第14話 目覚めの章

 動かなくなった足を引きずるような、重たい時間は透明に過ぎていった。


 正敏父さんが、地下室から琴絵ママンを大切そうに連れ出し、琴絵ママンの部屋のベッドに移動させると傍に付きっきりになった。



【いれてくれよ】


 騒ぐ、さつきを地下室から締め出し、文月が一人で日向と滴の二人の世話をした。さつきは、琴絵ママンの部屋の入り口が見えるところに、リビングの椅子を持ち出し、すわり動かなくなった。

 

「滴のヤマカガシの毒と日向のガンは、琴絵ママンが全部引き受けたから、二人は数週間から数か月で、元に戻ると思う」


 そう言いながら、正敏父さんは、琴絵ママンが好きだった洋服に着替えさせ


「さつきくんも地下室に入れてあげなさい」


 文月に一言だけ伝えると、埋葬するために琴絵ママンを車に乗せて横浜に連れて帰った。



【それからは】


 文月とさつきは交代で、二人の様子を見ていた。正敏父さんと琴絵ママンが横浜に出発してから、おじい様が突然に尋ねて来た。


 さつきも文月も、琴絵ママンと滴の事をどうしても言葉にすることができなかった。ためらい、沈黙をつらぬいていた。


 おじい様は、文月とさつきを見ると聞いた。


「いつ帰って来るんだ」

「からだは良くなったのかよ」


 さつきは、おじい様の問いが聞こえなかったようにぶっきらぼうに吐き出した。


 おじい様はそれに答えず、当然のような顔をして逆に質問をした。


「日向さんは、もう良くなったのか?」


「なるわけないでしょ。末期がんを自分の身に受けたのよ」

 文月は怒りをこめた。


「そんなに時間がかかるのか?」

「当たり前でしょ。日向は人間なの、人より治癒能力があるだけで…」


 文月のトーンは強く、おじい様にたたきつけようとしているのを、さつきが止めた。


 文月はさつきの顔をみて、我慢するように深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。


 おじい様は、孫娘のヒステリックな行動は、日向が繕いをした時から引きずっているものとばかりに思い、ただ、しつこい奴だとしか思わず簡単に話題を変えた。


「滴さんはどうした?助かったのか?咬まれてから一週間くらいたったな」


「助かったよ」さつきが答える。


「そうか、良かった。いや、スチームサウナのメンテナンスをしていなくて、外側の壁つたいの雑草も刈り取っていなかった為に、蛇が建物の土台の下から入りこんで、大量の蛇が越冬していたのだ」


 文月は、琴絵ママンと出会った頃を思い出し


「たしか、昨年、ママンが言っていた。下草だけでも刈れば、蛇が越冬に寄ってこないから、そうして欲しいと何度も沼田に言っていたそうよ」


 文月は不愉快そうに答えた。


「そうか、やっぱりな。あいつら作業費を着服して、実際には何もしていなかったのだな」


「沼田がやったの?」さつきの声に怒りが混じっている。


「ああ、沼田の指示で神牧がな」


「神牧ってさ、あいつ、気持ち悪いよ。背が低いから顔がよく見えないけど、いつもへらへらして、薄ら笑いを浮かべて、ブツブツと言っている」



【よく見ているな】


 おじい様が笑った。そして、気まずそうに…。


「それでな、沼田がやっぱり、ヤマカガシに噛まれたのだ」

「いつ?」


「半日前くらいに、沼田が温泉でくつろいでいる間に、ヤマカガシにかまれた」

「それで?」


「ヤマカガシの事を毒蛇だと思っていないので、頭痛がし始めるが気に留めずに放置したんだな。そのうち、頭痛がひどくなり歯ぐきから出血して、病院に連絡したら、血管にヤマカガシの毒が入ってしまったと言われ、あと数時間もしないうちに、脳出血・急性腎不全にまで進行するだろうって言われたと、俺に連絡が来てな」


「はあ?それで来たの?」


「人の命がかかっているだろ?」


「へっ、やめてくれよ」


 さつきが笑い吐き捨てるように言った。文月は、黙っていたが、日向の言葉を思い出していた。


「僕達に関心を示す人は、利用しようとする人と、嫌って攻撃して来る人の二つのパターンしかない。どちらも歓迎できない人達だろ?だから隠れるのさ」



【文月は】


 黙ったまま、席をたった。


「おい」


 おじい様はその後ろ姿に声をかけた。振り向いた文月は凍りついた、険がたった無表情で、血の気がなかった。


「おじい様、やめろよ」さつきが制止した。

「しかしだな」


 文月はそのまま、地下室の扉を閉めて鍵をかけ、そのカギを自分の首にかけた。日向と滴は、共に地下室に閉じ込められたのだ。


 それを見ていた、さつきは叫んだ。


「おねえ様もやめてよ」


「お黙り」


 文月はゆっくりと振り向くと、以前のうぶすな神のようにゆっくりと威厳に満ち


「傲慢で残酷な神の行為を私がしよう」


「どういうことだ」

「できる事をしない事ですわ」


 文月は仁王たちになって残酷な笑みを浮かべた。



【さつきはおじい様を責めるように問いただした】


「沼田に繕いの話をしたの?」


「いや」

「沼田以外には?」


「いや、誰にも話をしていない」


 さつきから矢継ぎ早の質問に、慌てるようにおじい様は答えたが、その二人の会話を全く無視して文月は


「私たちは善良であって、貴重で大切な人を失った」

 

 おじい様に詰め寄ると、おじい様は後ずさりしながら文月に怒鳴った。


「滴さんは助かったんだろ?文月!さっきから訳の分からない話をしている。きちんと説明しろ」

 

 すると、文月は冷酷な表情を浮かべ


「おじい様、沼田自身が犯した罪の償いは沼田自身がするべきだと思う」


「しかし、沼田だって」

「私腹を肥やした。そうでしょ?」


「そうだけど」

「これ以上、戸和の子孫が利用されるのを、黙ってみていられない」


「しかし、命が…」


「だから、言っているでしょ。うぶすな神である私が、傲慢で残酷な神の行為をするのよ」


「ようは、助けないのか?」

「そうよ。日向に選択はさせない。おじい様が私を本当の神にしたのよ」



【文月は】


 二階の文月の部屋へ行き、ガラスとゴムの絶縁体で出来ている箱にしまってある携帯と粧刀をとって降りて来た。そして、粧刀をおじい様の目の前に置くと


「これで、私を殺して鍵を奪いとりなさい」


 死人のように無表情な文月が放つ言葉に、異様な狂気が含まれている。


「そんな、大そうなことか?」


「日向に繕いをさせるよりも、今、おじい様に生身をはがされ、地獄の責め苦に遭わされた方がまだましです。沼田はどこですの?」


 文月の迫力におじい様は躊躇し戸惑いながら


「自宅だそうだ」

「そう」


 文月は消防署の救急に連絡し、沼田の様子を話した。


 日向に神の判断をさせないために、日向と滴を地下室に閉じ込めた文月は、救急車を呼んで沼田自身の運に任せることにした。


 文月は全責任を自分一人で負うつもりだ。おじい様は先ほどから落ち着かない。それに反比例して、落ち着き払った文月は消防署と話が終わると


「おじい様、間に合うかどうか、わかりませんが、いち早く医療機関に行き、抗毒素を投与したほうがよろしいそうよ。ただ、昨日からの吹雪でスノーパウダーが巻き上がって視界が悪くて、救急車が到着できるか、わからないと、いうことですわ」


 事務的に答えると、さつきが小さく呟いた。


「ホワイトアウトが起きるな」


 この時期は、開けた場所で頻繁にホワイトアウトが起きる。


 下界と通じている道路にも数か所、ホワイトアウトが起きる場所がある。軽自動車なら巻き込まれて、簡単に道路から外れて側溝に落ちる。


 そのため、車にはいつも、シャベルと牽引ロープ、防寒用長靴、厚手の防寒用コート、手袋などが積まれている。


 地元の人間はホワイトアウトが起きると車を止めて様子を見る。暗黙の了解のもとホワイトアウトが落ち着くまで、道路には車の長い行列が出来る。


 さつきの言葉に顔を曇らせたおじい様は


「時間がかかるな。考え直してもらえないだろうか?」

「おじい様、これが私の逆鱗に触れた結果よ」


「逆鱗って」

 おじい様はため息をついた。


 さつきは、文月に従うように、琴絵ママンの部屋の入り口が見えるところに、リビングの椅子に膝をかかえてすわり、動かなくなった。


 おじい様は二人の頑なな様子に、さらに深くため息をつくと、


「帰るよ」


 ボソッと言うとさつきを見た。さつきは、膝をかかえ、動かないまま


「おじい様。おねえ様が怒るのも無理はないよ。おじい様を治した繕いって簡単じゃない。なによりまだ二人とも目覚めてもいない、赤毛の兄さんにこれ以上甘えるのはよせよ。あの人だって人間だよ。あの人が死んだら、マジにおねえ様に殺されるよ。俺もおねえ様も藤代の人間だ。なにをするかわからないぜ。それに今の俺たちに余裕はない」


「死んだらって大げさだろ、私の繕いが出来るのに、蛇の毒くらいなんでもないだろ」


「はあ?おじい様、もう帰った方がいいよ」


 おじい様が玄関のドアを開けると、風が音をたて雪を舞い上げ、引き戸が鳴った。



【琴絵ママンが亡くなってから一か月】


 日向と滴は目覚めない。正敏父さんが横浜に行ってまもなくして、文月とさつきに連絡が来て滴の妊娠の事を聞いた。


 最後に琴絵ママンから思惟が送られて来ていたが、伝える余裕がなかったと正敏父さんは涙ぐんでいた。


 琴絵ママンが亡くなり、新しい命が芽生えることは喜ばしいと、二人に正敏父さんは言ったが、感取放が出来ない二人と正敏父さんの悲しみと苦しみに共感はない。


 それぞれの思いの中で生きる、文月とさつきだが、そんな事に慣れていない正敏父さんには、日向と滴が目覚めない泉の屋に滞在する事は、厳しかったようだ。未だに横浜から帰ってこようとはしない。


 文月は滴の妊娠を聞いて咄嗟に「ふざけるな!」とさつきを追いかけた。



【さつきは】


 逃げながら大喜びをした。


「滴はおねえ様より、おねえ様らしいもん。僕が父親だ」

「高校生の分際で、どうしようもない奴だ」


「おねえ様だって、大学生だろ」

「私は、さつき、あんたと違うの。入籍はしたけど子供が出来る行為はしていない」


「遅れているな」


「はあ?おじい様に知られたら、また何が起こるかわからないのよ。日向だけでなく、滴さんや子供を危険な目に合わせたいの?」


「だって、滴はうぶすな神じゃないし」


「あんた、私が生む女の子以外は認めてもらえないのよ。どうなる運命かしっているでしょ。女の子なのよ」


「えっ、女の子?あっ!」


「そう、女の子。下手をすると殺されるわよ。私達だって、父親がわからなくて間引きされるところだったでしょ。現実をしっかり見なさい。私は二十歳で女の子を産むためだけに武人たけとと寝たくないから、日向と入籍したのよ。日向だって、滴さんだっていつ目覚めるかわからないのに、喜んでいる場合か!」


「はあ、そうか…」さつきはがっかりしたように肩を落とした。

「はあ、そうかじゃないわよ。ほんとイライラさせる子だわ」


「おじい様なら、やりかねないな」


「子供だけでなく、滴さんの身になにかあったら、亡くなった琴絵ママンに会わせる顔がない」


「まずいよな」


「藤代の家は棟梁が一人、うぶすな神が一人。それ以上は認められないのだから、不慮の死ばかりなんだから!」


「そうだな。なにか、手立てを考えなくちゃ。僕の滴になにかあったら大変だ」

「さっきから、滴、滴って馴れ馴れしいのよ」


「いいだろ、僕の彼女だから!」

「さつき!」



【滴の妊娠を知ってから】


 文月はさつきに地下室の鍵を預けるようになった。今、状況的にすべてを理解しているのは、文月とさつきだ。


 さつきは意気込んで鼻の穴を膨らませながら「なにがあっても守る!」と豪語している。


 日向と滴の感取放で、家が守られていない状態で一か月になる。


 この間、必ず泉の屋にさつきか文月がいるようにした。姉弟、二人でこれほど協力して生活してきたことはなかった。


 さつきは、泉の屋に滞在中は地下室に鍵をかけ、琴絵ママンの部屋の入り口が見えるところに、リビングの椅子を置き、家の周囲で侵入者が来ないかいつも神経を尖らせていた。


 集落の人間が、急に元気になったおじい様をいぶかしむ声も出ている。まるで、千年以上も前の豪族の繕いと同じことを繰り返しているような気がした。


「一度、家に帰っておじい様と話をしなくては…」文月は深刻な面持ちだ。

「子供の事は?」さつきが不安そうに尋ねる。


「今は話が出来ないわよ。それより日向たちの事を漏洩させないように釘をさして来る」


 さつきに留守番を頼み、おじい様に仙才鬼才に託し縁を背負ふという、藤代の家に伝わる伝承の本当の意味の説明に出かけた。



【日向は地下室で目覚めた】


 体調は今までよりもいい。おじい様の繕いで請け負った病の大きさに、汲々としていたが、随分と体が軽くなっている。


 目覚めると同時に、琴絵ママンの声が記憶として残っていた。


『目覚めたかな?君達のおかげで、この力の意味がやっとわかったの。ありがとう。私に不安はありません。自分の思うようにやりなさい、それがすべて正解であるはずです。滴、強いあなたによく似た女の子だわ。最後に会えて嬉しかった。親からもらった恩は子に返すのよ。 それから、お父さんと文月さんに感謝しなさいね。さあ、後ろを見ている暇はないぞ!早く行きなさい!』


 日向は今までの事をすべて理解した。


『そうでしたか、ママンが身代わりをされたのですね』


 周囲を見回すと滴が階段に座り込んで泣いている。


 日向は、すっと立ち上がると、落ち着いた足取りでゆっくり滴に近づいた。


『姉さんは、休んでいてください』


 階段に座り込んでいる滴の横を通り、一階のドアに手をかけると、振り返り


『おや、文月は鍵をかけましたね。あの方は何を考えていらっしゃるのでしょうか?ここでは外の感取が出来ませんね』


 少しだけ困った顔をした。滴は日向を見上げ『ええ』と、頷くと日向は


『それでは、外の様子を見て来ましょう』

『着替えを持っていけば?』


『ええ、そうですね。そう致しましょう』


 用意が出来ると、滴に穏やかにほほ笑みかけ、静かに湧水槽に入りそのまま潜っていった。


『母さん、やりすぎましたね。あなたの息子は行ってまいります』


「泳ぐことも出来るようになりましたね」その様子を見ていた滴はつぶやいた。



【日向は】


 湧水槽の底から湧水路の出入口に向けて、静かに水中を自由に泳ぎ潜った。


 狭いところが続いている場所をいつもなら、這いずるように移動していたが、難なくすり抜けるように、流れに身を任せていた。


 霊の窟まで来ると白イワナが待っていた。


『ありがとう』


 日向は白イワナの鼻部分をコツンと軽く叩くと、白イワナは日向の周りをくるりと回転してゴムの杖をくわえると、かなりの速さで滝壺に到着した。真冬の滝は、白い氷が岩壁を覆い、水量も少ない。滝壺池は半分、凍り付いていた。


 日向は、また滝壺にもぐると

『一か月くらいたっているのでしょうか?二月の風景です』


 すると、白イワナが寄って来て、ゴムの杖をくわえると祠に向かって泳ぎ始めた。


 あさぎ池から顔を出すと、日向はゴムの杖を右手に持ち、左手のダイバーグローブを口でくわえて脱ぎ、鍾乳洞のような壁に直接、小さく危殆を打ちその反動で階段を使わずに、祠の中の湧水槽へと上がっていった。


 積雪の中、祠の中の水面は薄氷におおわれ、そこに緩やかな光が混ざった暗くなりかけている外が映った。二月の山はかなり冷え込む。


 薄氷のないところから左手を出し、軽く危殆を打つと水面上の氷が割れた。眠りについていたブナの木々が、水面に日向が出て来ると同時に起きて騒がしくなった。沢山の感放が日向に集中した。


 日向はゆっくり祠から上がりながら


『そうです。私たちが引き継ぎました。なにがあったのか教えて欲しいのだが』


 そう言うと『水の中の方が暖かい』と水中に一度潜った。



【しばらくすると】


 光が引いていく水面にあがった日向は、沼田が蛇に咬まれ亡くなった事を知った。


 沼田はことの重大さに、気が付くが、ホワイトアウトに遭遇してしまった。

 救急車が立ち往生し、間に合わなかった。


『うぶすな神の逆鱗に触れた?とはどういう事でしょう』


 しばらく日向は周囲を探っていたが


『わかりませんね。本人に聞いてみましょう。しかしどの神も最初から神自体が傲慢で残酷なわけではないのですが…。決して満足しない身勝手な人間の欲が傲慢で残酷な神の行為の引き金を、引かせてしまいます。なんとも人間とは罪深き稚拙な生き物なのでしょう』


 とため息をついた。


 ゆっくりと着替えると、二月の新雪が重なった深く白い山間を歩いて、泉の屋に向かった。



【玄関の引き戸を開けると】


 いつもと変わらず家の中は暖かい。エントランスで雪をはたいていると、その音に、さつきが飛び出して来た。


「赤毛の兄さん?どうして?なんか違うような?あれ?本当に?地下室で寝ていたでしょ。幽体離脱したの?」


「幽体離脱!新鮮ですね。おお、そうでした。さつき氏は知りませんでしたね」

「なにが?」


「私は外からも帰ってこられるのです」

「はあ?お前、誰?なんか違う」


 さつきは後ずさりし、それをみた日向は微笑んだ。


「おーこわ!ほんと誰だよ。勝手に家にいれないぞ!身元をあかせ、赤い髪の親戚か?おい、なんとか言えよ!絶対に家に入れないぞ、身元をあかせないのなら帰れよ」


 さつきはキャンキャンと吠えるようにまくしたてた。


 日向は悠然と雪をはたき終わると思い出したように


「そうでした。滴お姉さんも起きていますよ」


 まるで付け加えるように言うと、さつきは、飛びあがるように地下室に駆け込んでいった。滴も日向もいっぺんに雰囲気が変わってしまっていた。


 落ち着いた物腰に、柔らかな物言い。優しい笑顔。どんな事にも怒らないような感じだ。さつきは、滴に飛びつき、すがりついた。


 ガラス部屋のベンチ椅子で、日向が休んでいると文月がおじい様のところから帰って来た。文月は叱咤しながらリビングに入って来た。


「さつき、さつきどこにいるの?きちんと留守番をしないとダメでしょ」

 

「文月」


 優しい声がした。文月はすぐに日向の声だとわかった。あたり周辺を忙しそうに見回すと、やわらかい光のようにベンチ椅子に座っている日向と目があった。



【日向…】


 声に出すと、文月はその場で崩れ落ち泣いた。


 日向は琴絵ママンの部屋から毛布を持ち出すと、泣き崩れる文月にかけ、その上からまるで幼子をあやすように、背中をやさしく慰めた。


 文月は泣きとまらず、さらに激しく日向にしがみついた。


 日向が右手を出すと、文月はしゃくりあげながら左手を重ねた。日向はすぐに、うぶすな神の逆鱗に触れたという意味を理解した。


「よく頑張ってきましたね。えらかった」


 日向がするはずだった、神の選択を文月が変わってくれていたのだ。


 文月は、人間である自分が人を殺してしまった事には、かわりがないと苦しんでいた。その緊張の糸がプツンと音を立てたのだ。


 日向は文月の思いの丈、全てを受け取っていた。


『文月さんが帰って来たの?泣いているの?よっぽどつらかったのね。こちらも泣いているわ』


 滴の思惟が入った。


『二人で頑張ったみたいですね。感放がはずれた状態では、監視を逃れる事が出来ない事を知っているので、私たちと一緒にここに籠っていたようですね。買い物もろくに行けずに大変だったのでしょう』


 しばらくすると、落ち着きを取り戻し始めた文月が、思惟で聞いた。


『日向、からだは?』


『ええ、実は、骨がんによって溶けた骨の修復を諦めていたのですが、母が身代わりをしてくれたおかげで…』


「母?!主は誰じゃ!??」


 悲鳴に近く叫ぶ文月が日向から、からだを離した。



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