第14話 我が主人はただひとり
アシュリンとクラウスは、オリアナに入国したその晩から、市の外壁に近い集落にある宿で、世話になることとなった。ふたりは無一文に近かったが、城壁を壊す勢いで暴れた魔獣を、クラウスがその魔術で一撃の下に倒したことを伝聞で聞いた村長が、ふたりに好意でその宿を紹介してくれたのである。
「近頃は稀にですが、山から下りてきた魔獣が、この周辺に出現しておりましてなあ。我らもいつ城壁を破られるか、そのたびに肝を冷やしているんですよ。そいつを倒してくれたっていうなら、お客人は我々の恩人も同じですよ。落ち着き先が見つかるまで、どうぞゆっくりしていって下さい」
村長はそう言いながらクラウスに深々と礼をした。そして、村長はアシュリンにも礼を持って遇するのを忘れなかった。もちろんそれは、アシュリンをクラウスの主人と認識した上での扱いに他ならない。アシュリンもその心遣いに感謝して、礼を持って応えたが、内心はいたたまれぬ思いで落ち着かなかった。
――私、本当は、もうクラウスの主人でも、なんでもないのに。あれは、私が入国を断られて困っていたのを見て、クラウスが付いた嘘なのに。
だが、いかに嘘といえど、クラウスがそうと言ってまで自らの窮地を救ってくれた事実は、じんわりとあたたかく、アシュリンの心に染み渡るものだった。
――ああ、彼が言ってくれたとき、私、嬉しかった。
アシュリンは隣を歩くクラウスの逞しい身体に、目を向けては思う。そのたびに、再び何度も、じわっ、と湧き上がる幸福感に心は包まれ、彼への感謝の思いが滲み出る。
しかし、その夜、いざ、ふたりきりになったとき、勇気を持ってその気持ちを口にしてみたアシュリンへのクラウスの答えは、素っ気ないものだった。
「あれは、ああでもしないと、私の入国にも差し障りがでると思って口にした、便宜上の台詞です。確かに、あのように言って入国した以上、私はお嬢様を主人として接しますが、それとて形だけのことです」
「形だけの、こと……」
「そうです。ですから、あまり感謝される筋合いはございません。どうぞ、お気を留めずにいてもらいたい」
アシュリンは肩を落した。分かっていたことではあるが、はっきりと口にされると、やはり身に堪えるものである。
――仕方ないわ。私、なぜだか分からないけれど、会った最初のときからクラウスには嫌われているのだもの。
アシュリンは心中でそう独り言つと、ひさしぶりの羽布団のなかにもぞもぞと包まった。その感触は、今では戻ることも出来なくなってしまった、エンフィールド家での穏やかな日常を思い出させて、アシュリンの頬には何筋かの涙が伝った。
そのまま枕を涙で濡らしながら寝込んでしまったアシュリンが、翌朝、目を覚ましてみれば、クラウスの姿がなかった。宿屋の主人に尋ねてみれば、彼には客人が訪ねてきていて、宿の客間で応対しているとのことだった。
「市の中心街から来なすった、お偉い方ですよ。オリアナ政治部会会長のトーマス・マイシュベルガー様ですぜ」
「オリアナ政治部会の会長?」
アシュリンは客間へと足を向けた。クラウスにはオリアナにそんなに地位の高い知り合いがいたのかしら、と訝しがりながら。
クラウスは目の前の豪奢な服を着た太った男が、唾を飛ばしながら、父セオドアを褒めちぎるのを、腕を組みながら黙って聞いていた。
「いやあ、ほんとうにお父君の庭師としての仕事の素晴らしさと言ったら、そりゃあもう言い表せないほどのものだったな。彼が世話した花、ことに薔薇の花の見事さは、オリアナ一、いや、世界一の美しさだった。一輪咲きの薔薇は勿論のこと、房咲きの薔薇においても、とにかく花の持ちや発色が絶品でね。彼がオリアナを去ったときは、この国中の園芸愛好家が惜しんだものだよ。そのあと、彼がエンフィールド家に仕官する前にも、オリアナに戻ってくるように私は誘ったのだがね、約束だから、と
「そうでしたか。そこまでお褒め頂いて、死んだ父も喜んでいると思います」
クラウスはようやくそうとだけ答えた。セオドアは生前、その遍歴については言葉少なだったので、オリアナに長く滞在していたことはクラウスにも初耳だった。
――なるほど。「オリアナに行って自分の名を出せば、良くしてくれるだろう」とはこういう意味だったか。
クラウスはひとり心の中で合点する。
そして、考える。この男、マイシュベルガーは、いったい、俺に何の用事があるのか、と。いや、それは彼には予想がつかないわけでは、なかったが。
そう思っているうちにも、マイシュベルガーは興奮気味に語を放ち続ける。そして、前のめりになってクラウスの顔をまじまじと見つめがら、いきなり話の核心を突いてきた。
「おお。このたびのクーデター騒ぎでお父君が命を落とされたとは、まったくもって残念なことだ。だが、天は我々を見捨てなかった。何の巡り合わせか、ご子息たる君がオリアナへやってきてくれるとはな。うむ、めでたい。誠にめでたいことだ。ご子息たる君もまた、有能な庭師と聞き及んでいるからな。というわけで、早速だが、私は君を召し抱えたいのだ」
――やはりそうか。
クラウスは自分の予想通りに、マイシュベルガーが己の仕官を求めてきた旨を聞き、さてどうするべきか、と腕を組み直した。だが、マイシュベルガーはそんな彼の様子に構うことなく、いそいそと立ち上がって、クラウスの手を、むんずと掴んできた。
「さあさ、今日これからすぐにでも、我が屋敷に来てはくれまいか。すでに、住む家は用意させてある。うむ、ではさっそく、行こうじゃないか」
「ちょっと待って下さい。私には既に仕えている主人がおります。そうですよね、アシュリンお嬢様」
クラウスはマイシュベルガーの腕から自分の手をすり抜けさせると、客間の扉の隙間から、ただ棒立ちになって会話を聞いていたアシュリンに言葉を投げかけた。
アシュリンは突然のことに、言葉も出ない。そんなアシュリンに、畳みかけるようにクラウスは繰り返し問う。
「そうですよね。我が主人は、アシュリンお嬢様、ただひとりです」
「クラウス、それは……」
「そういうわけです。ですから、今日の所はお引き取り下さい」
アシュリンは言葉を詰らせた。クラウスが自らの仕官を
しばらくして、顔を顰めながらクラウスが客間に戻ってくる。彼を見て、アシュリンは戸惑いを隠せぬ顔のまま、思わず彼に声を放った。
「どうして……? 良い仕官の口だったんでしょう? クラウス、なのに、どうして……?」
すると、クラウスが淡々と答える。何の感情も窺えぬ顔で。
「主人は、同時にふたり持てませんから」
「……だって、あれは形だけのこと、って、昨夜」
「形だけだとしても、主人は主人です。それに、いまの男、トーマス・マイシュベルガーはオリアナの有力者だそうだが、どうにも高圧的で虫唾が走る。ならば、お嬢様の存在を理由にして断るだけです。つまり、私は、お嬢様を利用したのです」
「……クラウス」
「それだけのことです。さあ、朝食がまだでしょう。食堂に行きましょう」
クラウスはそう言うと、さっさとひとりで客間を足早に出て行ってしまった。去りゆくその焦茶色の瞳からは、相変わらず彼の真意は見えない。
だが、そこに躍る色が、少しずつ険しさを無くしてきたように見えるのは、気のせいだろうか。
いや、と、アシュリンは思い返す。
それは自分の願望が見せた、幻ではないだろうか、と。
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