第1話 呪縛の章
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登場人物・霊ろ刻(ちろこく)物語 字引 (ブラウザのみ閲覧可)
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【その日の
薄暗い早朝から水中の
日向の住む泉の
水中のあさぎ池は、透明な滝の水に存在する微生物が、祠から入り込んだわずかな紫外線によって、薄いエメラルドグリーンで揺らいでいる。
幻想的だ。その水中の池は、そのまま滝壺と繋がっている。湧水と滝壺の水が混ざりあった流れは、標高が三十三メートルほど下の湖へ、地の中を這うように向かう。
泉の屋から、戸和の祠までの湧水路の水質は、無色透明の純水に近く、日向にとっては心地よいが、
日向は、あさぎ池を通り過ぎ滝壺近くになれば、地上の母親の琴絵と
日向は、赤いヤマカガシをかたどった、密着型フェイスプロテクションをしている。
そのフェイスプロテクションの頬横から出ているチューブは、日向が手にする、ゴム杖先についている実験用のフラスコのような形状のローソクランタンに繋がっている。
日向が呼吸をするたびに、そのローソクランタンに空気が送られ、ゴム栓の片方のガラスロート弁が開いて、泡が出て来る。ゴム杖の先端で、どんな状態でも上を向くように自由に動くローソクランタンは、水中でも電気を使わずに、あかりが使えるようになっている。
しばらく行くと、滝壺の底に入った。見上げると重たい滝壺に、水流が竜のような塊になって暴れている。水量が多い。
彼らが呼んでいる
それでも、地下の真っ暗な湧水路から見ると、その水面から薄く透けて外の光が小さく、月明かりのようにぼんやり見えた。
『滝壺の下に入ったよ。ママン夜が明けて来た?』
【その問いかけに】
地表にいる母の琴絵ママンは空をあおいだ。琴絵ママンは、駐車場から少し下ったところにある、滝に向かって一人で歩いていた。
『おい、空を見ても、思惟を送らないとわかんない。おい、だんまりかよ。返事ぐらいしろや』
琴絵ママンは足を止め、地中の湧水路にいる日向を気にする様子もなく、滝壺の手前で水音を聞いていた。
『水量が多いわね』
『やめようぜ』
『遅いわよ!』
『白イワナが寄り道ばかりしてさ。エビとかカニとかさ、食いながら来るから、あいつのせいだ』
『一緒に来た割には遅かったわね』
『途中から歩いて来た』
『まだ、水中を歩いているの?そろそろ泳ぎを覚えなさい』
『なんでだよ』
日向は家を出てから、ずっと、乱暴な口をきいている。文句ばかりだ。
『まったく、白イワナのせいじゃないでしょ。起きるのが遅いからいけないのでしょ。早く滝壺から出て来なさい』
少し滝壺のほうに視線を向け、琴絵ママンは母親らしい強い調子で伝えた。しかし、周囲では滝音だけが響き、親子の会話は聞こえない。
それもそのはずだ、この親子は思惟だけで会話をする。すなわち
【日向達は】
平安時代に
二度目は身重だった二十八歳の時に、瀕死の状態で捨てられて、命を落としている。千年以上も前の事であるが、戸和から始まる代々の記憶を積み重ねて、一族は生き延びて来た。
今は祖母の
滝音だけが響く中、地下の湧水路にいる日向は、琴絵ママンの叱咤に近いトーンに口をとがらせて不愉快そうだ。
『へいへい』とだるそうに、滝壺の大きな渦を避けて、水中の岩壁を登り滝壺池の水面に向かっていた。
その滝に注がれる川は、岩盤と子供の頭くらいの大きさの石の合間を抜けて、人の手の入っていないブナの森を抜け、イワナが住む清流と繋がっている。
この川は、滝壺の手前で三つの山の川筋が一つになり、水量が増える。さらに、どこかの山で雨が降ると水量が大きく変化する。
【三つの川筋のうちの一つに、落ち武者伝説のある集落がある】
その集落に住む、
この川筋は竜や
〈遥か昔に、戸和と言う、
今日、浅瀬を選んで川を渡る予定だった。この周辺では、ドクウツギは人が簡単に行かれないこの場所にしかない。
もともとは周辺の山のあちこちに散らばっていたものを、
熟した実は甘酸っぱくおいしいが、飲食をしてしまうと
毒性が強いために、山全体に広がらないように、熟す前に実を刈り取ってしまうのである。
平安時代の初めに、天皇の
キノコ類や山菜なども多い豊かな山のために、他県も含め横暴な人たちが、山に入り込み荒らして行く。
十一の山には、ハイキング・トレッキングコースを整備して、山道から外れないようにしている。
しかし、無許可で身勝手に歩き回る人たちが、間違ってドクウツギを食した場合には責任が取れるはずもない。
それなのに、こんな作業が必要なのは、
ドクウツギの刈り取りは毎年九月に入ってからの作業だが、山の秋は早いために素足に運動靴で渡れる水温のうちに作業を終わらせたい。
一度、深みにはまり川に流されれば、そのまま滝に落ちる可能性もある危険な作業だ。水量の多い時は渡れないし、川底は雨が降るたびに変わる。
さらに秋口の大型台風が来れば、川筋が大きく変わってしまう。
【だから、いつも慎重だったはずである】
なのに…。今日の
しかし、うぶすな神の
それが、今、川に流されている自分がいる。体は必死に生きる望みを探して動き回っているのに、頭の中では別の冷静な人格が、目に映るものや自身の解説を始めていた。
『うん?タヌキ?か?朝からタヌキか?』
『このまま滝へと向かって落ちて行くのかな』
『滝壺は深めのはずだけど、滝自体はごつごつした岩肌に沿って垂直に落ちている。ハイキングコースから離れているこの滝は、ただでさえ観光客が少ないところだ。夏休みも終わり、平日の朝早くに人がいる事は期待できないよ。このまま流されて落ちたら、頭は割れるだろ、痛いかな?死ぬのかな?でも…。死ねばすべて終わるかも知れない』
そう思うと不思議な安堵が全身の力を水に溶かし、体は誰かに運ばれているように木の葉のようにゆれ流れ滝壺に落ちたのだった。
【日向は、滝に落ちて来た人を気にしていた】
『ママン、大丈夫かな』
『大丈夫みたい、私は少し離れたところで様子を見ているから、日向は帰りなさい』
『でも…』
『白イワナの歯には触っていないのでしょ?』
『もう少しで白イワナが飲み込むところだった、僕が水に入った音で驚いてやめた。白イワナの歯は鋭利だから触ったらこの滝は血の海だ』
『白イワナにとっては、ただ上から餌が落ちてきたから、習性で飲み込もうとするだけですものね』
『うん』
『なんで、白イワナが出てきたの?』
『腹が減って僕のあとをついてきたみたい。時々腹が減ると僕について滝壺に来てご飯を食べている。この間はきつねを食っていた』
『あら、いつも来ていたきつねの子、突然いなくなったと思ったら白イワナのご飯になったのね。体が大きいからお腹がすくのね』
自然の
【日向達はただ、命は命で成り立っているとしか考えない】
『繕いをしようか?』
『白イワナの歯には触っていないし、大きな怪我をしていないみたい』
『滝から落ちて来たのに?』
『気を失っていたのかしら?体に力を入れないで流れに身を任せると、あまり大きな怪我にはならないけど』
『どんな状態だったのかな?思惟が読めないぜ』
その事に琴絵ママンも気が付いていた。
『今日は車で来ているから、様子をみて送って行くから安心しなさい。日向、偉かったね』
その琴絵ママンの褒め言葉に、日向はにっこりと嬉しそうに幼子のような笑顔が洩れた。日向は、素直にそのまま滝壺の底に向かって深くもぐった。
滝底には、ハサミや鎌などが入った林業用の腰袋が沈んでいた。
日向の体質は通電性のあるものを嫌う。体調を左右しかねないために極力避けている。水中に入れておくのはもってのほかだ。
「あの子の物かな?すごいやつを持っているな。ここまで深く沈むとダイビング機材がないと拾えないよな。それにしても、目の大きい子だった」
水中で日向を見上げた顔を思い出してつぶやくと、拾い上げ、滝横の岩陰に置いた。
【
落ち着きを取り戻し、気が付くと自分以外に誰もいない。
空を見上げると、グラデーションは姿を消し、くすんだ
腰につけていたはずの、薬草取り用のハサミ・鎌の道具一式が、なくなっている。
時計を見る。
ここから、うえの駐車場に戻り車で家に帰ると、山を二つ越えるので遠回りになる。一時間はかかる。しかし、道なき道を山越えすれば、平坦なコースで三十分だ。
『時間がないから歩くか、いや寒いから、走るかな?』
濡れた体は凍えている。
「今日は雨となるや」
ひとり言で自分の存在を確認し、呼吸が整うと考える余裕もなく帰宅を急いだ。
【まだ九月とはいえ山の朝方は冷える】
ずぶ濡れのまま速足で歩いたが、自宅に辿り着いたものの冷え切った体はバスタオルで包んでも、震えがとまらない。その様子を見た弟のさつきが近づいてきた。
「おねえ様はなにをやっているのさ、車は?」
弟も監視者の一人で将来の棟梁候補である。薬草採りでトラブルが発生すると、わずかなひとりの自由な時間がなくなる。
「なにもない」
いつもと変わらないはずの首筋には、赤く筋が入った跡がついていた。しばらく、
『やはり、誰かいた』
そう思いが至った瞬間に、鏡の曇りを手で拭き取った。
キュ、キュと音がして、赤い首筋の跡がはっきりと見えた。その音が、起るはずのない信じられない記憶を、
思わず、身震いが走った。
「慎重にせねば」
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