三の九 招かれざる客

 真夜中の寝室で、六道は目を覚ました。一眠りして暗闇に慣れた目が、家具の形をぼんやりと浮かび上がらせている。

 六道は二人が並べるほどの寝台に横たわったまま、首だけを動かして右を見た。毛布を二枚がけにして六道の右腕に頭を乗せ、アレイアが小さな寝息を立てている。


 最初は、客間ででも寝るつもりだった。しかしそれを彼女が引き止めたのだ。一人だと怖い夢を見そうだから、と。

 それで安心して眠れるならそうしよう。六道は答え、一つの寝台で添い寝をしたのだった。子供のような安心しきった寝顔が、闇の中でもそれとわかる。


 仮に、六道がアレイアを抱こうとしたなら、彼女は受け入れただろう。そういう雰囲気はあった。

 だが、千年髑髏とエスキロスによる凶行があったと察せられるにもかかわらず意馬心猿ともなれば、連中と何も変わらなくなる。己は悪党を地獄に落とす極悪ではあっても、下衆野郎になるつもりはないのだ。


 六道は、彼女を目覚めさせないよう静かに左半身を起こした。自由な左手で、哀しい慈しみとむなしい愛おしさを込め、つやめく黒髪をそっと撫でる。それからゆっくりと体を戻した。


 天井を見上げ目を閉じると、死んだ女房――アフラシアの姿が浮かんできた。

 背丈は六道の肩くらいまでで、長い胡桃色の髪をうなじのあたりで纏めている。

 出会った時は痩せ猫のようだった身体も、所帯を持つ頃には年頃の女性らしい丸みを取り戻していた。

 何より、癒しの気とでも言えばいいのだろうか。全てを包み込み赦すかのような空気感と笑顔に、強欲な交易商の隠居とドラ息子から助けたはずの六道の方が救われていたものだった。

 

 己の甘さのせいで彼女をうしなって、もう何年になるだろう。ただ一人愛したはずの女の顔は、今ではぼやけてはっきりと思い出せなくなっていた。

 ――後生ごしょう大事に抱えてきたはずの記憶さえも薄れていく。そいつは残酷なことなのか、それとも幸せなことなのか、俺にはわからねえ。


 胸にかけたアフラシアの形見、三日月型をした瑠璃(ヴィルーリヤ)の首飾りにそっと触れ、六道は再びの眠りに落ちていった。



 次に六道が目を覚ました時、隣にアレイアの姿はなかった。窓から朝の白い光が差し込み、外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 寝台から下りて着替えを済ませ、廊下に出ると、焼いたパンの香ばしい匂いが漂ってきた。香りのもとを辿っていくと、客間の半分ほどの広さの部屋に行き着いた。長い黒髪をうなじのあたりで束ね、白い前掛け姿のアレイアが朝食を卓に並べている。きっとここが居間なのだろう。


 六道の足音に気付いたか、アレイアが配膳の手を止めて振り向いた。

「あら、おはよう。一人で起きられたみたいね。えらいえらい」

「おはようさん。子供じゃあるまいし、起きられるさ」


 彼女が見せた笑顔は、昨日受けた凶行の痕を微塵も窺わせないものだった。

 それだけ俺を信用してくれているのか。軽口で返しながらも、六道はアレイアの心を裏切るまいと固く誓った。


 卓上に並んだ朝食は、焼きたての平たいパンに、水洗いした生野菜と茸の汁物だった。食材とアレイアに感謝して食べながら、六道はふと思う。

 ――いくらか精気を吸われた俺でさえ、肉が食いてえと思ってるんだ。あれだけ弱ってた姐さんが、野菜だけで足りるってこたあねえだろうに。


「なあ。姐さんは、肉が食いたくなってねえのか? 野菜だけじゃ力入んねえだろ」

 六道が尋ねると、アレイアは口に手を当ててくすくす笑った。

「大丈夫よ。エルフはね、お肉を食べなくても問題ないの」

「へえ。そんな噂は聞いてたが、本当だったのか」


 大仰に感心する六道を見て、アレイアが軽く吹き出す。

「ごめんなさい。冗談よ。単に今切らしてるだけ。……でも、貴方がいてくれるから、平気」

 何でえ、と渋面を作りかけた六道だったが、彼女の微笑みを見て静まっていった。


 一見夫婦水入らずに見える、平穏な朝食の時間が過ぎていく。それは六道にアフラシアと過ごした記憶を思い出させると同時に、心を斬り刻む責め苦を与えていた。


 食事を終えると、汚れた食器を家の外に運ぶ。裏手に、森の中を流れる小川から水を引いてきた洗い場があった。水は綺麗で、氷水のように冷たい。

「俺は宿に泊まるか保存食を食うかだからいいが、毎日洗い物してると大変だよな」


 六道がアレイアの苦労を慮ってため息をつくと、当のアレイアはたらいを持ちだして水を張り始めた。

「ああ、そこで洗うのか」

「それはそうなんだけどね。はい、触ってみて」


 アレイアは悪戯っぽく笑い、盥の水を一混ぜした。六道が手を入れると、氷水はぬるま湯に変わっていた。

「汚れも落ちやすいし、手も痛くならないし。使える魔法は使わなきゃ」

 六道は絶句した。まったくもってその通りである。


 洗い物を終えて再び家に戻り、食器棚にしまうのを手伝うと、二人はまた同じように居間の卓についた。何が楽しいのか、アレイアは頬杖をついてにこにことこちらを見ている。それがまた苦しかった。


 六道もまた、空虚を隠して笑顔を返す。言葉を交わす必要もない、ただ二人そこにいるだけで幸せな空間。アレイアにとってはおそらく本物で、六道にとっては本物だからこその偽り。

 その終わりは、突然に訪れた。


 不意にアレイアが顔を青ざめさせ、椅子から立ち上がった。わずかに遅れて六道も立ち上がる。

 前触れもなく、家の外に忌まわしい邪気を感じたのだ。昨日の今日で忘れるはずもない、邪剣の気配を。


 すぐに、玄関の扉が叩かれる音が聞こえた。六道は入口から遠い隅に移動すると、アレイアを手招く。彼女は小走りに寄ってきて、きゅっと六道の袖を掴んだ。

「……またあいつが来た。どうしよう」


 心細げに呟いて、六道を見上げる瞳は揺れていた。袖を掴む手が震えている。

「姐さんは一人じゃねえ。今は俺がついてる。任せとけ」

 六道が抱き寄せてそっと背を撫でると、手の震えはおさまったようだった。

「落ち着いたか? じゃあ、魔法でここから玄関開けてくれるか」


 アレイアの眉がぴくりと動いた。

「中に入れちゃっていいの? 大丈夫?」

 ああ、と六道は頷いた。彼女を背中と壁の間に隠し、入口の方を向く。

 己が既にアレイアと知り合っていることを、奴は知らないはずだ。姿を見せた瞬間、予想外の顔に面食らったところを仕留めてやる。


 悪党外道は苦しんで地獄へ落ちろ。そう思ってはいるものの、実力の伯仲した相手に、しかも女を守りながらというのは不可能に近かった。

 幸い、千年髑髏を抜く前のエスキロスはたいした相手ではない。勝機は充分ある。


 どうしたんだアレイア、なぜ迎えに来ない、とエスキロスの声がする。いたぶるような真似をしておいてよく言える、と六道は唾を吐きかけたくなった。

 荒い足音が、一歩また一歩と大きくなる。ついに居間の入口に現れたと同時に、六道は袖口から飛針とばりを抜き放った。


 喉笛を狙った、必殺の投擲。しかしそれは、目にも留まらぬ一閃によって叩き落とされた。

 なんだそりゃ。準備よすぎだろてめえ。乾いた笑いとともに毒づく。エスキロスの手には、抜き身の千年髑髏が握られていたのだ。


 邪剣が、聞く者の血も凍りつくような声を出した。

「娘ト一緒ニ、極上ノ素材ガイルノハ感ジテイタノデナ。十中八九、オ前ダト思ッテイタ。イヤイヤ、飛ビ道具ノ可能性ヲ考エテ、抜カセテオイテ正解ダッタ」


 声に反応する者は誰もいない。エスキロスはと見れば、憤怒の形相に顔を紅潮させていた。

「なんで……、なんでここにいるんだ! 貴様が! なんでアレイアと!」


 激怒する姿に、六道はかえって落ち着いた。

「お前らに会うより先に、と知り合ってたからな。昨日森の入口あたりで姿を消した後、まさかと思って来たら案の定だ。……女にひでえ真似しやがって」


 怒りをあらわにしつつも、挑発して冷静さを失わせようと、あえて「姐さん」ではなく名前で呼んだ。予想どおり、エスキロスは唾を飛ばさんばかりにわめき散らす。

「名前を呼ぶな! 貴様なんぞが! 間男が! よくも寝たな! アレイアと!」


 六道が声を出すより先に、いい加減にして、とアレイアが反論した。

「貴方は私の恋人でも何でもない。ただおもちゃのように弄んでいるだけ。六道は貴方と全然違うわ」


 エスキロスの顔が、一転して叱られた子供のようになる。

「それは違う、誤解だよアレイア。僕は本気で君を……」

 唾をごくりと飲み込み、言葉を続けた。

「今だって、具合が心配で来たんだよ。そうだ、一緒に隠れ家へ戻ろう。一緒に暮らせば、僕の気持ちを誤解せず解ってもらえるから」


 六道は反吐が出そうになった。この男は、どこまで自分に都合のいい妄言を吐き続けるつもりなのか。

「舐めたことかしてんじゃねえよ。はもうてめえらの好きにさせねえ」


 エスキロスが再び激昂した。

「だから名前で呼ぶな! 間男のくせに! アレイアは僕の女だぞ!」

「ソロソロ黙レ、えすきろす。耳障リダ」


 真冬の氷海もかくやという声音に、エスキロスとアレイアはおろか六道ですら一瞬言葉に詰まる。

「クダラン問答ナド聞イテオレヌワ。コウスレバヨカロウ」


 六道の背後で、苦痛の呻きがした。とっさに振り向くと、アレイアが下腹部のあたりを抑えてうずくまっている。

「姐さん!? 大丈夫か!? しっかりしろ!」

 六道は深く息を吸い、陽の氣を滾らせた。しゃがみこむと片手で床に着いた手を握り、もう片手は腰にあてがう。


 背後で、千年髑髏の暗い愉悦に満ちた声がする。

「オ前ハ知ルマイガ、ソノ娘ノ下腹ニハ、我ガ呪イヲ刻ンデアル。氣功術デハ治セヌヨ」

 六道は息を呑んだ。それでは、この痛みを止めるためには、エスキロスの言うとおりにするしかないのか。


「くそったれが……!」

 千年髑髏と己自身への怒りを押し殺して立ち上がった。邪剣はその反応を受諾とみたのだろう。アレイアの顔から苦痛が消え、その代わり不安そうに見上げてくる。六道は諭すように声を掛けた。

「すまねえ。少しだけ待っててくれ。必ず、迎えに行く」


 アレイアは頷くものの、俯いて口を閉じ、自身を抱くように両腕を回している。邪剣が呆れたように言った。

「何ヲ言ッテイル。オ前モ来ルノダヨ。オ前ハ、セッカクノゴ馳走ヲ前ニシテ、意味モナク我慢スルノカ?」

「冗談じゃない! 僕はアレイアさえいればいいんだ!」

「黙レト言ッタゾ。貴様ノ都合ハドウデモイイ。私ガ六道ヲ食イタイノダ」


 エスキロスが金切り声を上げたが、千年髑髏はばっさりと切って捨てた。とはいえ、六道にとっても願ったりと言っていいのかどうか。アレイアを人質に取られているも同然の上、陽の氣を大きく吸い取られようものなら、辛うじて均衡を保っている力関係が向こうへと傾いてしまう。そして戻ることはない。


 どうすればいい。どうすれば、邪剣に力を吸われることなく彼女を助けられる。

 六道が頭を回転させ始めたとき、廊下から第四の男が姿を見せた。おそらくはエスキロスの腹心、目隠れのジャルクである。

「そいつは俺が連れていきますよ。兄哥あにきは、女と先に戻っててください」


 渡りに船と、エスキロスは無邪気に喜んでいる。ただ、ジャルクの口元は小さく歪んでいた。

 ――あいつ、何かたくらんでやがるな。こいつはいっそ乗っかった方が、上手くいくかもしれねえ。


 千年髑髏は、ふんと鼻を鳴らすような音を出しただけだった。六道はアレイアに詫びつつ、手を差し伸べ立ち上がらせる。大股に寄ってきたエスキロスが、六道から引き剥がすようにアレイアの手首を握り、無言で姿を消した。


 主のいなくなった部屋に、残されたのは男が二人。

「じゃ、案内してもらおうか。てめえらの隠れ家ヤサによ」

「ああ、案内してやるとも。貴様が行くべき場所にな」

 ジャルクの前髪の奥が怪しく光り、口元の歪みが大きくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る