第4話 星明りの下で
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背後で石畳を踏む足音が届くと同時に、剥き出しの肩にふわりと温かいものがかけられた。慌ててエレーヌは顔を上げた。
すぐそばに、ジレ姿の少年が立っていた。品よく整った顔立ちを目にした途端、どんなに痛みを与えても止まらなかった涙が、止まった。
「あ、なたは……」
「風邪を引くよ。春とはいえ、夜はまだ冷える」
と、静かに続ける声は心地良い。貸本屋で会った時と同じく、彼は一歩分距離をとる。そして、視線をミモザに向けた。
少年の視線がそれているうちに、エレーヌは絹の手袋に包まれた指先で涙を拭う。
「このミモザは素晴らしいね。ここに春の
その表現は、レニラードの有名な詩の一節をなぞらえたものだった。穏やかなその声は、エレーヌの冷え切った心に、ふうわりと温もりを与えてくれた。
「……冬には、緑のやわらぎを伝えてくれます」
と同じ詩の一節をなぞって返せば、少年が照れくさそうに笑った。
「あの、上着を」
「ああ、気にしないで」
エレーヌが彼のジェストコールを返そうとすると、少年は噴水の縁に腰を下ろした。星灯りの下で、癖のない黒髪がさらさらと流れている。
「人の熱気にあてられて涼みにきたんだ。田舎に引きこもってたから、都会の人混みは苦手で」
と、少年が穏やかに笑う。田舎にいたというものの、彼の挙措は上品で洗練されている。緑の森を駆ける狼のような佇まいは思慮深く、侵しがたい気品があった。
「あの……っ」
名を尋ねようとして、唇に痛みが走る。エレーヌが指先で抑えるより先に、傷口に真っ白なハンカチが押し当てられる方が早かった。
「んむっ」
「ごめん。自分で持てる?」
異国の少年と見つめ合ううち、エレーヌはとくとくと胸の鼓動が早まるのを感じた。とてつもなく恥ずかしくて、落ち着かない。だというのに、少年から眼差しを逸らせない。
そんなエレーヌの戸惑いを察したのか、少年の視線が外れた。彼は再び噴水の縁に腰掛け、クラヴァットの結び目に指を引っ掛けて調整をし始める。
気恥ずかしさを感じているのは自分だけではないと分かって、エレーヌはほっとした。
痛みが和らいだのでそっとハンカチを下ろす。白い布には、思ったより大きな血のしみができてしまった。
「ごめんなさい。ハンカチを汚してしまって」
「そんなの構わなくていいよ。少し、傷口を見てもいい?」
「えっ……あの……」
エレーヌは狼狽えたが、あまり意識しすぎるのもおかしい気がして、こくんと頷いた。
少年が腰を浮かせて、そっとエレーヌの前に片膝をつく。エレーヌは恥ずかしくて思わず瞼を閉じた。一瞬だけ、頬に指先が掠れてびくりと体が震えてしまう。
「血は止まってるけど、後できちんと手当するんだよ。小さな傷でも、痕が残ることもあるから」
「う……、わかりました」
エレーヌが恐る恐る目を開けると、少年ははにかむように目元をやわらげた。エレーヌが消え入りそうな声でお礼を言うと、ゆるやかに手が差し出される。
「立てそう?」
「は、はい」
エレーヌは意を決してその手に指先をのせた。少年の線の細さからは想像できないほど、硬く厚い手のひらだった。それに、とても力強い。
身を起こすと、宮殿の方から風に乗って音楽が流れてきた。あ、とエレーヌは小さく声を漏らしてしまう。これは、今夜の最後の曲だ。
「……メヌエット……」
エレーヌにとって、今夜は初めての夜会だった。誰とも踊れなかったのは残念だけれど、少年のおかげで悪い思い出にはならなさそうだ。
一方、エレーヌの名残を惜しむような呟きを拾った少年は、繋がった手のひらに少しだけ力を込めた。
「もしよろしければ、俺と踊っていただけますか?
「……! ええ、よろこんで」
生まれて初めてのダンスの誘いに、エレーヌの心は舞い上がった。しかし、あることに思い出し慌てて少年を見上げる。
「あ、でも、わたしダンスは上手くなくて」
「うん?」
「きっと、足を踏んでしまいます……」
もしかしたら、少年が誘いを取り下げてしまうかもしれない。そう思うと、語尾がしゅんと萎んでしまう。
「これは、兄からの受け売りなんだけれど」
少年はからかったりせず、真面目な顔つきでエレーヌに語りかける。
「ダンスの良し悪しは、男のリードにかかっているらしいよ。――だから、俺を信じて」
そう言って、少年は自然な動作でホールドをとる。エレーヌはこくんと頷いて、彼の上腕に手のひらを置いた。
彼のリードは驚くほど巧みだった。流れるように、柔らかくエレーヌを導いてくれる。足元も乱れがなく安定しており、緊張したエレーヌがステップを踏み間違えても、するりとフォローしてしまう。エレーヌはただ少年に身を任せていればよかった。そのうちエレーヌは失敗が怖くなくなり、身体が軽くなっていった。
「こんなに踊れたのはじめて。まるで妖精の羽が生えたみたい」
エレーヌが瞳を輝かせて顔を上げると、少年が軽く目を見張った。そして柔らかい笑みを作る。
「よかった。ずいぶん前に踊ったきりだったから、実はすごく緊張しているんだ」
「……ちっともそう見えません」
「かっこつけてるんだよ」
その返しがなんだかおかしくて、エレーヌはふわっと笑った。
「なんだか、可愛いですね」
「かわ……」
少年はエレーヌの言葉を反芻しかけてそのまま絶句した。エレーヌがきょとんとしていると、少しだけ眉を寄せる。
「……それ、男にとっては全然褒め言葉じゃないから」
とふてくされる。そうすると、大人びた雰囲気が消えて、年相応に見える。彼も自分と同じ十代なのだと実感して、エレーヌはくすくすと笑った。
曲が終わりに向かう中、少年はリードを続けながら、エレーヌをじっと見つめた。
エレーヌが見つめ返した、その時。
「初めて見た時から、きれいな子だと思ったけれど。君は笑うと、もっと可愛いね」
「……えっ」
直截な科白に、エレーヌは返す言葉もなく少年を凝視した。顔を真っ赤に染めて目を見開くエレーヌに、少年は肩をすくめてみせた。
「……こんな風に使うべきじゃないかな」
「〜〜ッ! か、からかわないでくださいっ」
いつの間にか曲が終わっていたので、エレーヌは繋がっていない方の手で、暴れる心臓を抑える。
くすぐったいような、疼くような未知の感覚がエレーヌの心をざわめかせた。
うなじまで染めてうろたえるエレーヌに、少年がくつくつと笑う。
「からかってないよ」
そして「まだファラル語での会話は不慣れだから、うまく言えないけど」と続けて、言葉を探りながら話した。
「君みたいな可愛い妹がいたら、目が離せないと思う。……伝わってる?」
「つ、伝わってます」
伝わっているけれど、もう少し容赦して欲しい。兄以外の異性に慣れていないエレーヌには刺激が強すぎる。エレーヌは必死に自分に言い聞かせた。
(落ち着いてエレーヌ。『妹みたいに可愛い』だから、深い意味はないの)
「そろそろ戻ろうか」
少年の言葉に、エレーヌは俯いたまま頷いた。全身がかっかと火照っているのがわかる。おそらく、今のエレーヌは耳まで真っ赤だろう。少年はエレーヌが転ばないよう、ずっと手を繋いでくれていた。
宮殿が段々と近づくにすれ、エレーヌの中でもどかしさと焦りが大きくなっていく。このままはにかんで黙っていたら、おそらく少年は静かに笑って去っていく。何も残さずに。そんな確信があった。
「じゃあ、俺は控え室の方から戻るから」
「……ハンカチ!」
エレーヌは声を上げると同時に、繋がったままの手のひらに力を込めた。少年の瞳がまるく見開かれる。
「ハンカチ、洗ってお返しします。だから、だから……」
少年はじっとエレーヌの言葉を待っている。エレーヌは彼とこのまま別れてしまうのが嫌で、必死に言葉を紡ぐ。
「お名前を、あの、お礼……会いたいです」
急ぐあまり母国語がめちゃくちゃになってしまう。ちゃんと伝わっただろうか。エレーヌは羞恥で消えてしまいそうだった。
「ありがとう。……俺もだよ」
エレーヌが顔を上げると、少年は悪戯っぽく笑って唇の前に人差し指を立てた。
「すぐまた会うことになるから、その時に名乗るよ」
「え…?」
するりと手が離される。
「おやすみなさい、良い夢を。
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