第2話  怪 力 

 


 太刀川は二段目の貞治に相手になるように指示すると、源四郎は行司を立てての取り組みを命じたのである。

「小僧叩きつけられても泣くんじゃねえぞ」

 房吉は仕切りながらにっこり笑った。

「このがきゃ舐めやがって」

 貞治は素人然も子供に侮られまいと思いながらも不用意に立った。

その瞬間土俵の外の板壁まで飛ばされてのびてしまったのである。

 その威力に一同唖然としたが、まぐれとして片付けた。

「良し儂が相手しよう」

 幕下格の岩五郎が土俵に上がった。

この男実力が有りながら取り組みに斑があり、前頭と幕下を行ったり来たりしていた。

「坊主儂は簡単にはいかぬぞ」

 と貫録を見せる。

立ち合いは五分であったが岩五郎は吊り出されて負けてしまった。

 次に出てきたのが前頭の葛山であった。

六尺三寸の大男で、筋骨隆々の売り出し中の力士であった。

「小僧手加減せぬぞ」

 葛山は回しをポンポンと叩きながら蹲踞した。

房吉が投げ倒されて終わりだろうと誰しもが思った。

「良いよ」

 何方が上位の者か分からぬような房吉の振る舞いにむかついたらしく、上背を生かすように房吉の体を上から抑え込みに掛かったが、逆に持ち上げられてしまった。

長い手足をバタつかせるがどうにもならない。

「房吉やめろ」

 太刀川が船橋神明の奉納相撲の場面を思い出して止めた。

このままでは葛山は頭から土俵に落されてしまうからであった。

 房吉は膝を折るようにして姿勢を下げると葛山を土俵上に転がした。

「そこまでだ」

 中郷源四郎は怪童房吉の実力を知って驚いたが、太刀川には当分の間下働きに専念させるよう申し渡すのであった。

房吉にしてみれば相撲はどうでも良かった。ある程度の年齢になれば欲も出て、より強くなろうと稽古に励むに違いないのだが、今のところは何処に居ようが飯をたらふく食べさせてもらえれば良かったのだ。

 ところが、房吉と立ち合った者達は少なからず快く思っていなかった。

八歳か九歳ぐらいの童子に負けたのだから口惜しいのは当然であろう。

だからと言って今一度の勝負は望まなかった。普段の稽古でも太刀打ちできない実力者にも簡単に勝ったのである。

然も軽々と持ち上げてしまう程の怪力はまさに化け物であった。

 この話は奥御殿にも伝わって、お女中の間では怪童の噂話で持ち切りであった。

時に昼間に試合形式の稽古を行うことがあった。そんな時に奥女中達が上司の許可を得て抜け出して来て、筋骨隆々の力士の活躍に見惚れるのであった。

 抑々奥勤めにしろ下働きにしろその多くは商家の娘であったり百姓の娘で、行儀見習いの為奉公して居たのであるから、若い娘たちの興味と言ったら自ずと知れたものであった。 それと怪童房吉の話題である。    

身の丈四尺九寸(一四七センチ)、目方は十六貫(六十キロ)というから少年にしては立派な体躯である。

その上に乗って居る顔は童子そのものというから娘たちをくすぐらずに居られなかったのだ。


 試合形式の稽古があると聞いて十数人の奥女中や下働きが稽古場に押し寄せてきた。

十七、八の取的や関取たちも勢い込んで回しを絞め直す。

どの時代でも異性に好い所を見せたいと思うのは変わらぬものである。

普段は四股鉄炮をいい加減にする者まで懸命にしているのである。

 噂の主はというと、毎日各部屋の掃除と洗濯と水汲みをさせられて過ごしているので、この日も一人黙々と作業していたのである。

房吉に負けた連中が下の者を言い含めて、房吉一人にそれらをさせたものだった。

 二十人程の住まいとは言え大半は相部屋であり、前頭以上が個室を与えられて居るとは言え前頭、小結とで御貸小屋は三棟程であった。

 お女中らが稽古場に押しかけて来た頃、房吉は兄弟子らの衣類を井戸端で洗っていた。

 そこに一人の娘が顔を出す。

「房吉さんは何時も独りで洗濯しているの」

 たらいの中に付け込んである浴衣を摑むと揉み洗いし出した。

「姉ちゃん誰?」

 行き成りで驚いた房吉がそう訊くと、

紗代さよって言うの、覚えてね」

 と愛想良く笑った。

「皆はあんたを見に来たみたいよ」

「それじゃ姉ちゃんは?」

「あたしは付き添いで来ただけ…退屈でぶらぶらして居たら房吉さんと会ったと言う訳」

「おいらが房吉と良く分かったね」

「そのお顔と体つきかな」

 紗代はそう言ってクスクスと笑った。

決して美人ではないが心根の優しそうな娘であった。

紗代は紗代で童顔の中の澄んだ瞳に嘘偽りのない純粋な心の持ち主を見出していた。


 房吉数え十歳、紗代十四歳の出会いであった。

「房吉さん、屹度大関になってね」

 紗代は相撲小屋から一行が出てきたのを見て、房吉にそう言い残して去って行った。

 如何やらこれが発奮させる要因となった。

元々馬加に居る時は小舟ではあったが、漁船を独りで陸揚げしたものである。

通常は大人でも複数人で行なう作業であった。この砂地での作業が自然足腰を鍛え、大工の手伝いでは角材や束ねた板を運び、酒屋では四斗樽を持ち上げ担いで居たので、その腕力や足腰の強さはそうして鍛えられ、その底力は並の者では到底及ばなかったのである。



 房吉が本郷邸に来て半年たった或る日、太刀川は幕下の駒市に、房吉への指導を命じた。先ずは相撲場でよく見かけるすり足に四股、鉄炮であったが、駒市が手本を見せると、初めてという割にはうまく熟した。

房吉は掃除の合間にそうした動作を盗み見て覚え、人に知られぬように一人で稽古していたのであった。

 翌日親方太刀川に呼ばれた駒市と房吉は座敷の前で稽古に当たっての注意を受けた。

「房よ、これから肥後の岩とぶつかり稽古をさせるが、ぶつかり稽古は知ってるよな」

「あぁ分かるよ。おいらが兄いにぶつかって行けばいいんだろう」

「そうだ。そして何度かぶつかった後にお前は転がされて受け身を覚えるのだ。駒市お前が先にやれ」

「へい―それでは」

 肥後の岩が両手を広げて受けの体制を取り、駒市は土俵に両手をついて立ち上がると頭を下げてぶつかっていく。

それを四、五回続けて、最後には転がされて終わった。

「今度は房だ」

肥後の岩は左足を引いて両手を開いて待つ。

「やぁ~っ」の気合と共に肥後の岩の胸を突いた為、土俵の外の壁板まで飛ばされてのびてしまった。所謂鉄炮突きであった。

「馬鹿者突くのではなく、ぶつかって押してゆくんだ」

 太刀川は怪童の馬鹿力に呆れるばかりであった。

「何があった?」

 中郷源四郎は、太刀川の説明を聞くまでもなく土俵の外でのびている肥後の岩と土俵上に立っている房吉を見て何があったか察した。 

これでは怪我人が続出してしまう。

況してや他家との親善試合に出したら何が起こるか分からなかった。

「焦らず一から教えてやれ」

 相撲頭取中郷源四郎は、房吉を相撲巧者の綾錦爲衛門の付き人にするよう指示した。

番付では前頭の筆頭だが、その取り口は太刀川ですら舌を巻く程豊富で、八日間全勝した時の決まり手は、毎日違ったものであったという。

 この男に房吉を預けたのは技を覚えさせる為だけではなかった。

相撲は心技体というように房吉にとって最も必要なのは心の部分であったが、これを教えることの出来る力士は綾錦以外には居ないとの判断からであった。

相撲取りとしての心構えよりも、人としての修養を身に付けさせる為にも僧侶として修業経験のある綾錦が適任であったのだ。



 その日から房吉は大部屋から綾錦の部屋に移った。

各部屋の掃除はその付き人が行ったが、共用部分の清掃や食事の支度は付き人らが交代もしくは全員で行った。

食事は朝晩の二回で、稽古は早朝に行っていた。なので、それらが済んでしまえば一部の者を除けば自由に過ごして居たのである。

 そうしてみると相撲衆は気楽なように見えるが、実は相撲以外の仕事も担っていたのである。

 他家はとも角、加賀前田家では庭園の普請や維持管理を手木足軽が任されていて、人数が足りない時などは相撲衆に応援を求めた。 兄弟子たちの話では、明暦の大火で焼失した天守台の石垣普請や金澤城から江戸屋敷まで雪や氷を運んだりする足軽に相撲衆も混じって居たのだという。

そうした仕事があるとは房吉を始めとする数人の若手らは知る由もなかった。

 何事もなければ、恐らく六月朔日までは手木足軽の出番もない筈であった。


 さて房吉はというと、眠気と闘いながらの修行(養)の時間であった。

綾錦は読み書きの出来ない房吉に千字文を用いて手習いから始めた。

予め用意しておいた四文字の手本になぞり書きをさせた。

 天地玄黄 宇宙洪荒 日月盈昃 辰宿列張等である。

 これらの意味を含め何度もなぞらせる。

紙を乾かしては又なぞり、最後に別の用紙に清書させて覚えさせたのである。

当然のことながら筆の運びにおいて、打ち込みや撥ねや止め等も覚えていった。

 だが房吉にしてみれば、読み書きより相撲の方が遥かに楽しかった。

奉納相撲に出てみて初めて己の力強さを知り、お抱え力士たちにもそこそこ通じることが分かると、綾錦の厳しい指導に懸命についていった。

 綾錦は前頭筆頭ながら技の宝庫とも言えるほどの巧者で、房吉の力をまともに受けることはなかった。

房吉の力が微妙に跳ね返されているようなのだ。

妖術でもあるまいが何か特別の技巧を以ってその威力をかわしているとしか思えなかった。当然房吉は戸惑った。おのれの威力が綾錦にだけ通じないことを不思議に思ったが、だからこそこの兄弟子の下で相撲を覚えたいと思うようになったのである。




 房吉の師匠(親方)とも言うべき綾錦爲衛門は元々加賀前田家の下級武士の三男坊で家を継ぐこともない冷や飯食いで山寺に僧侶の修行に出されたのだが、十七歳ともなると身の丈が六尺五寸、目方は三十貫許となった為、住持が重熙しげひろ公(八代領主)の側近に相談して、相撲会所に入れて貰ったのである。

 爲衛門十八歳の時に午前試合が催され、見事先輩力士らに打ち勝って褒美に綾錦の四股名と禄高十石を賜りお抱え士分となった。そして翌年江戸出府の際、同行して本郷の上屋敷に入ったのである。


 江戸には当地お抱えの太刀川が居た。

この秋邸内に於ける御前試合で勝ち残った二人は、優勝をかけての取り組みとなるが長い勝負となった。

 四つに組み合った二人は技の応酬となったが決まらず、途中行司が動きを止めて両者を組んだ状態のまま暫し休ませて後再開した。

勝負は一瞬で着いた。

再開と同時に綾錦が太刀川を吊り出しに下したのである。

 行司が両者の動きを止めた位置が俵に近いところであったのが太刀川にとっては不利といえた。

 綾錦は行司の合図と同時に太刀川を引き寄せると、吊り出したのであった。

「あっぱれじゃ」

 重熙公はご機嫌であった。

お気に入りの力士が勝ち名乗りを上げたのだから当然と言えば当然だが、勝者への報償とは別にご褒美頂戴となった。

「綾錦爲衛門近こう参れ」

 重熙公は広縁の下に綾錦を呼ぶと、腰の差し料を倹見役から渡したのであった。

「真恐悦至極に存じます。頂戴致しましたる

御殿の拵を累代の家宝とさせて頂きます」

 重熙からの拝領の拵は、雲錦模様蒔絵鞘脇差で、柄の縁金具には加賀梅鉢紋が付いていた。

 爲衛門はこの時前頭格で、太刀川は小結であった。

その兄弟子に勝ったのだから位は同格かそれ以上に進んでも可笑しくなかったが、爲衛門は前頭以上は受けなかった。

それは何故かというと、御前試合に於ける勝負の付き方に得心していなかったからである。勝ち名乗りを受けた方なのに何故?

 御前試合の後綾錦は太刀川の部屋を訪ねていた。

「関取何故私めに勝ちを譲られましたか…」

「何の話かな?」

 恍けているが綾錦の推察通り、態と負けたと思って間違いなかった。

組み合った感じでは、そう簡単に勝てる相手でないことが分かった。

 腰の重さや腕の締め付けも半端ではなかった。

行司が止めた時点が限界であったが、再開と同時に易々と引き寄せることが出来た上、簡単に吊り出すことが出来たのが意外であったのだ。

「お前さんの力が勝って居ったのよ」

 太刀川にしても新参とは言え綾錦の強さを十分知らしめられたのだ。

国許での評判や実際に勝負してみて実感したのである。

 下級侍の出ながら僧侶として修行を積んだ知識人であり、これからの江戸相撲の担い手となるに違いないと踏んだ。

この男の能力を生かすにはそれなりの素材を与えて、指導者としての才能を発揮させるのも一計であった。

 その役割が下總國馬加から連れてきた怪童房吉の育成であったのだ。

ご承知の如く房吉は一見すると大人に見えるが、その立派な体躯の上に見せる童顔の笑顔はどう見ても子供であった。

 貧しい漁師の三男坊ながら体格に恵まれた所為で、近所の商家や大工の手伝いをすることで麦飯をたらふく食べさせて貰えたのであった。

その為、何方かというと粗雑に育ったのである。

無論礼儀など知らなかった。

 未だ少年だから良かったが、こうして上下関係の厳格な相撲の世界に入ったなら、知らないでは済まされないので、挨拶の仕方など礼儀作法から始めたのである。

そして読み書き手習いとして『千字文』を教えたのである。教えてみると中々筋が良く決して粗野な子ではなかった。

相撲の稽古も相弟子の喜三郎とぶつかり稽古をさせ、四股、鉄炮は徹底してやらせた。

「房これから学ぶ本だ。後で読んでおけ」

 渡された本の表題は『論語』とあった。

開いてみると、

 論語学而第壱 一(小文字)

子曰学而時習之不亦説乎(子曰く学びて時に

これを習う亦説ばしからずや)

有朋時遠方來不亦楽乎(朋あり遠方より来たる亦楽しからずや)

人不知而不慍不亦君子乎(人知らずして慍みず亦君子ならずや)

とあった。

 房吉は初め白文で見た時に『千字文』のように四文字ずつ区切って読むのかと思ったが、読み下し文を見るとそうではないようなので

その意味を綾錦に訊ねると、

「どうやら欲が出てきたようだな。

その意味はな、先生曰く『学んで時折復習することは何と喜ばしいことだろうかと、友が遠方から訪ねて来るとは何と楽しいことだろうかで、最後は他人が自分を理解して呉れなくとも不満を言うものではない、何と徳のある人だろうか。まぁこのような意味だ。全てを覚える必要はないが学んだ中から心に止め置きたいものを覚えたらいいだろう。それは儂が写したものだ。暇な時は学びて時にこれを習う亦説ばしからずやだ。これは将来必ず役に立つ時が来る。己の為になることを信じて励むのだぞ」

「はい親方肝に銘じて精進いたします」

 房吉に読み書きを教えることの許可は頭取から貰っていた。

何れ士分となって二本差しで出歩くようになるとれっきとした加賀前田の家臣である。

それなりの教養を身に付けておくに越したことはなかったのだ。

 論語を教えているとは言わなかったが、この論語について言うと、五代目領主綱紀在府時の元禄十五年四月二十六日に、将軍綱吉公が本郷邸御成との記録があり、その時綱吉自ら論語を講じたとある。その上で綱吉の命により、綱紀も四書のひとつ大学を講じたようだ。

 四書とは大学、論語、孟子、中庸のことで、この他に詩経、書経、易経、礼記、春秋の五経があり、武士の子弟はこれら四書五経の儒書を順に学んだものだが、房吉には論語のみ教えた。

「先ずは諳んじろ、そしてその意味を理解することだ」

 綾錦は余計なことは言わない。少年に解かり易く教え、質問があれば明瞭に答えた。

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