第6話 万魔殿

「や、やばいって……」


天を埋め尽くしたクジラの大群を眺め、ルシフェルは狼狽する。

現れたクジラの群れは明らかにルシフェルたちに、――正確にはジズに敵対する意図をみせていた。


「はやく逃げなきゃ!」


このままではあの無数の化け物どもに攻撃されかねない。

個々が超重量の巨大な怪物なのだ。

もし一斉に襲われでもしたらひとたまりもない。


一刻もはやくこの場を離脱しなければ!

泡をくったルシフェルはジズのおでこをバシバシと叩いて急かした。


けれどもジズは落ち着いたままだ。

クジラたちに対して苛立ちこそ露わにしているものの、恐れの感情など微塵も抱いた様子がない。


ジズはバサバサと巨大な翼を動かしながら、悠然と大地に降り立った。

大怪獣の体躯を受け止めた地面が、ずしんと重く揺れる。

ジズはおでこに乗せていたルシフェルを丁寧に地表に下ろすと、空へと向き直った。


――ルシフェル様は、わたしの翼の下に隠れてて――


ルシフェルは脳内に響いてきた声に従い、ジズの翼に寄り添う。

それを見届けてから、ジズはおもむろに嘴を開いた。



空獣ジズが嘴を大きく開く。

すると遍く広がる世界が隅々までジズに共鳴するかのように、至る場所からキィンキィンと硬質な音が鳴り始めた。


草も木も空も大地も――

森羅万象がキラキラと輝いている。


やがて光輝は収束し、ジズの開いた嘴の前、その一点に凝縮された。


――クケェ!


ジズが咆哮するのと同時に、凝縮された世界の力が解き放たれた。

指向性を与えられたその力は極太の光線となってクジラの大群に襲い掛かる。

触れた先からクジラが消滅した。


ジズは休まず光線を放ち続ける。

嵐の空を直進し、雲を突き抜けて遥けき空の彼方へと。

ジズは天を見回してぐるりと首を一周させた。


最後の光線が流星のごとき尾を引いて霧散したころ、あれほどまでに天を覆っていたクジラの大群は一頭残らず死に絶え、青天の広がる空には太陽だけが燦々と輝いていた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


世界の裏側。

そこにある華美な宮殿とも、荘厳な塔とも言いつかぬ超巨大な建造物。


その名を万魔殿パンデモニウムという。


現世から隔絶されたその万魔殿の奥まった場所に、豪奢な装飾が各所に施された広間がある。


これこそは万魔殿、玉座の間。

広間の中央部には万魔殿の主人であり地獄軍団の大悪魔長。

『傲慢』の大罪を司る堕天使ルシファーが座すべき玉座が、主不在で空席のままポツンと置かれている。


玉座の前で、ふたつの影が向き合っていた。


「……空に蓋をしていたアタシの眷属レヴィアタン・エルヴィルが消されたわぁ。それも一匹残らずなのよねぇ」


言葉を発したのは美しく妖艶な女である。

育ちきった大きな胸と豊かな臀部をわずかな面積の衣装で覆い、霰もなく肌を晒しながら気怠げに話す。


この痴女と見紛うような扇情的な格好をした女こそは、地獄の支配者たる七大悪魔が一角。

かつ世界に三体しか存在しない大怪獣のうちの一頭。

父なる神が七つの大罪と定めた罪のうち『嫉妬』を司る大悪魔、海獣レヴィアタンである。


レヴィアタンと相対するのは同じく七大罪を司る大悪魔。

『怠惰』のベルフェゴールである。


ベルフェゴールは宙にぷかぷかと浮かぶ柔らかなベッドに寝そべったまま、あくびをして応える。


「ふぁぁ……、あふ。……ええー? そうなんだぁ?」

「ええ、そうなのよぉ」

「でもさぁー。それがどうしたのぉ? わたしぃ、めんどくさい話とか、すっごい嫌いなんだぁ」


凹凸の少ない身体で幼い容姿のベルフェゴールは、ごろごろしている。

ベッドでダラダラと転げ回る様は、実に怠惰なことこの上ない。


その様子を眺めて、レヴィアタンはふぅとため息をついた。

しかしこれはベルフェゴールの怠けに対する呆れのため息ではない。

というよりも、なんか真剣に話をしようとしていた自分へのため息だ。

こんな些事でマジになってどうする。


ため息をつくのと同時に、レヴィアタンは眷属が殺されたことなど、どうでも良くなってきた。

あんなクジラみたいな眷属くらい、またいくらでも増やせばいい。

その程度、さしたる労力も掛からない。


第一悪魔とは基本的に怠惰なものだ。

怠惰を司るベルフェゴールは別格として、レヴィアタンとてその傾向はある。


「……ま、いっかぁ。どうせキリスト辺りの嫌がらせでしょうしぃ?」


なんか眷属がいっぱい死んだことなど綺麗さっぱり忘れてしまったレヴィアタンは、適当に話を切り上げてから万魔殿を後にした。

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