第91話 妖界での療養①
目を覚ましてすぐに聞こえてきたのは、元気な子どもの声と、それを窘める大人の声だった。
「あ、起きた! 起きたよ、ハク姉ちゃん!」
「こら、康太。白月様とお呼びしなさい!」
ぼんやりとした意識の中そんな声を聞きながら、俺は見覚えのない天井を眺める。少なくとも、自宅や本家ではない。多分病院とも違う。
……ここは一体何処なのだろう。
そう思っていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「フフ。いいよ、毛助さん。毛助さん達は、家族みたいなものだから。」
その声と共に、薄銀色の長い髪が視界に映り、美しい少女の顔が真上から覗いた。
「大丈夫? 奏太。」
「……ハク……?」
そう声に出すと、ハクはニコリと笑う。
「うん。ここ、妖界の温泉だよ。山羊七さんのところの。」
「……妖界?」
「柊士がね、奏太が全然目を覚まさないから受け入れて欲しいって。」
ハクはそう言いつつ眉尻を下げた。
「ビックリしたよ。意識を失った状態で運び込まれてきたって聞いて。私も知らせを受けてここに。」
ハクはそっと俺の頬や額に手を当てる。ヒンヤリとした細く華奢な指先と掌の感触が気持ちいい。
「うん。熱も下がったみたい。」
ハクはホッと息を吐いて、俺の傍らに座りなおした。
しっかり状況を確認したくて体を起こそうと力を入れる。しかし、上手く力が入らない。一体どういうことかと目を瞬く。
「体、動かないでしょ。陽の気を使いすぎるとそうなるの。奏太の場合、風邪か何かで熱が凄く出てたし、どちらの意味でも消耗が激しかったんだと思う。薬湯を飲めば、良くなるよ。」
そう言われて、俺はようやく、自分が何故意識を失うハメになったのかを思い出した。
「う、汐は!?」
「大丈夫。ここにいるよ。」
ハクは自分の背後に目を向けてから、スッと場所をあける。そこには、うつむき加減の汐が、何時もと変わらぬ様子で俺から少し離れて座していた。
そして、ススと俺の側まで進み出てくる。
「……汐、良かった……」
俺は、汐が無事に生きていてくれた事にホッと息吐き出した。しかし汐は僅かに表情を曇らせる。
「良くありません。あの山で何があったのか、伺いました。もし、このまま御目覚めにならなかったらと……」
「でも、二人揃って生きて帰って来れたんだ。良かったよ、本当に。」
あの時、もう少し柊士達の到着が遅れていたら、俺も汐もきっと今頃、神社の下の結界石の周りに埋められていたに違いない。
改めて危ない状況だったのだと思うと背筋が寒くなる。
すると、汐は不意にスッとその場に手を付いて深く頭を下げた。
「案内役が至らぬばかりに、申し訳御座いません。」
俺はそれに眉を顰める。
その言葉を聞くのは二回目だ。前回は同じ事を瑶が言い、瑶と汐の二人が榮の前に膝をつかされていた。こんなの、何度も見たい光景ではない。
「……それ、また何か榮に言われたの? それとも瑶?」
しかし、汐は頭をあげずに、
「父も榮様も関係ありません。私の意思です。御側に辿り着く前に捕らえられ、奏太様が戦っている間、何も出来ませんでした。結果、案内役が命を助けて頂く事に……」
と言った。
でも、汐が故意に何かをした訳では無いし、あの時の汐には本当にどうしようもなかったことだと思う。それに俺自身、自分の身を守るためにも必要な行動だったのだ。謝られるようなことじゃない。
「いいよ、そんなの。俺だってあそこで動かなければ生き埋めにされてたわけだし。結果、助けてくれたのは柊ちゃんや淕達だろ。」
「しかし……」
汐は全然譲る様子がない。
俺はハアと息を吐いた。
「むしろ、亘にしっかり汐を守ってもらいたかったくらいだよ。一緒にいたんじゃないの?」
「……亘は……」
汐はそこまで言うと、口にすべきかどうか迷うように口籠る。しかし、ハクがその様子を見かねたように、その言葉を引き継いだ。
「亘の方が酷い状態だったの。本当に大きな怪我で……あと一歩遅れてたら死んでたかもって、尾定さんが。」
「……は!? 何でそんなことに。まさか、あの女の子が……」
俺がそう声を上げると、汐はゆっくりと首を横に振る。
「あの日奏太様の元へ向かう途中で、我らは鬼に襲われる仲間に遭遇したのです。亘は私に先に奏太様の元へ向かうよう告げてから、それを助けに……」
「鬼? それで、亘は今……」
「一命を取り留め、今は眠っています。尾定殿が側に。薬湯のおかげもあり、安静にしていれば大丈夫だろうと。」
「……そっか。」
命が助かったのなら良かった。俺は心のなかで胸を撫で下ろす。
まさか亘がそんなに目にあっているとは思いもしなかった。汐を守ってほしかった、なんて言ったけど、亘はそれ以上に大変な状態だったのだ。
「鬼の方は大丈夫なの?」
「柾……晦と朔の兄が亘を見つけた時には、近くに鬼の姿は無かったそうです。あったのは、鬼に襲われていた喬という者の亡骸と、亘の姿だけ。そして、その時、亘は虫の息だったと……」
鬼の姿が無かったということは、鬼は妖を一人殺し亘を瀕死に追い込んだ上で逃げた、という事だ。
亘だって、守り手の護衛役に選ばれるくらいに強いのだ。それ以上に力のある鬼が逃げたのだとすると、かなり危険なのではないだろうか。
「見つかったの? それに、鬼界への綻びは?」
「どちらもまだ……ただ、里の兵をあげて探しています。」
何だか目覚めたばかりなのに、どっと疲れが襲ってくるような話だ。一つ解決したと思ったのに、また別の問題が持ち上がるなんて。
そう思っていると、ハクがトントンと汐の肩を叩いた。
「汐、ひとまずそのくらいに。奏太は薬を飲んでゆっくり休まなきゃ。御役目の話は、奏太が元気になってからにしなよ。あっちには柊士だっているんだから。」
ハクは、ね? とニコリと笑う。
それから後ろを振り返って、ハクの後ろで様子を伺っていた、羊の親子に目を向けた。
「康太、紅翅を呼んできてくれる? それから、尾定さんにも声をかけてあげて。」
「うん!」
康太と呼ばれた子羊は、ハクの言葉に元気に返事をすると、パタパタと足音を立てて部屋を出ていった。
それを見送っていると、不意に、部屋の隅から
「白月様、そろそろ。」
という低い男の声が響く。
今の今まで気づかなかったが、璃耀がハクの後方で控えていたらしい。
「うん。奏太、私も奏太が人界に帰るまではここにいるから、何かあったら毛助さんか康太に声をかけてね。」
ハクがそう言うと、先程まで子羊と一緒にいた大人の羊の方が俺に向かって頭を下げた。
「え、でも、ハクだって忙しいだろ。わざわざ……」
それに、ハクは困ったような表情を浮かべた。
「ホントは休日にしようと思ってたんだけど、結局、こっちで仕事はさせられるから……」
そう言うと、ニコリと有無を言わせぬ笑みを浮かべる璃耀を振り返って口籠った。そして、ハアと息を吐き出す。
「一日に一回、陰の気を抜きに来るよ。こっちのことは気にしないで、ゆっくりしていって。」
最後にそう言い残すと、ハクはスッと立ち上がり、璃耀を連れて部屋を出ていった。
「奏太様と亘の大事だと、慌てて駆けつけてくださったそうです。柊士様も、なかなかお目覚めにならぬ奏太様をとても心配しておいででした。」
パタンと閉まる扉を見届けると、汐はポツリとそう言った。
「二人にちゃんと御礼を言わないと。」
「今はごゆっくりお休みください。奏太様が早くお元気になることが、御二方の一番のお望みでしょうから。」
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