第10話 水の章

【三日後に】


 意識を戻した日向が『文月は?』と琴絵ママンに聞いた。


『うん、日向が引き受けたから、随分とさっぱりしたみたいだよ。年相応の女の子みたいに、ピカピカしている』


 しばらく考え込んでいた日向が


『文月の腕を掴むつもりが、滑って…』

『わかっている。文月さんに、少しずつ話をしないといけないよ』


『だね。あのさ、ママン、文月の下腹の傷は火傷なのだ。それも同じところを何度も、何度も、幼いころから、ずーと。傷が治りきらないのに、何度も、何度も、苦痛で歯もひどくボロボロでさ。からだを傷つけられ、心を縛られて二十年間も恐怖で精神を犯され続ける。地獄よりひどい仕打ちを母親から、受け、耐えてきた。その素振りひとつ見せなかった、あの子が信じられないよ?おくびにも出さない事が痛々しくて、切ない。人間はどこまで残酷な事が出来るのかな。ムンクの絵のようなイメージがグルグル高速で回りながら飛んで来て恐ろしかった』


『そうね。苦しい、つらい、悲しいと言葉にするけど、言葉に出来る人はまだいいのかもしれない。文月さんのように心を殺し、言葉を失い、明日を捨てればどんな苦痛にも耐えられるだろうけれど、それでいいのか、私にはわからない。私たちは、見えないその痛みがわかるけど、見えない人が殆どでしょ。それをどう理解するかは、君しだいだよ』


『ねえ、画家のムンクって、俺らと同じなのかな?この世界に仲間はいるのかな?』


『さあ、どうだろうね?文月さんの痛みは、私も、君と同じように、ムンクの絵のようなイメージに全身がおおわれて、ひどい乗り物酔いをして、吐き気とめまいで、立っていられない感じだったわ』


『自分で選択した結果の苦痛は、ここまでひどくない。人権も痛みも無視されて、苦痛だけを与え続けられる奴隷船のようだけど、二十年も同じ痛みの中で、人は生きられるのだろうか?想像ができない。三日間も意識を失い、まだ傷も治らない思惟のダメージなんて、めったに経験しないよ』


『君だから、これくらいで済んでいるかもね』

 琴絵ママンは申し訳なさそうな顔をした。


『どうして、文月はあんな状態だったのだろうか?豪族の末裔で集落の生き神のはずだろ?』


『そうね。どうしてかしら?戸和が死んで、祠で住み始めてからの豪族や姫の記憶はないのよ。ただ、あの集落は落人伝説があって、この辺でも集落以外の人を寄せつけない、独特な風習があるって感取したことはあるけどその話は知らないよ』


『俺も、文月に少し聞いた。集落の各家庭には浴室がなくて、集落の浴場は老若男女問わずに、集落で生まれた者だけが入れる、混浴施設があったり、うぶすな神の神事があったり…』


『あ~。そうだったね。私は文月さんと集落の話をしたことがないわ、野菜の漬け方の話をするくらいで、さほど親しくはないのよ』


 ため息をついた。そして琴絵ママンは、しょうもない子だという雰囲気を醸し出し日向を見て


『普段なら、私たちが文月さんの細かい事情を、知る必要はないと思うけど、豪族と姫の子孫だったら無関係という訳には、いかないかも知れない。文月さんが、自分で浄化しなくちゃいけないものを解き放ったり、誰かみたいに酷い言葉で怒鳴ったり、化け物扱いしないで、心を開いてくれる自信があるなら聞いてみれば?』


『化け物…。傷つくわ~』日向は頭をかかえ

『俺、ほんとに悪いことをしたな。あんなに怒鳴らなければ良かったな』


『ほんとだよ』

『彼女は、どうしている?』


『それが、君が水中で意識を失っている間に、文月さんに手伝ってもらって、日向の介護をしていたの。その時に水中で寝ている事や文月さんの傷が君に移動している事を見せたのね。だけど、私に聞いてこないのよ』


『きっと、感放感取が殆どないから、そんな事に動じない子なのだよ』


『そうかしら?それ以来、文月さんの様子がおかしいの。時々様子を見るような目つきで、日向や私たちを見ているから、きちんと話をした方がいいと思うのね』


『俺がつらそうだから、遠慮しているのかな?』


『さあ?彼女はあなたの事を、どう理解しているのかしら?暴言は吐くし、傷は移動しているし、きっと、君の事を人間じゃないと思っているわよ。人間じゃなければ、相手にできないよね。普通。完全に振られた?』


『人間じゃあなかったら、なんだよ。吸血鬼?オオカミ男?ゾンビ?あんたは人間じゃない奴の母親か?』


『私、別に振られてもいいもん』


『くそ、わが、母親ながら、むかつく』


『まあ、今のところ逃げないでいるみたいだから、ゆっくり、優しく、言葉使いに気をつけなさいね。優しくよ!』


『は?俺は本来、優しい人間だ』

『はいはい、まあ、頑張ってくださいね』


 地下室から出ていこうとする後ろ姿に向かって、


『ママン、もう一度、この能力の話を聞かせてよ、聞きたいよ』


『うん?いいよ。やっと、聞く耳をもったかな?もう少し体力が回復したら、ゆっくり話をしようね。これも文月さん効果かな?』


『うっせい、あんたは余計な一言が多すぎる』



【数日後】


「みんな、全部知っているの?琴絵ママンさんも、滴さんも、全部知っているの?」

 悲しそうに文月が聞いた。しかし、怯え嫌っている様子は見えない。


「うん」

「なんか、複雑」


「そうだろうな」

「繕いだっけ?」


「うん」


 地下室から、出られるようになった日向は、ウッドデッキに出て秋深い十一月の穏やかな日差しを浴びていた。繕いをしてからの文月は、今までのような、人を寄せ付けない他人行儀な話し方をしなくなった。


 何も訊ねずに、地下室の日向の傍を離れずに時間を過ごして来た。そんな文月に、日向は最低でも思惟を、受け取った事だけは話して起きたかった。


「おじい様から、戸和が軍平や豪族の傷を自分の身に移していた事を聞いていたから、日向のからだに私の傷が移って、ああ、やっぱり戸和の一族だって思っていた」


「そう。俺が水中で、寝ているところも見たの?傷も?」

「うん」


「どう思った?」

「戸和の最後も聞いていたから、戸和の一族だったらそんな事もあるかな?って思っていた」


「それだけ?」

「うん」


「そうか」

「でも、知りたいことは沢山ある」


「いいよ。何でも聞いて、俺でわかる事は教える」

「さっき、みんな知っているって、言っていたけど…。どういう仕組み?」


「仕組み?そうね。多くは、記憶、思惟、潜在意識、感情が織りまざって、言葉となる。だから、考えている事と違う言葉が突然に出て慌てる事があるだろ?」


「うん、あるね」


「もちろん記憶、潜在意識、感情も思惟に複雑に影響を与えるけれど、それらの中で、思惟だけは、根本的に本人の意思がある。個人差はあるけれど、その思惟を人は受け取ったり放ったりしている。俺と琴絵ママンと滴姉ちゃんは、思惟の感取放が人よりも非常に強く過敏だから、思惟で会話が出来るのだ」


「琴絵ママンと滴さんも?」


「ああ、そうだ」

「正敏父さんは?」


「とうさんは過敏じゃないよ。だから…」

 


【日向は少し考え、話し出した】


「まず、本来だったら、どんな状況でもママンや滴姉ちゃんと、思惟の調節が出来るはずだ。だから、受け取った思惟が流れる事はないと思うのだけど…。だけど落ちた時、俺はママンと滴姉ちゃんと感取放で繋がって思惟で話をしていた。チャンネルを途中で切り替えるのはとても難しいし、あの時、体調が万全でなくて、チャンネルを切り替える事が出来ずに、受け取った思惟が全部流れた。わかるかな?」


「他人と気持ちを共有していたの?」


「気持ち?そうね。気持ちは記憶、思惟、潜在意識、感情を全部まとめて、気持ちと言うのではないのかな?思惟だけを独立して考えるのは難しいかな?俺らには当然の事でも、文月には経験がないからな…。それにあの時、思惟だけではなくて過去の記憶まで流れて来た。過去の記憶を繋げられる事は、今まで無かったから、俺も焦った」


「全部、筒抜けなの?」


「あれが全部の記憶なのかな?それは俺にもわからない。探って記憶を取って来るのではなくて、あくまでも受け身だから…」


「何を話していたの?」


「えぅ」


「だから、ママンと滴さんと感取放で繋がって何を話していたの?今までもそうなの?」


「えっ」

「内緒話をしていたのよね」


「内緒話?」

「言葉ではなくて思惟で話が出来るのでしょ」


「うん、そうだね、内緒話ではなくて」

「私の怪我やおじい様に連絡をとるかどうか、相談していたでしょ」


「なんで、知っているの?」

「どうやったら、それに参加できるの?」


「えっ?」

「繕いをすればいいのかな?やって」


「怪我してないでしょ、本来、繕いで思惟は読めない。思惟を読むのは感取放だから」


「どう違うの?」


「繕いは、怪我や病気を自分に移す事。感取放は思惟を受取ったり、放ったりする事。右手で触ると繕い。感取放は何も作業がいらない。勝手に入って来る…」


「ふーん。勝手に入ってくるんだ」

「じゃあ、私の思惟も読めるよね」


「それがね。読めないのね」

「なんで?」


「僕らは感取放が超過敏で、文月は殆どない」

「殆どないの?私」


「そうね。ないね」

「どうして?」


「姫が無かったみたいなのだ」

「私の先祖?」


「そう、どうして、あの時に出来たのか、わからないのだよ」

「なんか難しいよ。言っている意味がわからない」


 そう言って、文月はガラスの部屋に入った。



【おねえ様が、馬鹿だからな】


「さつき!」


 文月の後を追うように、ウッドデッキからガラスの部屋にはいった日向は、驚いた。


 まったく思惟がない若い男が、滴の首に両手を絡めて、ぶる下がってニヤニヤして立っていた。日向は初めて、この男の存在を認識した。滴に思惟で聞いた。


『誰?』

『文月さんの弟、さつきくん』


『ほー。これまた凄いな。まったくわからなかった』


「お、赤毛の兄さん、初めまして」

「弟さんだよね。会うのは初めてかな?」


「なんで、お前がいるのよ」


「おねえ様、少し考えればわかるだろ。お前が怪我して繕いを受けたら、素性がばれるだろ。ここのおとうさんがおじい様のところに事情を話しに来たよ。それで、俺はアホな、おねえ様の為にここに居てあげているのだろ?」


「はあ?ふざけるな。居てあげている?」


「お前、少し変わったな。でもさ、マジに気が付かなかったの?おねえ様が繕いを受けた翌日から、この家に出入りしている」


「文月は本当に気が付かなかったの?」日向も聞いた。


『怖いな、姫の子孫』日向は唖然とした。


「信じられない。あんたが出入りすれば集落の人間が、気が付くでしょ」


「僕も泊まり込みだから、大丈夫」

「はあ?学期末試験は?」


「ああ、高校は行っているよ。優しい滴さんに送り迎えしてもらっている。ずーと一緒だよね。滴さん」滴にべったりとくっついた。


「滴さん、甘やかさないでください。こいつどこまでもつけあがりますから」


『姉ちゃんより、きついかも』日向は滴に思惟で話しかけた。滴はすんなりと

『姉弟はね。こんなもんだろ』


『いや~、また破天荒な。姉ちゃんも、なにそれ、高校生にべったりくっ付かれているその姿が笑えるよ。勉強になるな、この人たち』



【部外者は口を出さないで】


 文月はさつきに詰め寄った。


「部外者じゃないだろ。僕だって豪族と姫の子孫で将来の棟梁だ。戸和の末裔が存在していれば、知る必要がある。それにしてもおねえ様は凄いよ。ビンゴだぜ。おかげで僕も人生が楽しくなってきた」


「さつき!」


「まあ、まあ、おねえ様。さっきの話を僕が解説をしよう」

「なんで、あんたが解説出来るのよ」


「ここのおとうさんが詳しく仙才鬼才の事を教えてくれたよ。つまり、浅葱家に生まれた女性は感取放の使い手となり、男性は、繕い師となる。感取放は、思惟を受け取ったり、放ったり出来る能力。繕い師は、病気やケガを自分に移す能力。受け取った痛みは繕い師自身が消化しなければならない。ただし、死んだ人は生き返らせない。滴さん、これであっている?」


「浅葱家…」やっぱりと文月は思った。


「あっているけど、そういう事じゃないのよね。文月さん、そうでしょ」

 滴は、困った顔をしている。


「そうです。どうして思惟のやりとりに、参加できないかって言う事が大きな問題なのです。我慢が出来ない」


『?人と違うことに違和感がないのかな?文月にはそこが問題なのか…』

 日向は拍子抜けした。


「うん、わかる。疎外感があるよね。前に話した。虫の知らせ、以心伝心という言葉で表現される、誰もが備わっているこの能力にも個人差がある。という話を覚えている?」


「ええ、覚えています」


「私たちは過敏だけど、藤代家の人たちは、その正反対にいるみたいなの。おじい様もさつきくんも、文月さんと同じ。私達にまったく思惟が流れてこない。思惟を感じないの。姫もそうだったみたい」


「えー、滴さんなんの話し?ねえ、なんの話なの?教えてよ~」


 さつきが滴にまとわりついた。



【うるさい。お前は病気か?】


 文月がさつきの胸元をつかんで滴から引き離そうとした。

「文月さん、大丈夫だから、さつきくん、後でゆっくり話してあげるわね」


「うん、滴さん!お願い~」

「むかつく」


 さつきに、飛び掛かりそうな文月に


「文月、こっちおいで」


 日向が呼んだ。ベンチ椅子に座っている横に文月を座らせて、右手で文月の肩を抱いた。


「触っても、大丈夫なの?」


「うん、一度、文月に繕いをしたから、今は健康体でしょ。これから、触ってもいいよ」


 日向は右手のダイビンググローブを外した。


「ほんと?」

「ああ」


「僕も、僕も」

 

 日向の言葉にさつきが歓声をあげ騒ぎ、日向に向かって走り出しそうになった。それを滴は腕を掴んで止めた。


「あなたはダメでしょ。繕いは簡単に出来る事じゃない。ダメージが大きいから家族でも簡単にしないのよ」


「そうなの?」

「そう、君は私でいいのよ」


「はーい」


 さつきは、滴になつき、素直に返事をした。滴はさつきの頭を撫でながら、嬉しそうに日向の右手を触っている文月に


「文月さん、左手は絶対に触っちゃダメだよ」

「どうして左手はダメなの?」


 文月は日向をみた。日向は少し考えていたが思い切ったように


「丁度、さつきくんがいるので、見せようか?」



【日向は】


 立ち上がって、左手のダイビンググローブをはずして、ガラス窓の近くにみんなを誘導した。


「こうやってみると、なんとなくわかると思うのだけど」


 そういって、ガラスに自分の手のひらを映した。そして


「さつきくん。ガラスから十センチから五センチくらい間隔をあけて、片手ずつ、俺のように手のひらをガラスに映してみてくれるかな?ガラスに触ってはダメだよ。手のひらに集中してごらんよ。すると、どうなる?」


「別になにも変わらない」


「そうだよね。俺は、左手はガラスと手のひらの間が熱くなるけど、右手は冷たくなる。ガラスを触ると、左手の方は熱く右手の方は冷たくなっているでしょ?」

 

 さつきは日向の手近くのガラスを触った。


「本当だ」

「もっと集中すると」


 日向は無表情にガラスを見つめた。


「左手のひらから、もやもやと押し出されるように放射され、右手は掃除機みたいに吸い取っているのがわかるかな?」


 空気が対流するように渦を巻き動いている。


「うん!わかる」

 さつきは興奮気味に答えた。


「これのせいで、俺は誰にも記憶されずに生きて行く羽目になる」

 日向は、興奮気味のさつきを悲しそうに見て小さくつぶやいた。


 さつきは興奮して目を輝かせた。


「右手が繕いだろ?左手は?」

「右手は吸い取り直すけど、左手は触ったものを壊してしまう」


「壊すの?」

 さつきが引き気味に聞いた。その問いに日向は答えなかった。


「だから、毎日ダイビンググローブをしているのね」

 文月がダイビンググローブを日向に渡した。


「だね。うまく調節が出来ないので。暴走したら周囲が怪我をする」



【どうして話をしたの?】


 咎めるように滴が思惟で日向に問い詰めた。


『僕らの事を知らないと怪我をする。怪我だけで済めばいいけど、死んでしまう可能性だってあるでしょ。なぜか、文月は落ち着いているけど、さつきくんは、どう考えているのかな。姉ちゃんになついているから、任せるよ』


『わかった。さつきくん、悪い子ではないからね。しばらく様子をみよう。二人は今、好奇心の塊だから、納得するまで待ちますか?だけど不安だよ』


 

【それからというもの】


 文月はだだをこねていた。自分でもおかしいと思うのだが、どうしても一緒に揺らぎが見たかった。


 日向がいつも水の中から見ている灯の揺らぎが綺麗だと、さえぎられるのを嫌うのだ。その、ゆらぎを見たいために水槽に潜り込む。


「黴菌が入ったらどうするんだよ。オレは河童でも半魚人でもないから、どんな水でも大丈夫じゃない」


「それだったら、毎日最低でも一回は繕いをすればいいんでしょ。そうしたら、問題なくなる」


「うん?違うよ。わけのわからない事をいうな!」

 

 地下室で、そんな会話が頻繁に行われていた。中々、うまくいかないことに文月は、日向に聞くことをあきらめ、琴絵ママンにターゲットを変えて来た。


「琴絵ママン、日向はどこで寝ているの?」

「地下室じゃないの?いなかった?」


「ええ、姿が見えなくて、部屋にもいなくて」

「そう、なぜ探しているの?」


「寝床に忍びこもうと思って」

「え?文月さん、なにをするの?」


 最近の文月は幸せそうだ。以前のような能面みたいな顔ではなく、若い女性の無邪気で明るいオーラを発散させている。



【夜這い】


 琴絵ママンは、笑いながら

「夜這い?!でも、日向の場合は、夜這いは難しいかもしれないよ」


「泳いで逃げますかね」

「日向は泳げないのよ。説明が難しいけど、うまくやらないと逃げられるわよ」


「はい」

 文月は元気に返事をした。


『ああ、うまくやるつもりなのだ』

 琴絵ママンはひとり微笑んだ。



【地下室のドアが開く気配がした】


 思惟がないのは文月だ。地下室の湧水槽に飛び込んで日向は水の中に逃げ込んだ。

 文月の言動は琴絵ママンから思惟で送られてくる。


「逃がさないわよ」

 文月は階段を勢いよく降りると湧水池の中を覗き込んだ。


 しかし、いつまでたっても日向は出てこない。心配になって、水の中に顔を突っ込み始めるが、数分も呼吸を止められない。


 日向は、諦めるまで水の中で過ごそうと、湧水槽の底でフラフラと身を任せていた。突然に水面から真っ黒い塊が落ちてきた。


『なに?え!これ、あいつの毛じゃん。昆布か?』


『馬鹿だな。髪の毛を縛ればいいのに、それじゃ何も見えないよ。息も数分しか持たないくせに』


 そうこうしているうちに、水面が静かになった。


 水流にゆらゆらと黒く長く『海藻みたいだな』とゆらめく黒い物体をながめていたが


「え?おい、マジすか?文月。もう、やめてよ」


 慌てて水面に上がると、頭を水の中に突っ込んで文月が気を失っている。


『信じられない、もう嫌だ』


 手を胸に当てた。肺に水がいっぱいになった。日向は苦しさに思いっきり咳き込んだ。ゲボゲボと水を吐き出していると


「みーつけた!」文月が抱きついてきた。


「もー触るな。どうにかしろよ。何しに来た?」

「夜這い」


「はぁ?夜這い?今、昼間だろ」

「いいの。夫婦だから」


「あっ?いつ夫婦になったのだよ」

「このあいだ」


「いつだよ。訳がわかりません」


 父親の正敏とうさんが帰って来た。地下室のドアが開けっ放しで、下の声が一階にも響いて来る。


「なんかにぎやかですね、どうしたのですか?」

「文月さんが夜這いするって」


「あの子たち、まだ十代ですよね。しかし、夜這いが来てくれるなんて、羨ましいじゃないですか?なに、日向は拒否しているのか?だったら私の所でもいいけど」


「おとうさん」

 琴絵ママンが強く叫んだ。その、琴絵ママンの様子に慌てたように


「おーうい日向、アマゾネス軍団に一名参加をしたのですか?」

 地下室に向かって声をかけた。


「おかえりなさい」二人の声が同時に聞こえた。


「まあ、男は望まれて、なんぼですから。夜這いは歓迎したほうが…」

 正敏とうさんは笑った。



【研究室で会議が終了した滴から思惟が入った】


『文月さんって、可笑しすぎる。会議中に噴き出しちゃった』

『本当ね、私も大笑い。楽しかった』


『冗談じゃない』日向が怒っている。


『でも、まんざらでもないのよね。日向が』


『あの子が来てから、うちの中が明るくなった。吉兆かしら?姫は吉兆だと、言われていたと戸和の記憶があるわ』


『ママン、吉兆かどうかは、わからないけど、会話が増えて、笑う事も多くなったね』


『そうね。突っ込みとボケが面白いわ。漫才で売れるかも知れない』

『ママン、藤代家は人として進化しているのかもしれないね』


『どうして?』


『感取放が過敏すぎれば、振り回されることもある。文月さんみたいに、殆どないって、相手に振り回されずに、自分のやりたい事が出来ると言う事でしょ。進化した人たちだわ!ただ、本当は備わっている、恐れ、怒り、悲しみ、喜び、羞恥などの感情が伝わらないし、察知できないために、サイコパスと間違えられる可能性もあるわ。文月さんのおかあ様はどうだったのかしら?もし、同じであれば、文月さんの体の傷は理解が出来るかもしれない』


『文月のおかあ様の事は知らない。本人の話では、聞きたい事が山ほどあるみたいだけど、ある日いなくなって、そのままらしい』

 日向が答えた。


『そう、殆どの人は、頭の中で作りだした思惟を、感放する事で、精神状態を安定させているでしょ。それが出来ないのが遺伝的素質と考えると、私たちが想像するより、苦しかったかもしれない』


『それはかなり恐ろしい話じゃないの?』日向は心配そうだ。


『でも、遺伝的素質ってどうしてわかるの?』

『姫がそうだった』


『ふーん』


『日向、今度、機会があったら聞いてみたら?今はさつきくんも文月さんもこっちに来て、おじい様も寂しいでしょう。もし、おかあ様が帰って来たらとても幸せな事よね』



【夕方】


 地下室から日向が駆け上がって来た。そのうしろを文月が追いかけて、家の中を大騒ぎで駆け回っている。


 ガラスの部屋のベンチ椅子の所で捕まった。文月は、日向にまたがって抑え込んで、日向の洋服の中を覗いている。滴が笑いながら


「文月さんは、なにをしているの?」声をかけると、日向が


「姉ちゃん助けてくれ、文月が、ウロコがあるはずだってくすぐったいよ。あはは」


「文月さん、ウロコを探しているの?」

「ええ」


「どうして、ウロコ?」

「おれ、河童でも半魚人でもない、人間だって」


「いや、どうかな?」

「やめろ!パンツの中は、やめろ」


「どうして?ウロコがあるかも!」

「文月ちゃんって、弟の面倒を見てきた人?」


「はい」


「なるほどね。私も弟のパンツを脱がすのはどうって事ないわ」

「ですよね、パンツがどうした」


「おかしいよ。二人共、ママン助けてよ」


 琴絵ママンが思惟で答えた。

『がんばれ!』


『おい、みんなおかしいよ、俺、怒るぞ、怒っているぞ』


「本当にパンツ一つで、うるさいやつだ」

 あちこち覗いていた文月が、ため息をついた。


「なんだよ、文月、ウロコが見つからないってか?それがそんなに残念か?」

「信じられない」


「俺が怒っているのが、わからないのか?」

「わからない」


「申し訳ないと思わないのか?」

「だって日向、怒っているけど怒ってないもん」


「くっ」

 

 滴が笑っている。日向は「むかつく」と文月の手を振りほどこうとするが、文月は腕まで絡めて来る。


「同じ人間なら湧水路に私も行けるよね、行きたい」


「無理だよ。金属がダメだから酸素ボンベは使えない」

「だったら、空気は日向から、もらえばいいよね」


「お前、なにを言っているの?」

「マウスツーマウスで」


「そんな、恥しい事はできないでしょ?ちょっとやめてよ」

「どうして?」


「空気を送ってくれたら、私も水中で大丈夫でしょ」

「あなた、今、何も考えないでしゃべっているでしょ」


「なにが?」

「キスするのですよ」


「いやー。キスって考えすぎですよ。百歩ゆずって、夫婦だからいいでしょ」

「夫婦ってなんだよ。おかしいよ。俺だって男だぞ」


「知っているよ」

「ほんとかい?」


「よくも恥しくもなく言える」

「全然、恥しくない」


「俺は恥しい」


「シュノーケルとゴーグルがあればいい?」

「冗談じゃない、吐く息は二酸化炭素でしょ」


「へへ、人間の吐く呼吸に、二酸化炭素の含有量が多少増える程度くらいは知っているよ」

「多少って」


「長時間でなければいいでしょ。そうだ!私が泳ぎを教えてあげる。いいよね。いいでしょ」

「なにを考えているの」


「そうだ、足ヒレを買ってこよう!」

「おい!」


「おそろいがいいかな?」

「おい!」


「そうだ、それがいい。正敏父さんにお願いして、さつきに連絡をとってもらわないと」



【おねえ様、うるさいよ】


 文月と日向が大騒ぎしていると、さつきが二階の滴の部屋から顔を出した。その声に不思議そうに、あたりを見回していた文月が悲鳴のように叫んだ。


「あんた、そこで何をしているの?」

「おねえ様がうるさいからさ、俺の事呼んだか?」


「そこ、あたしの部屋なの?」

「違う滴さんの部屋だ」


「なんでそこにいるのよ」

「おれ、最近、滴さんの部屋に住んでいるのを、知らなかったの?」


「はあ?」

「だって、おねえ様だっているのに、俺がいけない理由はないだろ」


 文月は驚いて日向を見た。日向は黙ってうなずいている。


「知っていたの?」

「知っていたというか、母さんたちからの思惟は受けていたよ。君、知らなかったの?」

 

 文月の顔が真っ赤になった。


「ちょっと、さつき」

「なんだよ。何を買って来るんだよ」


 文月は、さつきに怒鳴ったものの、買い物の話を出されてすぐにクールダウンした。


「あ、買い物ね。買い物は足ヒレ」

「足ヒレ?フィンの事か?」


「そう!」

「なんで?」


「日向に泳ぎを教えるの?」

「赤毛の兄さんは泳げないのか?」


「そう、だから買いに行くの」

「だけど、なんで俺が行くんだ」


「荷物もちだから」

「いつ?」


「いまから…」

「はあ?」


 文月は、さつきを引っ張るように、出て行った。



【文月とさつきは】


 買って来たシュノーケルやフィンをつけて騒いでいる。


「どうして、そんなにこだわるの?」


「私も見たい。浅葱色。白い竜。泡水。白い地表。オレンジ・赤・黄色」

「なんの話?」


「日向が綺麗と思っている世界。モネ。ベンチ。階段」


『姉ちゃん、なにか知っている?』

『わからない』


「文月とにかく無理だよ」


「なんで」

「水が汚れる」


「なんで、一緒はダメなの?」悲しそうに文月が聞いた。


「そう言う事じゃないよ。それは、君がうらやむようなものではないよ。人間の進化の途中でなくなるはずのエラが二~三歳で形成され、十代になると睡眠は水中でしか出来なくなってしまう。だから、地下水から汲み上げ、ろ過して純水にした水槽があるの」


「わざわざ、ろ過して純水にしているの?」


「感取放に悩まされないために、電気を通さない環境が必要なのだ。山からの湧水に入っているミネラル分をろ過して純水にしている。それに、雑菌の感染も注意が必要だしね。俺、からだが弱いし、それに泳げないし」


「日向って、からだ弱かったの?繕いが出来るのに?」


「いちいち、うるさいよ」

「だから、泳げるようになろうよ」


「おい、泳げないとだめなのか?」

「そーか、泳げないと言う事は、溺れるの?」


 気が付いたように文月は納得し、日向は馬鹿にされた気分でイラついた。抗議するように


「水中でも呼吸が出来るから、溺れる事はない。身動きがうまくできないくらいだ。問題はない」


「日向、水の中で呼吸できるなんて、凄くない?人と違うって素敵だよね」

 

 文月がにっこりと笑った。しかし、日向はひどく不愉快そうに


「それだけならいいけど、睡眠状態になると、鰓呼吸、つまり第三の呼吸器官でしか呼吸が出来ない。水の中でしか眠れない。昔は、河童や龍、人魚にも間違えられた。沢山の人を助けても、妖怪とか化け物として扱われる。悲しい人なの、俺は。人と違う。一緒とか簡単に言わないでよ。うちの家系は男の子は一人しか育たない。男の子が何人生まれても、結局、一人しか生き残れない。生き残っても短命。そういう家系なの」


「寝る時は、水の中なの?治療のために水の中に入っていたのではないの?…。戸和もそうだったの?」



【違う】


「戸和の子孫がそうなの」滴が答えた。


「どうして?」

「どうしてって、私たち一族では、あなたの先祖のせいだと、伝わっているのよ」


「どうして?」

「姉ちゃん、余計な事言うなよ」


「私たちが能力の事をなぜ口外しないか?わかるでしょ」

「わかりません」


「能力が強くない者達の勘違いした言葉が、世の中に蔓延している。我々が誤解されても釈明の方法がない。その中で権力者や政治に利用され、捨てられてきた歴史があるから口外をしない。私達には、第三の呼吸器も感取放も繕いも命がかかっている事なの。あなたの言動で、私たちが死ぬ事になるのよ」


 滴の言葉はきつく尖っていた。キッチンから出て来た琴絵ママンが


「滴、そんなに、衝撃的なものいいをしなくて、いいでしょ。文月さんもさつきくんも、少しずつ理解してくれるわよ。いい機会だから、日向も聞きたがっていた能力の話をしましょうね」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る