The girl who loved by the Raven §2

 翌日。私は一人ベッドの上で目を覚ました。時計を見ると5時35分だった。空は朝日を迎える前の特有の濃い青が広がっており、部屋の中はまだ薄暗い。机の上を見ると相川凛が置いていったラッキーストライクが置いたままだった。そういえば彼女は一昨日家を飛び出して行ったままだ。私が寝ている間に一度戻って来たとも思えない。私はその机の上に置かれていたラッキーストライクと使い捨てのライターを手に取りベランダに出た。足元には灰皿代わりの空き缶が置いたままだ。一本取り出し火を点ける。朝の冷たい空気と共にニコチンを摂取する。今日もクソみたいな1日が始まる。

 私はこれを警察にでも届出るべきなのだろうか? 名誉毀損? 脅迫罪? 何という罪に当たるのだろうか。だが元の写真もネット上に掲載されていた物だし、むしろ個人情報を曝け出していた様な物だ。だが実際今の私は“那賀見優が七海ハルである”という情報を、恐らく近しい人間からそれをネタにされて脅されている立場だ。だが脅してくるなら、何が目的なのか? 今のところ何が目的なのか分からない。私は脳みそを働かせようと紅茶を淹れる。前の台湾の件で腹を立てている人間が報復の為にどこからか情報を手に入れた? ハッカーがわざわざV WIND運営会社のPCにでも侵入したというのか? 馬鹿らしい。だが実際、V WIND運営のサイトは海外から異常なアクセス負荷を掛けられ、一度サーバーダウンしてしまった事もある。そんな事もしてくる人間達なのだろうか。

 自分の精神衛生上良くないと分かりつつも、『七海ハル 中の人』とTwitter上で検索してみた。案の定転載に転載されたまとめサイトのリンクやそれを拡散するツイートで溢れている。中にはそれに反論する様なファンのツイートも含まれている。「七海ハルの中の人結構かわいいやんw」や「オタク感あってかわいい、縛り付けて虐めたい」「微妙にブサくてエロい」「ヤリてぇ〜〜w」等と言いたい放題下品な事を書き殴っている。本当に一人一人私の前に引き摺り出して、その下品な思考と書き込みをする首と腕を切り落としてやりたいとも考える。そんな最悪の感情に押し殺されながらもエゴサーチを進めて行ったが、未だ私の本名は晒されていない様であった。

安心した訳では決してないが、胸糞悪い感情を飲み込む様に紅茶を一口飲んだ。茶葉を漬けすぎていた、苦みが口に広がる。

 朝から何も手につかず、ずっとこの事を考えているとあっという間に10時を回っていた。今の私の心情とは真反対に空は気持ちの良い青空が広がっていた。私は再びラッキーストライクを手に取り、紅茶の入ったマグカップもベランダに持っていく。室外機の上にタバコとカップを置き、それにPC用のチェアもベランダへ出してみた。心地よい風が吹いている。そこで優雅にチェアに腰掛け紅茶とタバコを摂取した。私は本来この季節が好きだ。4月の終わりから5月頭に掛けて、雨の降らない日が続き、夏場の様な蒸し暑さもない心地よい気候だ。だが今の私は、どうにも駄目だ。箱の中に入っていたタバコがもう残り2本になっていた。後でセブンイレブンで買って凛に渡そう。凛。何してんのかな、LINEでも送っておくか。そう思った時、不意に部屋のドアホンが鳴った。このアパートは看守こそ居ないもののオートロックのエントランスを備えている。そして今鳴ったのはそのエントランスからではなく、この部屋の呼び鈴だった。大凡、一気にアパート内の色々な部屋を巡る荷物の配達員か、水道局の検針の人間だろうと思い無警戒でロックを外しドアを開けてしまう。

「はーい」

そう言いながらドアを開けた瞬間、ドアの端を男の手が掴み一気に開けられる。驚きのあまり廊下に尻餅を着き倒れてしまう。

「へ、久しぶり……。優ちゃん」

その男が不気味な声で私を呼んだかと思えば、マスクを外しこちらを見る。秋田だった。かつて私がバイトをしていた同じコンビニの先輩。私がバイトを辞めた日に私を好きだったと告白して来た男だ。

「秋田さん……?」

呆気に取られながら聞く。私は倒れたまま部屋の中へ後退りし、ローテーブルの上に置いてあるiPhoneまで辿り着こうと考える。が、秋田は土足のままずかずかと玄関から廊下へ上がり、私の上に跨がる。

「優ちゃん……。俺知っちゃったんだ……」

勿体ぶっているのか、言い淀んでいるのか分からないが、彼はニヤケ顔で途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

「は、はい……?」

「優ちゃん、有名なYouTuberなんだってねぇ……。それもバーチャルの方……」

その瞬間、心臓が止まったかの様な悪寒を覚える。コイツが、秋田が犯人だったのか……! 脳内ではそう思い、大声を出して罵ってやりたいと思ったが上手く声が出せず、身体の力も抜け動けない。怖い。

「バラされたら困るよねぇ? こんな良い部屋に住んだり出来なくなっちゃうもんねぇ?」

秋田は徐々に饒舌になってくる。まるでこういうセリフを考えて来ていたかの様だ。秋田は私の両腕を両膝で押さえつける様にしながら私の上に乗って来た。ただでさえ身体に力が入らないのに、完全に身動き出来ない。そしてこの下衆野郎は間違いなく勃起していた。その股間の膨らんだ部分を私の胸から腹に掛けて擦り付けてくる。あまりの恐怖に私は涙が出て来た。

「優ちゃんエッロい表情するねぇ……。バラされたくなかったらどうしたら良いか、分かるよねぇ……?」

ぐへへ、とまるでアニメに登場する悪役の様な気持ちの悪い笑い声を上げる。キモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモい! 私の脳内はこの言葉に埋め尽くされる。

次は私にキスをしようとしたのか、その状態のまま身体を前屈みにしてくるが腕を足で抑えている為うまく出来ず諦めた。そして次は、履いていたデニムの股間のジッパーを下げ始めた。

ふぅー……ふぅー……とそいつの気持ちの悪い息遣いが聞こえる。私は必死に顔を右に逸らした。このクズ野郎には『私の身体を好きにして』という合図にでも見えたのだろうか。デニムをふとももあたりまで下ろした。そいつの勃起した粗末なモノをグレーのボクサーパンツが包んでいる。先の方には染みが出来ている。

私は一瞬その光景を見ただけで一気に恐怖心は吐き気へ変わった。

「ほら、触って……」

秋田は優しくそう言い放つと、右足を一瞬上げ私の左手首を掴み取り、股間の方へ持っていこうとする。私はここに来て漸く少し力が出る様になり、そいつから手を振り払う。その瞬間、秋田の右拳が私の顔面に落ちてくる。

「あッガ!?」

思わず声の様な音が私の喉から漏れる。一瞬脳がスパークした様な気さえした。口内のどこかが切れて血の味がする。

「大人しくしろよクソ女……。いっつもオタク共に媚びへつらって金貰ってんだろ? あ?」

いきなり口調が鋭くなる。

その時、玄関のドアが開き、廊下が一瞬明るくなる。その瞬間、何か黒いケースの様な物が秋田の後頭部へ振り落とされた。

「優!!」

私はその一言で死の間際からこの世に戻って来た様な感覚がした。

「痛ってぇ〜!!」

と怒鳴りながら振り返ろうとする秋田の身体の下からすり抜け、部屋の中へ逃げ込む。そして直ぐにiPhoneを取り、110番へ電話するが今度は凛へ秋田が掴みかかり玄関から外へ押し出されていく。

「誰か!!」と凛が叫ぶが、平日の11時前。ほとんどの住人は仕事に出かけているに違いない。私はiPhoneを廊下に放り投げ、紅茶を淹れる為に沸かしていたケトルを手に取り思い切り秋田へ投げつける。奴の背中に当たり、衝撃で蓋が外れ熱湯が奴に降り掛かる。

「あっつ! あっつい! クソがァ!!!」

そう怒鳴り散らしながら暴れる秋田の顔面へもう一発、凛がフルスイングしたギターケースがクリーンヒットした。

秋田は廊下の柵にも強く頭を打ち、そのまま意識を失った。


 警察が家に来るまで、凛がそいつの口をガムテープで塞ぎ、更に両手足もガムテープでぐるぐる巻きにし完全に動きを封じて廊下に放置した。遠くの部屋に住んでいる同じアパートの住人達も何の騒ぎかと顔を覗かせたりしている。

私は部屋のソファで毛布に包まり動揺していた。凛がずっと横で手を握り座っていてくれた。

 その後、警察からの現場検証と事情聴取が行われ、その日はすぐに警察も引き上げた。後日また事情を聞いたり、裁判に関する事で話があるだろうと伝えられた。私はその家に居るだけで嫌だったので、凛の家に泊まらせて貰うことにした。勿論彼女は快く私を迎え入れてくれた。


「あ、そういえばタバコ買わなきゃ」

「はぁ? アンタ何言ってんの?」

もう時刻は20時前、凛のアパートの前で私がふと思い出したことを呟く。

「ウチにあった凛のタバコ吸っちゃった。あと2本しか残ってないから買っとかないとって思ってたんだった」

私がごく当然の様にそんな話をするので、凛は理解に苦しんでいた。

「そんなのどうだって良いよ……。よくわかんねーけど、ショックで優、アンタ多分変になってんだよ」

「え? いや、私は普通だよ?」

「いや、あんな事があって普通な訳ないだろ」

凛は優をどう扱って良いのか本当に分からなくなり、たまらなく泣きそうになっていた。

「……とりあえず部屋に上がろう。な?」

「あぁ、うん」

優はどこか上の空で、凛の横を歩いて行った。


 翌朝、私が目を覚ますと隣ではまだ凛が寝ていた。可愛い寝顔。私はフッと思わず笑ってしまう。昨日の夜は以外にもすぐに眠りに就くことができた。そして今も心が軽く、まるで昨日の夜2人でサウナにでも入り浸り、身体の中の全ての毒を出し切ったかのように清々しい気持ちだった。

 私は部屋着のまま凛の家を出た。近所のコンビニに行こうと思った。凛の部屋の冷蔵庫にはほとんど何も入っていなかった。辛うじてハインツケチャップが置いてあったので、スクランブルエッグにでも掛けて食べたいと思った。そうとなればトーストと、カリっと焼いたベーコンも欲しい。牛乳も飲みたい。これくらいの物ならコンビニでも手に入るだろう。そう思い立ったのだ。まだ8時前だが、相も変わらず人々は人混みを歩き、電車に乗り会社を目指している。そんなに真面目に生きるのが好きか、と心の内で言う。

 30分程で帰宅したが、凛はまだ寝ていた。買った物をキッチンに並べ、フライパンを拝借する。最初に何も引いていないフライパンで食パンの両面を焼く。更にベーコンを焼き、その後スクランブルエッグを作る。トーストの上にベーコン、おまけに買ってしまった溶けるスライスチーズ、スクランブルエッグを乗せ、最後にハインツケチャップを掛ける。キッチンの端っこに置いてあったタバスコも数滴垂らせば最高の朝食の出来上がりだ。コップへ牛乳を注いでいると、その匂いに惹かれお姫様が起きてきた。

「おあよ……」

「おはよう、凛」

寝ぼける彼女に、明るく挨拶を返す。凛はハッとしたような顔で私を見る。

「優、大丈夫か……?」

「え、うん。何ともないよ?」

「何ともないって……えぇ……」

「トースト食べる?」

「良いの?」

「良いから聞いてるんだけど?」

「ありがとう、貰う」

なんだか腑に落ちない様な表情をしつつ、彼女は顔を洗う為浴室に入って行った。


「だから、あの事件は優の事なんだって!」

ウィンド株式会社のオフィス内、会議室で奥山優子へ凛が必死に先日の事件の顛末を説明していた。奥山は深刻な顔で聞いていた。

「今、七海……那賀見さんの様子は?」

「それが変なんだ。昨日の夜ウチに来る時から……まるで昼間、何事もなかったような素振りを見せるんだ……。素振りというか、別に強がってる風でも無い。本当に何もなかった、まるで記憶がすっ飛んでる様な感じなんだよ」

「何だろう……。何かしらのショック状態に陥ってるのかしら……」

「とにかく、アイツを入院させてやる金とか休暇とか出るよな!?」

「勿論よ。総務部へ話を通しておくわ。そういう相川さんは大丈夫?」

「私は……何ともないです」

「本当?」

「アイツが、急に変になって……その事だけが不安で……」

凛は涙を堪え切れなくなり、項垂れて泣き出してしまった。

「優さんの事、大事に思ってあげてるのね。どうか暫く傍に居てあげて。私も明日……明後日には会いに行くわ」

「分かりました」

「わざわざ知らせに来てくれてありがとう」

「アイツ、もう辞めさせてあげたほうが楽になれるんですかね……?」

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