八章
第152話 白月の目覚め①:side.翠雨
―――白月が目覚めたと報告が入ったのは、人界で白月が倒れてから一月程経った頃だった。
待ちに待ったその報告を聞き、翠雨は居ても立っても居られずに、今の今まで手を付けていた書類をさっさと放棄して立ち上がる。
しかし蝣仁は、そんな翠雨の様子に敢えて気付いていないかのように、翠雨の傍らに山と積まれた紙束にサッと別の紙束を乗せた。
「翠雨様、璃耀様があちらにいらっしゃるのです。こちらを片付けてからになさってください。」
蝣仁の声はいつものように無機質なものだ。しかし、一見わかりにくいが、その表情はいつもよりも柔らかく安堵の色が浮かんでいる。
「それ程急ぎの仕事でもなかろう。むしろ、これ以上報告書と向き合っていても、気が急いて頭になど入ってこぬ。適当に判を押しても良いなら、其方が準備を整える間に全てを片付けておくが。」
すぐにでも出たい翠雨には、両手で抱えきれぬほどに積まれた山をひとつずつ切り崩していくつもりは最早ない。適当に判を押したとて終わらぬ量の報告書など、いったん全てを手放して一晩二晩寝かせておくに限る。
翠雨は早くせよという空気を全面に押し出して蝣仁に主張すと、出来た側近は、諦めたようにハアと小さく息を吐いた。こうなってはお手上げだと、良くわかっているのだ。
「護衛を集めて参ります。その間、全てでなくても良いので、ゆっくり丁寧に、仕事をなさっていてください。くれぐれも、読み飛ばしなどないように。」
時々、書類を読み飛ばして押印していることに気づかれていたらしい。真面目で貴重面、ともすれば神経質とも取れる側近に、翠雨は苦い笑みを浮かべた。
蝣仁は、やると決めたら仕事は早い。
護衛の手配をつけて翠雨を呼びに来たのは、少しでも進めておけと言われた報告書の五枚目に手を伸ばした頃だった。
少数精鋭。空を飛び真っ直ぐに、翠雨達一行は白月のいる温泉地へ向う。
どうにも気が急いてならない。もっと急げと乗っている隼の背を叩いたが、困ったような曖昧な返事が返ってきただけだった。
大して速さが変わらぬので、更にバシバシと叩きまくっていたら、見かねた蝣仁に、
「翠雨様、危険もかえりみずに我儘を仰るなら、今すぐに引き返させます!」
と、隣から叫ばれた。
ようやく温泉地の入口に到着し、素早く自分の側についた蝣仁に文句の一つも言いたくなる。
「あの隼ならばもっと早く到着できただろうに。」
翠雨が口を尖らせると、蝣仁は冷たい笑みを浮かべて、
「側近も護衛も置き去りに、でしょうか」
とだけ言った。
首筋が寒くなってふるりと身震いがする。これ以上、怒らせぬのが吉だろう。翠雨はそう思い、口をぎゅっと噤んだ。
中へ入り白月の部屋へ早足で向かう。主上の御座す最上階へ入れるものは限られる。
翠雨が蝣仁と護衛一人を連れて階段を上がると、そこには璃耀が待ち構えていた。後ろには璃耀の部下である
「璃耀、白月様は?」
「お目覚めに。今はお部屋で安静になさっています。ただ……」
璃耀は僅かに眉根を寄せる。
「どうも、御記憶を失われているようなのです。完全に、というよりは、記憶が曖昧である、という方が正しいかもしれません。」
「……御記憶を……?」
「大きな衝撃によって、一時的にそういった事が起こることが稀にあると紅翅は。蒼穹も、軍団でそういった者を見たことがあるようです。お体に異常は見られません。しばらくは様子見かと。」
「……そうか。」
心配ではあるが、体に異常がないならば、璃耀の言う通り、様子を見るしか無いのだろう。
「紅翅は?」
「少々、蓮華の園に。すぐに戻ります。」
それに翠雨は小さく頷いた。
蓮華の園の元の管理者は紅翅だ。今の管理者よりも蓮華に詳しいのは確かだ。蓮華は外傷には効かぬが体内の不調を整える効果がある。この地の温泉水ほどでは無いが、あって困るものではない。
温泉水に効かぬ不調にも効くかもしれない。
「白月様、翠雨様がいらっしゃいました。お通ししても宜しいでしょうか。」
璃耀が内に呼びかけると、ええ、という小さな声が返ってくる。その声が聞こえただけで、翠雨の胸に安堵が広がった。
もう目を覚まさないのでは、そんな不安が心の中にずっと残り続けていた。目を覚ましたと報告を受けても、本当に無事か気が気ではなかった。
いつもと同じ白月の柔らかな声。それが己の耳に届いただけで、じりじりと燻っていた黒く重いわだかまりがが霧散していくようだった。
戸が璃耀によって開かれると、白月は半分だけ
「……翠雨?」
白月の高い声がそこから響く。翠雨はピクリと僅かに眉を動かした。
白月に名をそのまま呼ばれることは少ない。公の場でしか『翠雨』とは呼ばれない。記憶が曖昧と聞いたのは確からしい。
翠雨はそれを寂しく思いながら、帳の手前で膝をついた。その場所からなら、先ほどまで見えなかった、白月の口元だけが見える。
顔色は悪くない。むしろ、薄紅に色づくその唇に、翠雨は思わず目を奪われた。薄い着物に白い絹の肌。
愛しい方のそれを、翠雨は頭をゆっくり左右に振って追い出し、頭を下げた。
「御加減は如何でしょうか?」
「大事ありません。」
いつもの『大丈夫だよ』という、明るい答えを期待していたのに、返って来たのは涼やかな鈴の音のような声と、どこか他人行儀な返答。顔を上げて帳の向こうをじっと見るが、表情はわからない。
「御記憶が定かでないと伺いましたが、私のことも?」
「ええ。ごめんなさい。」
「……では、璃耀のことも?」
翠雨は思わず問いかける。自分の事を忘れられて、璃耀の事は覚えている、などと言われたら、到底許せない。璃耀を。
しかし、白月は首を横に振って否定した。そして、感心したような声を出す。
「貴方は璃耀よりも地位が高いのね。」
翠雨はそれに、コクリと頷いた。
「四貴族家の筆頭ですから。」
「そう。それなら―――」
白月は帳の向こうでスッと立ち上がる。白の薄い小袖の裾から、細い足が覗き、小さく息を呑む。
「璃耀、人払いを。少し翠雨と話をしたいの。貴方も外に居てくださる?」
そう発せられた口調に違和感を持ちつつ、ドクドクとうるさい鼓動を鎮めようと、再び頭を下げて床を見る。
「どうかそのまま、安静になさっていてください。」
「大事無いと申したでしょう。―――璃耀。」
「……承知いたしました。戸の前でお待ちします。何かあればお呼びください。」
いつもなら白月の側を離れず、翠雨と二人になど絶対にさせないはずの璃耀が、素直に外に出ていくのが引っかかった。
むしろ、安静にせねばならぬと押し留めて、くどくど説教を始めてもおかしくないはずだ。どうにもいつもと態度が異なる。
訝りつつ顔を上げ、パタリと閉まる戸を見ていると、直ぐ側に気配がして翠雨はハッと振り返った。
そこには、白の小袖を着崩し、細い首、鎖骨、さらのその下にある小さな二つの双丘まで、絹のようなその肌を覗かせた白月の姿があった。それが翠雨の直ぐ側にピタリと寄り添うように座り体を寄せると、その太腿までもが露わになる。
体が硬直して動かない。
「……は……白月様……」
引き絞られるような声でそう名を呼ぶと、白の肌に艶やかに浮き上がる濃い桃色の唇が弧を描く。
翠雨は喉が詰まり、それ以上の声を出すことが出来なくなった。
胸元に細く小さな手を置かれると、うるさいくらいに心臓がドクドクと脈打つ。
「ねえ、私の願いを聞いて欲しいの。翠雨。」
白月の声が、甘く囁くように響く。
動揺から動けないでいると、白月はそのまま翠雨に体重を預けるようにして、顔をこちらへ寄せた。更に、もう片方の冷たい手が頬に添えられ、温かい吐息が顔にかかる。
そしてそのまま、柔らかな唇で自分の口を塞がれー――
翠雨は突然の出来事への驚きで、ただただ目を見開いた。
塞がれた唇の向こうで、こちらの唇をこじ開けるように相手の舌が動く。舌と舌が絡まり、それとともに、何故か濃い鉄の味が口いっぱいに広がった。口中を満たすそれに、ゴクンと喉が動く。
すると、自分に覆いかぶさっていた白月の顔が満足気な表情を浮かべてスッと離れた。唇からツゥと赤い糸が引き、プツリと切れる。
あまりの事態に動けず、じっと彼女を見ると、今まで見たことのないような妖艶な笑みで微笑まれた。
歓びよりも、動揺の方が大きい。目の前の者は、自分の知る白月とは明らかに違う、そう想った。
「……一体……何を……? どう、なさったのです……?」
戸惑いと共にようやくそう言うと、白月はフッと笑みを消す。そして、何故か不思議そうに首を傾げた。
「……私を欲しくならないの?」
……白月様を……?
そんな訳はない。ずっと焦がれていた。ずっとお側にたいと思っていた。でもそれは、今目の前で妖しげに自分を見つめるこの方ではない。
そう、はっきりと思った。翠雨の求めるあの方は、まるで子どものように何時も自由で奔放で、無邪気で、どこまでも純粋で――
その笑顔を思い出し、翠雨は白月を押して退け、一歩下がって距離をとった。
熱っぽかった頭が一気にスゥッと冷えたような感覚がある。
―――そうだ。違う。
「御冗談を。」
短く、しかしはっきりと、翠雨はそう答えた。
目の前の白月は不可解とでも言いたげに眉根を寄せる。それから、彼女の唇が、聞こえるか聞こえないかというくらいに小さな声とともに動いた。
「…………あぁ、そうか……体が…………」
―――体が
そこに続く言葉は一体なにか。小さなそれは、翠雨の中の違和感と疑念を大きくする。
「いつもとご様子が異なるようです。少し、お休みになられた方が宜しいでしょう。」
このまま、ここに居るべきではない。姿形は同じでも、目の前の白月は白月ではない。
証拠は無いが、翠雨は確信を持ってそう思った。
璃耀がこれに気づかぬはずがない。
あやつは何を隠している?
とにかく、ここを出て問い詰めねばと立ち上がる。
しかし白月は、それを引き止めるように、翠雨の着物の裾をそっと摘んで引いた。
まるで縋るように瞳を潤ませ、こちらを見上げるその顔は、どう見ても白月の顔では無い。
「翠雨。」
そう呼びかける声もまた。
「失礼いたします。」
翠雨はピッと袖を引っ張ると、そのままくるりと白月の姿をした何者かに背を向けた。
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