体を打ち、カラフルな登山服と背の高いリュックサックを真っ白にしていく。


 夏であれば背の低い松が生えている尾根にも、雪が積もっていた。新雪は粉のように柔らかく、踏み出した脚は深々と突き刺さって、田んぼのぬかるみにとらわれてしまった時のように進めない。腰を曲げ、雪をかき分けながら進む姿はさながら白い海を泳いでいるかのよう。


 ――まさかこうも気候が一変するとは。


 一抹の後悔が、役の中に生まれる。


 こうなってしまった原因は、役の判断ミスだ。つい数時間前、役は目的の山の頂に立った。目標にしていた山で、後は下るだけだったが、時間があるということで当初予定していた行程を速めることにした。天候もそれほど悪くなかったし、雪もそれほど積もっていなかった。……少なくともさっきまでは。


 冬のつかの間の穏やかさに当てられていたせいか、冬の天候が変わりやすいことを失念していた。次の山頂へと伸びる尾根を進み始めて三十分もしない間に風が出てきた。それから間もなく、雪は吹き始めて今に至る。


 後悔とともに、山小屋の暖炉の温もりが恋しくなってきた。吹きすさぶ風雪によって、役の体はすっかり冷え切っている。動くたびにかく汗がすぐに冷えていく。防寒着に全身を包んでいても、冷気が体を切り裂いた。指先の間隔はとうになくなっている。


 凍死するかもしれない。


 嫌な予感が体を駆け巡る。役の歩みが慌ただしいものとなる。どこかへ避難するか、この場でビバークするか。真っ白になった世界に足跡をつけながら、役は考える。避難するとしたらこの先にあるという山小屋だろう。夏季限定の山小屋らしいが、このような事態のために鍵はかけられていない。食料等はなかったが、風雪をしのげるだけで十分だ。対して、今この場でビバークを行うのも手だろう。雪穴を作り、天候が回復するまでその中にこもるのだ。穴の中は存外温かいが、ずっとそうしているわけにもいかない。立ち止まったら最後動き出せなくなる可能性だってある。だが、現在地点もわからず歩き続けるのも賭けだ。延々とさまよい続けられるほど体力はないのだから。


 立ち止まり、考え込んでいたのは一瞬のこと。


 役は再び歩き始めた。先ほどよりも、しっかりとした足取りで。雪のこびりついたゴーグルの中の瞳は、どこにあるのか知れない山小屋を睨みつけている。


 どこにあるのかなんてわからない。地図上で何となく位置がわかるというだけ。ともすれば、通り過ぎてしまっている可能性だってあった。それでも足を動かし続けることにしたのは、穴の中でじっとしていていつの間にか死んでいたなんて御免被りたかったからだ。ただ、それだけだ。




 幸いなことに、山小屋は見つかった。視界の見通せない、一歩間違えれば、どこを歩いているのかわからなくなってしまうような視野の中、冷え切った地図に鼻をこすり合わせるようにして顔を突き合わせながら歩いていると、真っ赤な屋根が見えてきた。人工物が見えてくると、疲弊しきった肉体に力がみなぎってくる。


 山小屋は思ったよりも小さかった。家族用のテントよりも小さいのではないか――いや、違う。一階が雪に埋もれてしまったために、小さく見えているのだ。山小屋は北に面しており、雪が積もりやすい。そのために冬季は休業していた。


 二階にはシャッターの下ろされた窓があり、窓には鍵がかかっていなかった。そこから転がり込むように中へ。


 山小屋はシンと静まり返っていた。シャッターを下ろすと、雪の降る音が遠ざかる。闇があたりを支配する。役は、服に積もった粉雪をはたき落としながら、ライトを点灯させる。人工的な発光が、暗闇を払っていく。


 人はいない。休業中なのだから、人がいるわけがなかった。それでもいてほしいと期待してしまうのは、こんな冷たいところに一人でいたくないからかもしれない。


 荷物を下ろした役は、ゴーグルを乱暴に外し、目部下にかぶっていたフードを雪ごと払う。


 一つ結びにされた髪が、零れ落ちる。長い髪は、寒さによって縮こまっていたものの、女性のそれには変わりがない。両手をこすりながら、リュックサックからバーナーとコッヘルを取り出す。窓の下へと向かい腕だけ伸ばして雪を掬い、それをバーナーで加熱すれば、お湯の出来上がり。フーフー息を吹き、飲み下せば冷え切ったからだがじんわりと温まっていくのが、実感できる。自然と、息がこぼれた。


 お湯を飲み英気を養ったところで、役は立ち上がる。風雪はしのぐことができたが、山小屋の室温は外気温とさほど変わらない。山小屋なのだから、暖炉くらいあるだろう。あたりを見渡すとすぐに見つかった。薪も暖炉のそばに積まれていたから、今すぐにでも火を入れることはできそうだが、その前に、煙突が埋まっていないか確かめなければ。一酸化炭素中毒で死ぬなんて御免だ。


 役は重い腰を上げ、ゴーグルを装着。


 外へ出ると、先ほどよりも吹雪いていた。ビバークしていたらと思うとゾッとする。屋根の周りを歩くと、すぐに煙突が見えた。壁の側面からにょっきり伸びる煙突は、山小屋自体が埋まることがなければ大丈夫そうである。念のため、何時間かごとに確認する必要があるかもしれない。そんなことを思いながら、山小屋へと戻ろうとしたその時、遠くに人影が見えたのだった。

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