光と闇の戦い V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 光と闇の戦い


<1実・2虚の戦い>


① 現実の政治・実質的な経済・真の文化を追求する中国人


② 虚構の政治・経済・文化をデッチ上げようとする台湾客家人

(また、①と③とを争わせることで、自分たちのプレゼンスを高めようとする。)


③ この2者を利用して自分たちのプレゼンスを高めようとする米国


  ②や③と異なり、①は恣意的・意図的に自分たちの存在感(プレゼンス)を示そうとは考えていない。彼ら中国人は、働き蜂や働き蟻のように、ただただ無心に「現実を生きる」ことに打ち込んでいる。有名とか英雄など興味はない(結果としてそうなることを否定しないが)。

  ひたすら、自分が自分であることに専念し専心し追求する。


  ②と③に実体はない。

  実際には存在しない、架空の存在感を演出することが、②・③の生きる道。

  実体経済・実質政治・真の文化がないので、実質的に存在していないのと同じ。

  台湾客家とアメリカには、だから、今もそして100年たっても文化はない。実質的なものを追求していては、いい加減な言辞をペラペラと口にすることはできないし、真実を追究していては金儲けはできない以上、それは仕方のないこと。

  権威や権力によって金儲けを企む者に、文化など生まれようもない。

  

全く正反対の2者(中国人VS台湾客家・米政治屋)の戦い

  この結末を見るには、ちと歳をとり過ぎている私ですが、果たして何幕まで観戦することができることやら。


<100年後を見よう>

  中国人の遺した現実の業績と、台湾客家や米政治屋の弄した空虚な言辞。

  中国人の述べた言葉は実質的な存在感をもって後世に残り、その形而上的な意味と現実の業績(建物・サービス・システム)が一体化しているが故に、100年・1,000年経っても朽ちることはない。

  「ラスベガス」はやがて消えても、アメリカン・インディアン(ネイティブ・アメリカン・先住民族)のスピリッツ(魂)には、消えても再び甦る力があるように。

  科学技術の再現性か、形而上力による復元性か。

  蓋し、これは宗教の話ではない。

  もうすぐ死ぬ年寄りの私が、100年後なんてありえませんが、「100年後にどうなっているか」を考えながら今の3者を見て楽しむというのは、有りでしょう。

  問題は私たち一人ひとりが自分自身、どちらの道を歩むか、にあるのです。


Sooner or later you 'll realize, just I did.

there is a difference between knowing the path ・・・, and walking the path.

「今に君もわかる時が来る。道を知ることと実際に歩むことは違う。」


  台湾客家や米政治屋(と、その影響を受けた人々)は、ローマのコロッセウムのような「物」を見なければ、かつての栄華を偲ぶことができない。

しかし、私たち日本人(縄文人)は、ただの野原を見るだけで、過去の栄耀栄華を偲ぶことができる。心の中に文化があるから。

「夏草や、兵どもが夢の跡」芭蕉。


  そして、それは中国人も同じ。彼らは心を見て現実の政治を行い、実体経済を運営し、その故にこそ、彼らの言葉には文化がある。

  台湾客家や米政治屋たちの言葉には、紋切り型の定型句しかない、にもかかわらず。


2022年10月27日

V.1.1

平栗雅人




1実・2虚の戦い

① 現実の政治・実質的な経済・真の文化を追求する中国人


② 虚構の政治・経済・文化をデッチ上げようとする台湾客家人

(また、①と③とを争わせることで、自分たちのプレゼンスを高めようとする。)


③ この2者を利用して自分たちのプレゼンスを高めようとする米国米政治屋



  ②や③と異なり、①は恣意的・意図的に自分たちの存在感(プレゼンス)を示そうとは考えていない。彼ら中国人は、働き蜂や働き蟻のように、ただただ無心に「現実を生きる」ことに打ち込んでいる。

  有名とか英雄など興味はない(結果としてそうなることを否定しないが)。

  ひたすら、自分が自分であることに専念し専心し追求する。


②と③に実体はない。

  実際には存在しない、架空の存在感を演出することが、②・③の生きる道。

つまり、実質的に存在していない。実体経済・実質政治・真の文化はない。


台湾客家と米政治屋には、だから、今もそして100年たっても文化はない。

実質的なものを追求していてはいい加減な言辞をペラペラと口にすることはできないし、真実を追究していては金儲けはできない以上、それは仕方のないこと。

権威や権力によって金儲けを企む者に、文化など生まれようもない。


全く正反対の2者(中国人VS台湾客家・米政治屋)の戦い。

この結末を見るには、ちと歳をとり過ぎている私ですが、果たして何幕まで観戦することができることやら。



100年後を見よう

中国人の行った現実の業績と、台湾客家や米政治屋の弄した空虚な言辞。

中国人の述べた言葉は実質的な存在感をもって後世に残り、その形而上的な意味と現実の業績(建物・サービス・システム)が一体化しているが故に、100年・1,000年経っても朽ちることはない。

やがて「ラスベガス」は消えても、アメリカン・インディアン(ネイティブ・アメリカン・先住民族)のスピリッツ(魂)には、消えても再び甦る力があるように。

科学技術の再現性か、形而上力による復元性か。

蓋しこれは宗教の話ではない。



問題は私たち一人ひとりが自分自身、どちらの道を歩むか、にある


Sooner or later you 'll realize, just I did.

there is a difference between knowing the path ・・・, and walking the path.

「今に君もわかる時が来る。道を知ることと実際に歩むことは違う。」


台湾客家や猶太人(と、その影響を受けた人々)は、ローマのコロッセウムのような「物」を見なければ、かつての帝国の栄華を偲ぶことができない。

しかし、私たち日本人(縄文人)は、ただの野原を見るだけで、過去の栄耀栄華を偲ぶことができる。心の中に文化があるから。「夏草や、兵どもが夢の跡」芭蕉。


そして、それは中国人も同じ。彼らは心を見て現実の政治を行い、実体経済を運営し、その故にこそ、彼らの言葉には文化がある。

台湾客家や米政治屋たちの言葉には、紋切り型の定型句しかない、にもかかわらず。


2022年10月27日

V.1.1

平栗雅人

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