第9話 切望の章
車を降りた日向の父親、正敏父さんは空を見上げて深いため息をついた。それにつられて文月が車の中から外を見ると、霊ろ刻にエンジに近い赤に染まっていた空はすでになく、沈みこんだ青黒い雲と大粒の雨で視界が狭くなっていた。
となりの座席で凍えた文月を抱きしめていた日向の母、琴絵ママンが泣き止まぬ子をあやすように、文月の肩を撫でた。
文月は日向に会える期待で日向の両親が自分を呼んでくれたわけも気にならなかった。
【ちょっと、待っていて、そのまま家に入るから】
そう言って、正敏父さんはその大きな黒っぽい岩の引き戸を開ける。土間に真四角なブロックガラスの壁。その壁にはセンス良く所々にオイルランプが飾られている。
素敵な空間が正面に見えた。思わず文月は
「可愛い、すごくおしゃれです」
目を輝かせた。
「ありがとう。ここが家なのよ」
琴絵ママンが優しく微笑む。正敏父さんが土間に車を入れると、バスタオルと毛布を持って滴が隠れるように立っていた。
『二階の日向の部屋の、隣のゲストルームに着替えを用意しておいた』
思惟で琴絵に伝えると、琴絵ママンはちらっと滴の方をみて少し笑った。
『さっきまであんなに反対していたのに』
正敏父さんが木製のガレージ引き戸を閉めている。
「あっ、こうなっているのですね」
「ええ」琴絵ママンは笑顔で答えている。
「右側に玄関が、ございますのね」
「ええ」
文月は、滴に気が付くと、ペコリとお辞儀をする。滴はバスタオルを文月に渡しながら、こっちと手招きした。素直に滴の後ろに付いて行った。
「濡れているからそのままリンネ室に入って、暖かいココアを飲んで」
ガレージから、廊下に出ると、さっきのブロックガラスのオイルランプ灯が驚くほどの明るさで、廊下を照らしている。文月の後ろから、琴絵ママンがついて来る。廊下の左手と右手奥にもドアがある。
「右手の方はリビングに続く扉、これから行くのはリンネ室」と、言って、琴絵ママンが文月の肩を優しく即した。
深い森と一体化している日向の家の周りをガザガザ、バタバタと音がして文月が身を固め立ち止まった。琴絵ママンが優しく笑う。
「木々に囲まれていると、どんなに雨風が強くてもここは穏やかだから、てんとか、鹿とか来るのよ。うるさいでしょ。きっと台風が来るから家の周辺で雨宿りしているのね。雨が止むとリスが屋根で遊ぶから、もっと大きな音が響くわ。でも彼らが来ているということは、人間が近くにいないってことだから、安心してね」
「そうなのですか?」
文月は琴絵ママンの言葉に、今までの緊張感が少し取れたような気がした。
『琴絵ママンは、私が集落の人間に追われている事を、知っているのかしら?不思議な人だな』
土間続きのリンネ室に入ると、棚にタオル類が丁寧にお行儀よく並んでいた。
「タオルは使ったら、こっちの袋に入れて置いて」
滴にせかされるように、からだをふいた。かわいい木製の椅子に座りながら、一息つくがさっきから、いつ靴を脱ぐのか気になって、渡されたココアも落ち着かない。
「どうしたの」
琴絵ママンが声をかけた。
「靴」
「ああ、一階と地下室は靴のままでいいの。日向がいつも水浸しにするから」
「はあ?」
「ふふ、早く拭きなさい」
「はい」
数枚のタオルを使って体を拭くと、滴が毛布を巻いてくれた。
「落ち着いたら、着替えようか?」
即されたままリンネ室から出ると正面左手を指さして
「こっちが浴室。好きな時に使っていいから、使うときにママンか私に声をかけてね。使い方を教えるわ」滴が説明をした。
その浴室の脱衣場を通って、リビングに出た。とても暖かい室内。
広いダイニングを通ると、ガラスの壁に沿うように階段がある。階段下にはベンチ椅子が置いてあり、その横がドアのない部屋。その奥に部屋があるようだ。
気になって部屋の方を覗き込むようにみると、滴が
「奥の部屋はママンの部屋だよ。その階段下は、納戸になっていて色々な物がしまってある」
「ここから二階に上がるのだけど」階段下を指さして
「ここが下駄箱。このスリッパをあげるね。文月ちゃん専用。で、靴も濡れたから、床においておけば乾くよ。それでもだめならかまどの火であぶるかな?で、足のサイズはいくつ?これで入るようだったら、室内履きにするといいよ」
少しかかとのある、真新しいサンダルを渡された。靴を脱いで階段をあがると廊下が続く。いくつもの扉があるようだった。滴が、階段を昇った二階の手前の部屋を覗き込みながら、
「この部屋は空いているけど、出入りが騒がしいから奥の部屋を用意した。この突き当りは日向の部屋。その真向かいは私の部屋。その隣が、ここが文月さんの部屋」
「ここを使ってよろしくて?」
「狭いけれど、ベッドとチェストは置いてある。好きに使って。緊急だから私の洋服で着ていないものをここにかけておいた。下着もチェストに入れておいた。落ち着いたら買い物に行けばいいよ。何か必要なものがあったら言ってね」
部屋の窓を開けると、一階が見える。
「ここは土間の上だから、少し寒いかもしれない。毛布を一枚多めに置いてある」
床を見ると、すりガラスになっている。
「この床と天井は温水が流れていて、いつも家の中が一定の温度になっている。四角ガラス器のようなところに入っているのが照明。オイルランタンがトイレと各部屋についているから安心して使って」
「あ、あの、日向さんは部屋にいらっしゃるのでしょうか?」
「あ、日向ね。今は部屋にいない」
と言って、日向の部屋のドアを開けた。シンプルで何もない部屋だ。
「まあ、ここには、ほとんどいないから安心して、いっぱい、いびきをかいていいわよ」
文月をみると、優しくない笑顔を向け
「さて、ひととおり話をしたけど、わかったかしら?」
「えっ?」
「この家は電気を使っていないの。明るさを得るためにすりガラスなどの反射をいかして少ない光で最大効果を考えているのよ。エコ住宅ってところかしら。着替えて、好きな時に下にいらっしゃい。お腹すいたでしょ。いい匂いがして来たわね。今日のママンの夕食は何だろうね。お客様は滅多にこないから、初めてかな?正直な話。どうしたらいいかわからないのよ。だから、言葉で教えてね。文月さんの場合は考えても私たちに伝わらないからね」
【滴が真っすぐに文月を見た】
『ええ~?言葉以外にどうやって教える?ジェスチャー?か』
文月は思ったが、口にしなかった。それより滴に見覚えがある。滴は部屋を出ようとして、振り返った。
「私、日向の姉の滴。よろしく」
「あ、はい、よろしくお願いいたします。あの、滴さん、この間、祠でお会い…」
話の途中で滴は手を差し伸べて、言葉を止めた。
「その話はいずれね。質問はこれからも沢山出て来るから、焦らずにゆっくりしてください。それから一番重要な事!金属類は日向を苦しめるのね。チェストの一番下の引き出しにガラスとゴムの絶縁体で出来ている箱があるから金属のついている洋服は着替えて、そこにしまってね。あっその塊も」
すっぱりと言い切って、滴は部屋から出て行った。トレッキング用の上下は雨水を殆ど通さず。しっかり拭いたおかげで、もう半渇きだ。
「金属の塊って粧刀の事かしら?」
文月は首を傾げた。
「とにかく日向が苦しむなら仕方がない」
文月は、独特な日向の家の仕様もしきたりも、日向が見当たらない事も、祠であった滴も、わからない事ばかりだった。
しかし、なによりも、文月を日向が埋め尽くしていた。
普段なら疑問を持ち、抵抗のひとつもするところだが、今の文月は、会えなくなって随分と日が経っていた、日向が一番の気がかりで、不安ばかりが大きくなっている。
【一階に降りると】
リビングに食事が用意されていた。外は風雨が強く、ガラス窓にひっきりなしに大きな水滴を叩きつけていた。
「日向さんは?」
文月はリビングの中央にある、大きなテーブルに腰掛けていた滴と正敏父さんに聞いた。滴は無表情で答えない。すると、大きなテーブルの左手にある扉が開いて、キッチンが見えた。
キッチンは白いタイルのかまどが、とても美しくおしゃれに並び、暖かな薪の臭いと木製の調理台がとても似合っている。
思わず、文月は立ち上がると、キッチンに向かった。文月には、どれもこれも、物珍しく新鮮だ。かまどの前の小さな椅子に座り込んで、かまどを覗いている琴絵ママンがいた。
薪がパチパチと音を立てる。その音を聞いていると家出をしてからの不安が、治まって来て、少し幸せな気分になった。
【かまどの前で座っている琴絵ママンが】
隣に来た文月を見上げ、その質問に答えた。
「日向は地下の特別室にいるの。日向は、他の人と少し違った個性を持っていてね。今は水の中で眠っているはず」
「水の中で眠っていらっしゃる?」
文月は、水中のベットで呼吸器をつけて横たわる日向を想像した。
「とても具合が悪いのでしょうか?」
「どんな病気ですの?」
「会う事は出来ますでしょうか?」
「痛がっていらっしゃいます?」
「苦しがっていますのかしら?」
「目は開けていますか?」
「話しは出来ますでしょうか?」
「お医者様にはおいでになりましたの?」
「地下室はどこでしょうか?」
文月は自分の想像に、自分が脅かされ、焦った。
「文月さん、ここに座って」
琴絵ママンは、文月をキッチンから連れ出すと、リビングのテーブルに座っている滴の真向かいに、座らせた。
「落ち着いて、いっぺんに聞かれても答えられない。まず、ご飯をたべましょう」琴絵ママンは文月の髪をなでた。
「日向は、病気じゃないのだけど、今は壊れているというか…」
「そんな言い方だと誤解するでしょ。日向は人間だから、壊れたという表現は合わない」
滴が叫びに近い声を上げた。
「とにかく、今は会わない方がいいと思うのよ」
「参ります」
「落ち着いて聞いて!」
「参りますです」
「日向はね。生まれつき、色々な障害があってね。電気に弱かったり、水の中で過ごすことが多かったり、元気な時は、自分で調節が出来るのだけど、今はとても具合が悪いの。そう、日向の具合が悪くて、誰もそばに近づけない」
言葉は小さく苦しそうに琴絵ママンがうつむいた。その様子に滴は
「日向は地下室にいるけれど、うちの家族もドアを開けて様子を見る事ができないの」
「どうしてでしょうか?」
「うん、日向が持っている障害のせいかな」
「どのようにすれば、よろしいの?」
文月は悲しく訴えるように琴絵ママンを見つめた。琴絵ママンは意を決したように
「実は私たちにもわからない。だけどひょっとしたら文月さんなら大丈夫かもしれないのね」
「わたくしがですか?」
文月は家族でもダメなのに、自分が指名された事に驚いた。しかし、間を置かずに即答した。
「わたくし、参ります」
「そう、行くの。行く意思はあるのね。だけど、行くことは簡単ではないし守らなければならないルールもあるの。ひとつ、私の部屋から地下に通じるドアを開けて入ったら、すぐにドアを閉めて欲しい。ふたつ、あなたが自分の意志で出てこない限り、私たちが助けに行くことは出来ない。みっつ、何が起きていても日向に触らないで欲しいの、触る事で命取りになるかもしれない、必ず本人に任せて聞いてあげて。それでもいいかしら?」
「命取りになるって、そこまで悪いのでしょうか?」
「そうなの。あなたの行動が日向の命を左右しかねない。それでも行きますか?」
琴絵ママンは、強く深く沈んだ声で文月に確認した。文月は黙った。滴が、琴絵ママンに思惟で話しかけた。
『この子は、感取放がほとんど使えないのよ、忘れたの。感放が使えなければ、私たちの事を吹聴されても、どうにもできないのよ』
『わかっている。父さんとも話した。そうなったら、別の場所に移りましょう』
『何を言っているの、日向を今、動かせないよ』
『そうね。動かせない。このまま、なにも食べずに餓死するかどうかでしょ』
『そうよ、あの子に何が出来るの?』
『戸和の記憶が、姫と同じだと言っているの』
『姫と同じ?』
『そう、姫の子孫のあの子が、姫と同じと言っているの』
『日向を死に追いやる子なの?』
『戸和も姫に助けてもらったと、あの子が日向を同じように救えるかも知れない』
『そんな賭けをするの?』
『今はするしかないわ』
滴はどうしようもない不安と憤りで、悔しそうに文月を見た。
文月は、背筋を真っ直ぐに立ち上がり、迷いなく、しっかりと正敏父さんと琴絵ママン、滴を見ると「参ります」短く強く答えた。
【地下室の扉の前で】
文月は一瞬躊躇した。下には日向がいるはずだが、日向の家族に警告された内容が理解できず、見えない恐怖にドアノブを握る手が震えているのがわかった。
入ると言われた通りに急いでドアを閉めた。洞窟のようなスペースの壁は、わずかな明かりを吸収してキラキラ光っていた。
『戸和の墓の祠と同じだ』
階段の折口から下を覗き込む。小さなプールのような水槽があり、反対側にはガラスで仕切られたスペースにベッドやテーブル・椅子が見える。
階段を下りる途中で、日向の姿が見えた。ぼんやりと灯が水面を映す水槽の揺らぎの奥に、横たわっている日向の姿は恐ろしかった。
胸元が開いたスウェットスーツから、あばら骨が見えるほどやせ細り、まるで餓死した遺体のように見えた。文月の足は動かなくなった。
文月の知っている、何でも知りたがり「言葉にして!」という明るい日向はいない。
息が出来ないのか?どこか痛いのか?
恐ろしい形相の日向が水中で別人のように苦しんでいる。階段の途中で文月は動けなくなり、座り込んでしまった。階下を見る事も出来ず、しっかり手すりをつかんだ手は、汗ばみ、硬直している。
手足のすべてに自分の意志が届かない。何かが、きりきりと体を絞るように浸食してくる。自分の意志とは関わらず、涙がこぼれてくる。
心臓の音は体の外から聞こえる。すでに、自分自身が別の生き物のような気がした。日向は文月がいることに気が付かない。
水滴と水流が静かに漂っているほかに音はなく、すりガラスの天井から漏れる、わずかな光が日向の場所を教えていた。
文月が手すりにしがみついたまま、止まった時間が少しずつ、かすれて落ちて行くようだった。
どれくらいの時間が経っただろうか…。スウェットスーツの日向が、水槽から体を起こして座っている。
【あいつ、なにをやっているのだ?】
わずかな思惟でもピリピリと全身を刺すように痛む。その疲れで体の感覚すべてを失っていた日向だった。
文月が階段の途中で座り込み、手すりにしがみついている姿を見つけると、なんとか水中から起き上がり、それを眺めていた。文月を眺めているだけで、痛みでとがった気持ちが随分と和らいだ。
文月が日向に気が付いた。日向は文月を優しく見つめながら、弱々しく痩せこけた頬で微笑み聞いた
「いつから、そこにいた?」
文月は言葉を探したが、空っぽになった体には文字の一欠片さえ残っていない。言葉の代わりに、うわーと声をあげた。
そして、子供が大泣きしているように、しゃくりあげ泣き始めた。泣くことを知らない子だった。泣くことを許されていない子だった。
地下室に響く、自分の声に、自分でも驚いていた。そして、どうしてこんなにも揺さぶられるのか、自分でもどう納めたらいいのかわからず、止める事が出来なくなった。
日向は文月の声に驚いた。それ以上に、文月は泣くという動作に、思惟が混じらないのだ。初めての体験だ。確かに、文月は泣いている。感情を爆発させているが、思惟を発散させていないのである。
「うるせいよ」
日向が、けだるそうに声をかけると、さらに大泣きする。
「会えて嬉しいけど、驚かせないでよ。寝ていられなくなる」
色々と声をかけても文月は止まらない。
日向は、ふふっと軽く笑い、いつまでも大泣きしている文月の姿を見つめていた。
【一方】
状況がつかめず、琴絵ママンと正敏父さん、滴は落ち着きがなく家中をウロウロしていた。いくら時間が立っても、文月は出てこない。日向のいる地下室に文月を送ったものの、どうすることも出来ず二人に任せるしかなかった。
【日向はボーとしながら】
起き上がっていた。いつしか泣き止んだ文月は、空っぽのまま階段から一歩も動けない状態だ。地下室には日が入らない。日向も文月も時間の経過のない世界で、漂うように止まっていた。
文月が来てから、体が沈むような感覚が少しずつ薄れていった日向が、水槽からフラフラと幽霊のように立ち上がって出てきた。
「文月、起きているか?」階段下に行き声をかけた。
「腹減った。ママンに何か作ってもらって、持って来て」
そう言うと、水槽脇のベッドに横になった。
文月は「うんうん」と首だけ動かし、固まった体を少しずつ、ぎこちなく動かすと這い上がるように扉に向かった。
力が抜けた体は、扉を自力で開けられず、扉の内側でたたくように体をぶつけた。その音に滴は
「ママン、父さん出て来る」
叫びながら急いで扉を開けた。二人を心配して、交代で扉の前にいたのだ。フラフラになった文月は、滴の顔を見ると「お腹がすいたって」ぼそぼそと声を出した。
琴絵ママンと正敏父さんが走り寄って来て、文月を支え、ガラスの部屋のベンチ椅子に座らせた。
「日向がお腹がすいたって」滴が声を張り上げた。
「お腹がすいたって」
文月も、そのことだけを何度も呟いていた。正敏父さんは琴絵ママンに
「琴絵ママン、何か消化のいいものを二人にあげて、丸一日、地下室にいたから水も飲んでいないよね、待っていてね。今、持ってくるから」
琴絵ママンと正敏父さんは、小走りに土間のキッチンに向かった。
【文月が水を飲んで、落ち着くと】
「日向さんはどうしちゃったのですか?水の中で死んでいるかと思いましたわ」
正敏父さんと滴に、震えた声で、怯えるように聞いた。
「今、あの子は調節の効かないフィルターに苦しんでいる」
滴が答える。
「フィルター?」
「虫の知らせ、以心伝心という言葉で表現される、誰もが備わっているこの能力にも、個人差があるのね。百人いれば、百人の体力があるようにね」
「以心伝心?」
「私たちの家系は、この能力が非常に過敏な者が出てくるの。今の日向は超過敏になっている。望まないのに多くの人の思惟が、強制的に流れ込んでくる」
「思惟」
日向や琴絵ママンから何度か聞いた言葉だ。
「つまり思考のことよ。思考が凶器になって暴走している。いうなれば、日向は今、調節のきかない受信アンテナを持っていて、受け取りたくないあらゆる思惟が日向を蝕み、身動きが取れないの」
「テレパシーなのでしょうか?」
「あー。テレパシーとは少し違うかもしれない。これは特別な事ではなく、みんな能力の差こそあれ、持っているのよ。私たちはとても過敏な家系なの。過敏で生まれてくると、精神的にも肉体的にも、長生きが出来ずに亡くなる人もいるから」
「日向さんが過敏ということですの?」
「そう」
「過敏な人って多いのかしら?」
「人数はわからないけど、いると思うわ」
文月は滴の説明でわかったようで、わからずに混乱していた。
【文月が泉の屋にやって来てから、半月以上が立ち、日向は確実に変化した】
文月の顔を見ているだけで癒されるのだが、まだ、復帰しきれない日向に遠慮して、文月が後ろからそっと近づくと、日向は、大きな声で怒鳴った。
「てめい、このやろう 後ろから近づくな」
どうしてこんなに、汚い言葉で文月を怒鳴ったのか、自分でもわからず戸惑っていた。当然、日向は、浅葱家の女性軍から集中砲火を浴びせられた。
しかし、怒鳴られた当人は臆することなく
『私は、過敏な人にどう接したらいいのだろうか?』
そう思いながら、日々を過ごしていた。そして、遠くから日向を見ていたり、食事を運び、ベッドに手の届かない距離で並んで、座り、話しをしたり。さらに文月なりの努力をし始めた。
まだ、地下室から出られない日向だが、地下室のベッドで文月と話し込んでいる事が多くなり、食事も積極的にとれるようになった。なにより、地下室に文月以外の家族も入れるようになった。
感取放が安定してきて滴曰く、日向を取りまいている暗黒星雲のような塊が薄くなったと言う。文月は暗黒星雲のような塊はなんとなくわかるが、そのもの自体、全く理解できない。しかし、その訳の分からない会話を楽しんでいた。
なによりも、険がたちシワが深く、別人のようになっていた日向が、自分と会っていると穏やかな笑顔と柔らかさを取り戻す。その変化が嬉しくて、楽しくて、日向の側から離れられなくなっていた。
文月はこの生活が好きになって、気に入っていた。さつきから監視も弱まり、周囲の興味がそがれているから、当分行方不明としておくので心配ないと連絡があった。
大学にも行かれないままだが、休学届を出して、日向のそばにしばらくいる事にした。
滴は、なんだかんだと言いながら、文月の面倒をよく見た。
【文月は滴の運転で】
食料と衣料品の買い出しに下界に出かけた帰宅途中に、タヌキをよけて文月が怪我をした。急停車で、膝をガラス製のボードカバーにひどくぶつけた。
日向の乗る車は、ガラスとゴムがカバーとして使われており、一般の車内よりやや狭い。タヌキは何もなかったように走り去ったが、文月が膝のお皿を割ってしまった。
日向の繕いは、今はあてに出来ない事と文月に余計な不信感を与えないために、病院で太ももから足首までギブスで固めた。帰って来た文月の姿を見た、日向は茫然とした。
『なんだよ、文月が、なんで怪我をする』
『綺麗に膝のお皿が割れたから、手術しなくてギブスだけで済んだよ』
『そういう事じゃないだろ』日向はひどく怒って滴を攻めた。
『タヌキなんか、助けてどうすんだ!』
『カラスのえさに、なっちゃうでしょ』
『それの何が悪い』
『はあ?あの子は、文月に付き添っていた子よ。いわゆるあんたの恩人でしょ。あの子がいなければ、うちに文月を連れて来ることが出来なかった』
『あいつの子供を湖から拾ったから、そのお返しだろ。それにデッキの下で毎年越冬している。お互い様だ』
『でしょ。なのに、そういう態度な訳?』
日向は迷惑そうな顔をしたが、話題を切り替えた。
『で、いつまで文月はギブスするの?』
『一か月だって』
『一か月だったら俺の繕いの方が早いだろ。なんで病院へいった!』
『日向。文月に何も話をしていないのよ。突然、怪我が治ったら、それこそあの子にどうやって説明するの?』
『まあ、そうだけど』
『とにかく、面倒は起こさないでよ』
『うん』
『不服か?』
『いえ、姉ちゃんに従います。ところで、文月はどの部屋で寝ているの?』
『二階の日向の斜め前の部屋。私の隣』
『あそこまで、ギブスで上がれないよ。ここのベッドで寝ればいいのに』
『あんた、水の中で寝ている事をバラしたいの?』
『そうじゃないけど』
『大丈夫、琴絵ママンが、一カ月間ギブスが取れるまで、部屋を変わってくれるって』
『うん、了解』
『了解だって、嬉しそうに笑っちゃうよ。もう少しで餓死するとこだったのに彼女の心配か?日向の復帰が一番だから、文月さんの面倒は見るけど、すべてにおいて慎重にね』
『了解』
『あんたは、本当にわかっているのかしら』
『わかっているよ。だけどあれでは、下に降りて来るのが大変だろ?』
『降りなきゃいいよ』
『姉ちゃん、何を言っているの? 彼女がいないと俺また具合悪くなるよ』
『あほ』
【文月は骨折の痛みに加え】
ギブスは太ももから足首まで固定され、うまく歩くことが出来ない。家の中でも松葉杖をついて、地下室の階段も手すりにしがみついて、ひょこひょこと危なっかしく降りて来る。
危ないから、痛みがなくなってから降りて来てと、日向がいくら説得しても、聞く耳を持たない。暫く、横になると言って出て行ったのに、また降りて来た。
それに気が付いて日向が湧水槽の中から声をかけた。
「やめなさいって」
「うん、ちょっとだけ」
つらそうな顔で降りてきたが、階段の途中で足を踏み外し大きくバランスを崩し、前のめりに、腕を振って手を前に出し、落ちた。
とっさに、日向が湧水槽から飛び出し、右手で、落ちて来る文月の左手を掴んで自分に引き寄せた。
文月は、階段の手すりと日向の補助で転ばずに済んだ。繕いで思惟は取り込めないはずだが、文月の思惟が日向に飛び込んで来た。
「えっ」
恐怖と悲痛、絶望が混ざりあったその思惟は、日向を通して、滴と琴絵ママンも受け取っていた。
日向は文月の目を見ていた。その手を離すと足を引きずって、フラフラと自ら湧水池の中に落ちて沈んでいった。
何が起こったか、わからない文月は、固定された足を思いっきり地下室の階段にぶつけながら昇り、助けを求めて叫んだ。
【一階に上がると】
滴はリビングで、琴絵ママンはキッチンで倒れていた。
かろうじて、動ける琴絵ママンが涙ぐみながら文月を、やさしく抱きしめた。頭を撫で
「日向は大丈夫よ。ああ、よく、生きていたね。偉いよ」
「一度に知る必要はない。少しずつあなたが理解してくれれば、いい」
と、何度も文月にささやいた。
まったく事情が呑み込めていない文月は、地下室への出入りは禁止され、二階の部屋で待つように言われたが、なぜか嬉しかった。
日向が心配で仕方がないが、その気持ちとは別になにもかも、変わった事を感じていた。
【その夜】
文月は、日向の事を一晩中考えていた。いや、自問自答していた。
「なぜだろう。うぶすな神の重圧はどんな時もあったのに、とても軽いわ」
「それに、着替えの時に、伝説のうぶすな神の象徴であった、お腹にかけての刀傷と、奇跡を起こせなかったと、殴られた体中のあざ、膝の痛みがなくなった」
「おかしいでしょ?そうよね。おかしい。朝はあったもの」
「ついさっきまで、あんなに階段も不自由だったのに。階段を太ももから足首にかけてのギブスが邪魔なくらい。今は痛みがなく二階まで登れた」
「なぜ、急に琴絵ママンは二階の部屋に戻れと言ったのだろう。まるで痛みが無くなるのを予測していたかのようだった」
「日向が足を引きずっているようにも感じた。まるで、おじい様が言っていた傷を移す、戸和のような…」
「いや、そんな事はない。まさか戸和の子孫?」
「いやー、それは出来過ぎた話しだね。まず。ないよ」
「でも、戸和の墓で会ったのは、やはり滴さんではなかったのかしら?そうだったら、今、私は仙才鬼才の者と一緒に暮らしているの?」
「きゃー嘘―!」
「いや、あり得ない」
「でも…。最近、不思議な事が多い。監視の事も違和感がある。琴絵ママンたちが戸和の墓に迎えに来てくれたのも、なぜ?おかしくない?」
「そうよね、考えてみればおかしい。なぜ、あそこにいるのがわかったの?」
「偶然?日向や琴絵ママンと湖畔であったのも偶然?偶然が多すぎるかしら?」
「別荘地を、散々、探したからそうでもないか?」
「それに、あの光景はなんだろう。何が起こっているのかしら?」
【翌日】
琴絵ママンが文月に尋ねた。
「とてもいい顔色ね。気分はどう?」
日向に苦痛を取り除いてもらった文月は、無表情の能面のような顔から、穏やかで美しく輝いた表情になっていた。
「ええ、私は大丈夫です」
「人間って不思議よね、気は持ちようというけれど、現状は変わらなくても、自分で心にため込んでしまった、重しがなくなると、明日が見えてくるわよ」
「えっ」
「まだ、日向は寝ているけれど、後で一緒に見に行きましょう。ギブスは病院であまり早く外すと不審がられるから、私達で外しましょう」
琴絵ママンはニコニコした。
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