エピソード4

 碧は幼稚園に入ったときに、話せなくなった。深呼吸しても、唾を飲み込んでも、息をどれだけ一杯にためても、家にいるときみたいに音や言葉が出てこなくなった。外に出ると、なんだか分からない恐怖が、碧を襲ってくるようになった。体がこわばり、足が前に出ない。

 両親は、そんな碧を見て、自分たちの育て方のせいだと思っている。本当は、生まれつきの体質が強く関係しているのだけれど。そして、年少は幼稚園に行かせなかった。年中から幼稚園に行かせて、年長になるときに、碧を「夜のあさがお」に入れた。それは、碧にとっても両親にとっても、いいことだったのだろう。これから少し、碧の過去について話そうと思う。

 碧は、言葉を話し始めるのは少し遅かったが、一旦話し始めると、どんどん言葉を覚えて使っていた。とても面白くて、元気な子供だった。頑固で、一度進むと戻らない、そんな強さも持ち合わせていた。

 碧が変わったのは幼稚園の入園式のとき。いつもと違う服や、場所や、人であふれかえって、埋もれてしまったのだろう。目が一点を見つめ、涙もあふれて、ただ立ち尽くしていた。「チューリップ」も歌わなかったし、「一同、礼」もしなかった。

 年中からも、こんな感じの日々が続いた。外遊びは、誰かが誘ってくれても見ているだけ。体操の時間も立っているだけ。お弁当も食べられなかった。何もかもが怖くて、幼稚園ではずっと泣いていたし、毎日泣いて通った。先生も両親も、どうしていいか分からなかった。

「あおい。幼稚園でどうしてしゃべらないの。お母さんお父さんに教えて。」

こんな質問はたくさんされた。自分でもどうしてか分からないのに、説明しろなんて、小さい碧には無理だった。その質問をされるたびに、体がこわばり、涙が出てきて、声も出なくなった。

 そんな碧と両親を救ったのがお兄さんだった。埋もれた碧を引っ張り出し、風菜と一緒に大丈夫だよと言い続け、両親には、碧への理解を求めた。その頃、風菜は同じ状態から回復したところだった。2人で一緒に遊んでいるうちに、自然とうつむいていた顔が上がり、表情も豊かになって、声こそ出なかったが、元の碧に戻っていった。

 碧が2度目に変わったのは、お兄さんと風菜と3人で、花火をしているときだった。暑い夏の日の夜だった。

「ふうちゃん、あおいちゃん、花火ってしたことある?」

「ない。」

風菜は答える。碧は、首を強く横に振った。

「そうなんだね。2人とも、今日が初めてってことか。おお。あおいちゃん、そんなにこわがらなくていいよ。」

碧は、あの大きい花火を思い浮かべていた。それは怖い。お兄さんにくっついて、いやだ、と体全体で伝えたのだ。

「大きい花火は見たことがあるのかな。あれは音が大きくてこわいよね。そんなのじゃなくて、これ。かわいいでしょ。小さくて、音がしない花火をするんだ。始めにお兄さんがやってみるから、見てて。」

お兄さんは、細く丸めた紙のようなものを出してきて、人差し指と親指でつまみ、ろうそくの炎に当てた。すると、火が丸くなって、そこから枝のようなものが飛び出してきた。線香花火だ。お兄さんにくっついていた碧は、怖かったのも忘れて、それに見入った。パチパチ音が鳴り、枝が飛び出てきて、きれいだった火は、やがて地面に落ちた。

「これ。線香花火っていうんだ。これならできそう?」

碧は元気よくうなずいた。やってみたい!すぐに花火を受け取り、ろうそくの炎に当てた。

 すうっと、緊張感が消えていき、碧は、気づかないうちに、

「うわあー!きれい。」

と言ってしまっていた。風菜は、「あおいちゃんが…」と言いかけたが、お兄さんがそれを制して、こう言った。

「きれいだねー!あおいちゃん。」

碧が気づいたときにはもう、「うん」とも、「きれい」とも言ってしまっている。さあどうしよう。

 しばらく沈黙が続いた。それを破ったのは、まさかの風菜だった。

「あおいちゃん…」

風菜も、この一言を出すのにすごく苦労しただろう。しかし、この一言が、お兄さんを救った。

「あおいちゃん、言えたじゃん。」

「うんっ!」

 このように、碧は「夜のあさがお」のメンバーになじんだ。それから碧は、草花のように成長した。元気で明るい性格を取り戻し、自由に動くことができるようになった。後から来た年下の小晴にも、お姉さんとして優しく接した。とりわけ風菜とは、とても仲良くなった。かくれんぼが、今でも2人のお気に入りだ。

「じゃんけん、ぽん!」

「じゃあお兄さんが鬼ね。」

「えーっ。じゃんけんの意味がないよー。まあいいけど。あおいちゃん、捕まえてやるー!」

「あはは、逃げろー!」

 また、あるとき河原では、水かけ大会が開催されたこともあった。風菜と碧は、協力してお兄さんに水をかけた。そしてお兄さんは、3回も着替えることになった(近くの河原なので、いくらでも着替えられる)。

「お兄さんこちら、手の鳴る方へ!」

「このー!うわー!」

「バケツはなしでしょ!」

濡れた服を入れるバケツを使った一撃は強力だった。2人は今でも忘れない。この話をするたびに、2人は顔を見合わせて笑う。お兄さんは決して怒らなかったし、まるで子供に戻ったように2人と遊んでいた。

 この水遊びの次の日、いつもより3倍多い洗濯物を、3人は忙しく干したり畳んだりした。手伝いをいつもしていない風菜と碧は、特にシャツを畳むのに苦労した。でも、自分たちの服は頑張って畳んだ。2人には、手伝いをしたときだけに味わえる、乾きたての洗濯物のにおいが一番の思い出となっている。

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