Cross Line Of The World

 眠れるワケがなかった。関東を襲うとの予報が出ていた台風、その直撃こそどうにか免れたそうではあるものの、東京北部の一軒家の窓を叩き付ける風雨は相変わらず強く、LEDの照明を消した部屋にその音が響く。ただ、それだけが理由ではなかった。

 日付は2時間前に変わっていた。数時間後には朝が来る。あの惨劇から1年の節目の朝が。流雫と云う少年にとって、忘れようにも忘れられない、否……忘れてはいけない、あの日が。

 「……澪には、僕がついてる」

1時間前にそう囁いた彼の声が、澪の脳に焼き付いている。

 室堂澪と云う少女の名を呼んでいた彼の名前は、宇奈月流雫。澪が背中を預けていられる、唯一の存在だった。

 1年前のあの日、流雫がとある少女を失った時のように、自分も彼を失うのではないか……。その恐怖が無意識に、澪の眠気を麻痺させていた。

 ……年頃の男女が1つのベッドで寝るのも、と床で寝ようとした流雫に澪は我が侭を言って、ベッドに潜らせた。それも全て、その恐怖から逃れたかったからだ。

 横向きのまま彼と背中合わせになり、ほのかに伝わる彼の熱に、安心を覚える澪。そして、ようやく眠気が襲ってきた。

 風雨の音が途切れ途切れになり、そして……。


 臨海副都心。流雫と澪が初めてデートをしたのが、東京都内でも有数の行楽地として発展している、東京湾に面したこの埋立地だった。雲一つ無い快晴だが、不思議と暑くない。

 東京テレポート駅の改札前に立っていた澪は、ダークブラウンてストレートのセミロングヘアをなびかせ、何時もの白いブラウスとスカートを身に纏っている。肩からミントグリーンのトートバッグを提げ、足は白いサイハイソックスにローファー。下半身だけは、何故か澪のこだわりだ。

 手首には、カーネリアンのティアドロップのチャームが飾られたブレスレット。流雫からの誕生日プレゼントだった。

 人と待ち合わせ……だったが、誰との約束なのかも判らない。

 「澪……?……澪でしょ?」

そう言って彼女の視界を妨げたのは、ウェーブが入った黒いセミロングヘアに、濃いめの桜色の瞳をした少女だった。ただ、その目に光は入っていない。

「……え……?」

と声を上げた澪は記憶を片っ端から掘り返すが、会った記憶が無い。会った記憶どころか、何処かで見掛けた記憶すら。

 誰……?どうして、あたしを知ってるの……?

 「……美桜、と言って判るかな……?」

美桜……みお。自分と同じ読みの名前は、1人だけ思い当たる。澪は目を見開いた。

「……え……?……まさか……」

 ……名前だけは聞いたことが有る。でも彼女は……。

「知ってるのね。流雫から聞いたのかな?」

と問うた、美桜と名乗る少女……欅平美桜。しかし、澪は

「でも、どうして……」

と困惑するばかりだ。……無理も無い。

「私が逢いたかったから。……かな?」

と美桜は答える。

 ……逢いたかった。それは澪も、だったが……でも、彼女は……。

「み、美桜……さん……?」

と、混乱の渦に飲まれながら、その名前を呼ぶ澪。まさか、面と向かって口にすることになるとは……。

「美桜でいいよ、澪」

美桜はそう言って微笑む。しかし、彼女の声で紡がれた「みお」の言葉は、澪を更に混乱に陥れた。

 ……美桜と名乗る少女。しかし、彼女は1年前に死んだハズでは……。

「……ところで、私東京って殆ど判らなくて。何処かお勧め……有る?」

澪の混乱を知ってか知らずか、美桜は問う。

 ……何故唐突にこの場所にいるのか、そして何故彼女が目の前にいるのか判らない。ただ、夢と云うのは恐ろしいもので、整合性が無くてもツッコみどころだらけでも、何故かそこに疑問を持たず受け入れることが多い。

 その類いだと思った澪は、夢は夢だと割り切ることにした。そして彼女にとって思い入れが強いこの界隈で、遊ぶことにした。

「最初は……あの観覧車……かな……。トーキョーホイールって云うんです……」

と、澪は少し遠目に見える観覧車を指して言った。


 臨海副都心エリアのシンボルにもなっている、日本一どころか世界でも指折りの高さを誇る大観覧車、トーキョーホイール。1周16分のこれに乗れば、100メートル超の高さから東京湾対岸の大都会や空港の景色を楽しめる。

 16分の1の確率で乗れるシースルーのゴンドラが偶然回ってきた。2人が乗り、係員がドアを閉めると、ゆっくりと地面が遠ざかる。

「すごい……景色すごいよ……澪……!」

と美桜は窓に手を当て、外を見て笑いながら声を上げる。

 初めて遊園地に行った幼児のような、見るもの全てに興味を示す無邪気な表情。それだけに、割り切ることにした……と思っても何処か浮かない表情の澪は、光を宿さない彼女の瞳が気になっていた。それに気付いた美桜は

「……どうしたの?」

と、振り向きながら問う。

「……いえ……」

とだけ返した澪が、何を思っているのか。それは美桜には判っていた。

 「やっぱり、気になるわよね」

そう言って、彼女は続けた。

「……澪の深層心理が、私を呼び寄せた。そう言っていいのかな」

「深層、心理……」

澪は呟く。

 流雫の初恋相手がどんな人なのか、初めてその名を聞いた時から、澪は気になっていた。彼が彼女についてあまり触れようとしないのは、あの日を思い出すから……それは澪にも判っていた。

 しかし、澪自身が夢で逢うほど気になっていたとは。

 「私も、澪には逢ってみたかった。……でも、それはできないことだったから……。……だから、あくまでも、澪の深層心理が私を呼び寄せた。……そう思えば、澪の気も楽になるでしょ?」

そう言って微笑む美桜。

 ……何故、そうやって笑っていられるの……?あんな悲しいことが起きたと云うのに。そして、彼女自身……犠牲者だと云うのに。

  「美桜さん……?」

澪は意を決して、向かい側に座る少女の名を呼ぶ。そして、問うた。

「どうして、笑っていられるんですか?」

「……死んじゃったから」

美桜は一瞬間を空けた後に、軽々しく答えてみせた。

 しかし、その言葉は澪に突き刺さる。澪は心臓の鼓動が一度大きくなり、そして一瞬止まるような気がした。

「生き返ることなんてできない、流雫や澪がいる世界には戻れない。……笑うしかないじゃない」

そう言った美桜の微笑には、しかし……やはりと云うべきなのか、底知れない寂しさが滲んでいた。

 そうやって笑うことで、自分を襲った残酷な現実を無理矢理受け入れるしかない。美桜に他の選択肢は残されていなかった。

「……」

澪は何も言えなかった。ただ、美桜が苦手な表情を浮かべている。

 ……2人にとって逃れることはできない話は、しかし未だ少し早いと思った美桜は、話題を変えようとした。

「……澪は、河月に来たことは?」

美桜は問う。

 山梨県東部の中都市、河月。都心までは列車で90分近く。北部の河月湖が、都会に程近いのに大自然を感じられると人気で、都会の喧噪から逃れようとする人やアウトドア目的の家族連れが目立ち、宿泊も含めて市の観光産業の中心を担っている。

 両親がフランス西部の都市レンヌに住んでいる流雫は、親戚の鐘釣夫妻が河月湖の畔で営むペンション、ユノディエールに居候し、夏休みの間レンヌに戻る生活をしている。

 その手伝いが日課だが、それは多少なり流雫のバイト代として還元されていて、澪と遊ぶ時の……主に交通費に消えるのだが……資金源になっている。

「2、3回ほど。湖が綺麗で、星も綺麗で……。こっちじゃ、そう云うのが無くて」

と澪は答えた。

 澪が住んでいるのは、埼玉県との県境に近い都内。都心の繁華街へは安く早く行け、生活には便利だ。しかし、如何せん夜も街全体が明るく、地上から星空を拝むことは難しい。東京は、世界一星空から遠い街……そう澪は思っている。

 その意味では、河月と云う町へは時々行ってみたいと思う。無論、流雫がいることが何よりも大きいのだが、何よりも雨上がりの七夕の夜に、流雫と河月湖で見た天の川が忘れられなかった。

「河月は、私も好き。でも、だから時々、正反対の街に行ってみたいと思うの。それが大都会、東京だった」

美桜は言った。


 空は雲一つ無く真っ青で、顔の向きを変えれば富士山まで望めそうだった。……そう、あの日もこんな空だった。

 澪は、少しだけ覚悟を決めた。……彼女が何を話そうとしているのか、何となく判る。

 幸いにも、このゴンドラは未だ頂上に差し掛かっていない。地上に戻るまで、後10分も有る。そして2人きりの今なら、もし泣きそうになっても、周囲の目を気にしなくて済む。

「……東京には、あの日初めて……?」

冷静を装った澪の問いに美桜は頷き、窓の景色に目を向けながら言った。

 「高校生にもなったし、折角だからと少し背伸びして。同級生と朝から高速バスでね」

「新宿に着いてすぐ迷子になりかけたり、次から次にやってくる長い列車に驚いたり。高いビルが建ち並ぶのも凄かったし、繁華街も華やかで。何もかもが初めてで、ただ驚くばかりだった」

「新宿から池袋に行って、その後は渋谷から首都タワーに行って、新宿に戻ってバスで帰る……そのプランだったかな?渋谷に着いてすぐ、アドトラックが交差点のあたりに止まって……。人気アイドルの広告だったから、誰もがスマートフォンを向けたの。……その時だった」

そう言った美桜が、表情を沈めて目を細める。澪は思わず、硬いシートの縁を掴んだ。

 「いきなり、広告ごとトラックのボディが膨らんで、爆発して、それすらオレンジ色の光と爆発音に包まれて……。身体が地面に叩き付けられたのは覚えてる。でも、痛い、熱い、苦しい……そう云うのを感じる間も、誰かの悲鳴すら聞く間も無く……」

そこで美桜は言葉を止める。淡々と話していたが、死の瞬間を語るのはやはり怖かった。ただ、澪と会う以上、避けては通れない。

 「美桜……さん……」

彼女の名を呼んだ少女の声は、震えていた。俯いていたが、今にも泣き出しそうなほどの表情をしていることは、美桜にも判る。

 美桜は思わず、澪から目を逸らして窓の外を見た。先刻は都心側だったから、今度は空港側。ゴンドラはちょうど頂上に差し掛かり、東京中央国際空港が綺麗に見える。飛行機が何機か離着陸するのが見えた。

 ……あんな風に、流雫を乗せた飛行機がパリへ飛び、そしてパリから戻ってきた……。そう思うと、美桜は家族と9000キロも離れて暮らす流雫が気懸かりだった、入学当初の頃をふと思い出した。

 その向かい側に座る澪の脳には、あの瞬間の渋谷の光景が浮かぶ。彼女の話とニュースで見た映像が混ざった想像でしかなかったが、もの凄く生々しい。

 ……トーキョーアタック自体、精巧なアニメや映画の世界ならよかったが、現実に起きた。そして、美桜の言葉があまりにも生々しく、生きている身として何と言えば、どうすればよいのか、何も判らず、ただ俯いていることしかできなかった。


 やがて、観覧車は次第に地上へと近付く。

「澪……」

美桜は少女の名前を呼ぶ。

 ダークブラウンのセミロングヘアが揺れる。顔を上げた澪は唇を噛みながら、今にも泣き出しそうな表情で美桜を見つめる。

 小さく深呼吸をして、澪は言った。

 「流雫は……今もあの日のテロで、苦しんでます。流雫も空港で遭遇していて、流雫自身は無事だったけど、美桜さんが渋谷で殺されたのは、自分がフランスにいたからだと……。自分が日本に残っていれば、美桜さんと会っていれば、美桜さんが死ななくて済んだと……」

その言葉に、美桜は

「流雫も……!?」

と驚きの声を上げる。澪は頷き

「渋谷で騒ぎが起きる前、空港で……。でも流雫は……どうにか逃げ延びて無事だったと、聞いてます……」

と言った。それに美桜は

「あの空港でも……?……でも、流雫は無事だったからよかった……」

と言い、更に

「でも」

と何か続けようとしたが、それより早くゴンドラのドアが開けられた。

 ……折角、美桜が高所からの東京の景色を楽しめるハズだったのに、自分が明るく振る舞えないばかりに、台無しにした。……澪はそう思っていた。

 ただ、それでも美桜は満足げな表情だったのがせめてもの救いだった。


 2人は向かい側の商業施設、アフロディーテキャッスルに向かった。澪と流雫の初対面の場所でもあり、此処から2人の今が始まったと言える。だから、澪はこの場所に思い入れが強く、好きだった。

 1階のカフェに入り、小さなケーキとコーヒーをオーダーした。澪はブラックのアイスエスプレッソとティラミス、美桜は甘めのアイスラテとアップルタルトを選んだ。小さなテラスの端のテーブル席を選び、椅子に座る。

 「……私が流雫を好きになったのは、……彼が心配だったから」

「え?」

突然切り出した美桜の言葉に、澪は顔を上げる。

「……流雫の両親のことは?」

と、ラテを啜った美桜は問う。

「聞いています。確かフランスに……」

澪は答える。

 今は西部のレンヌに住んでいて、だから流雫は親戚に預けられていることは知っている。……寂しくないのかな、そう思うことは時々有るが、その話題は未だあたしから出すことじゃない……と、澪は思っていた。

 澪は一息ついて、言った。

「休日でも朝からペンションの手伝い……。立派だとは思うけど、でも……家族に頼りたい時に頼れない、その寂しさを紛らわせているだけなんだと……私は思ってる。だから、他の同級生も近寄りにくかったんじゃないかな。それは今もだと思ってる」

「……でも、逆に何か気になるじゃない。私がいれば、少しは気が楽になるんじゃないかな……なんてね。だから近寄った……と云うか」

美桜はそこまで言って、その光を失った桜色の目をラテの水面に落とした。そして、続けた。

 「……流雫を見ていると、家に帰れば家族がいて、我が侭が言えて、それが普通じゃなくて、特別なことだと思い知らされた。だから年に一度の里帰りは、過ちじゃない。遠く離れた家族に会えるんだから、それほどの幸せって他に無いし、流雫だって……幸せにはならなきゃいけない。だから、過ちじゃないよ」

そして澪は溜め息を挟み、

 「……パパやママ、元気かな……」

と呟いた。それは、彼女が洩らした本音だった。

 ……そう、美桜は両親に会いたいと思っても二度と会えない。しかし澪は、この夢から覚めれば、また何時もと変わらない一家3人の朝が来る。そして家族だけじゃない、流雫もいる。

 「美桜さん……。……あたしより、流雫のこと判ってる……」

と言った澪に、美桜は

「学校で何時も見てたからね」

と答える。

 ……澪は、流雫と毎日学校で会っていた美桜が少し羨ましかった。

 いくらメッセンジャーアプリで話していても、それで伝わるのは所詮言葉だけでしかなく、会った回数では圧倒的に美桜に及ばない。ルナとミオの関係だった頃から、色々な話をしてきたが、それでも会って初めて判ったことが多い。

 ただ、何故流雫がペンションの手伝いにあれほど精力的なのか、それに疑問が浮かぶことは無かった。

 やはり、彼女には敵わない……そう思った澪に、美桜は言った。

「ただ、今の流雫のことは断然、澪の方が知ってる。私が知ってる流雫は、あの日で止まってるもの」

 澪は、彼女に返せる言葉を見つけられず、声が詰まるばかりだった。何を言っても、生きている人の自慢話になるのでは……と思うと、目の前の少女に対して何と言えば正しいのか、ただ迷うばかりだった。

 「……笑いなよ。自慢しなよ。流雫の恋人は澪だけなんだから」

と美桜は言い、ダークブラウンの澪の瞳を見つめ、続けた。

「私は流雫を見守ることしかできない。だけど、澪は流雫と笑える、流雫を慰めることだってできる。それは生きている人の、澪だけの特権だよ」

その言葉と、その最後に見せた微笑は、しかしやはり澪に突き刺さる。


 初対面から5ヶ月、澪は流雫と一緒に喜怒哀楽を経験してきた。澪にとって異性とのデートやキスは、流雫が初めてだった。

 美桜は、笑ったり慰めたりできるのは生きている人の特権だと言ったが、澪が今生きているのは流雫がいたからに他ならない。

 流雫との初対面の日も、澪の同級生も交えてゲームフェスに行った日も、澪はテロに遭遇した。そして、生き延びる術を手探りで引き寄せたのが流雫だった。

 そう、流雫が彼曰く「手を汚した」からこそ、澪は生きている。……絶望の深淵に立たされても微かな光を見失わない、それが澪から見た流雫の強さだった。

「あたし……流雫の力になってるのかな……」

と、澪は呟く。

「……力になる、か。難しいよね」

と美桜は言った。澪の呟きは聞こえていたらしい。

 「……例えば、変な話……テロに遭ったことは?」

と問うた美桜に、澪は

「……っ?」

と息を詰まらせ、一呼吸置いて

「……何回か……」

と答えた。その言葉に、美桜は目を見開く。……例え話のハズだったのに。

「有る……の……?」

美桜の戸惑いながらの問いに、澪は頷きながら

「……美桜さんが遭ったテロがきっかけで、日本では今、誰でも銃を持てるようになったんです。あたしも、流雫も……持ってます」

と言った。

 ……しかし、澪のミントグリーンのトートバッグには、今は銃は入っていない。外出時は肌身離さず持ち歩いていないと不安になるのに、そうならないのはやはり夢だからだろう。

 「……銃……?」

美桜は更に問う。彼女は澪の目の前で初めて、怪訝な目をした。

「エアガンでもなく、本物の銃です。とは云え、護身用に限定されていますけど」

「……日本も変わったね……」

と、美桜は溜め息をつきながら言った。

 あれだけ銃犯罪撲滅が唱えられていたのに、今ではその正反対の流れになっている。そして、流雫や澪さえも銃を持っているとは。

 自分が消えて1年、その間に何もかもが大きく変わったことに、美桜は驚き、そして戸惑っていた。

 「流雫といる時にもテロに遭遇して、流雫があたしの代わりに犯人を撃って……。だから今、あたしは生きていられる……」

と言った澪に、美桜は数秒だけ間を置いて

「……澪がいること、それが流雫の強さの原動力なのかな」

と言った。

 流雫は時々、命知らずな一面を持っている。見ている方が心臓に悪いと思えるそれは、しかし全ては自分が死なないために、何より澪を殺されないために、そうするしかない。そのことは、澪が誰より知っている。


 ……殺される恐怖を押し殺すのに、最も手っ取り早いのは、恐怖を意識する一瞬さえも脳に与えないこと。そのためなら、形振り構わなくてもいい、ただ生き延びることに全ての意識を向けるだけ。

 だから、どんな逆境でも生き延びてきて……、そして緊張の糸が切れた反動で泣き崩れる。流雫の強さ、しかしそれは脆さを常に抱えていた。

 「……あたしがいるからだけじゃない、美桜さんを失った過ちも……。先刻美桜さんは過ちじゃないと言った、でも流雫は過ちだと思い続けて……。でも、だから……流雫は絶対に屈しないんだと思います」

と澪は言った。

 俯きがちな顔は、空になった皿とグラスを見つめる。小さな溜め息をつき、澪は続けた。

 「……でも、あたしは未だ引き金を引いたことが無い。流雫がその手を汚してるから。……あたしは、流雫の力になりたいと思ってきた、でも……力になってるのか……」


 「あたしがついてるよ」

その言葉を何度も、何度も、流雫に囁いてきた。

 でも、それだけで彼の力になっているのか、それが恋人として十分なのか、澪には判らないままだった。ただ、自分が流雫といることに安寧を感じたいだけの言葉なのではないか……、そう思う時さえ有る。

 ……美桜は、時々的確に澪を刺してくる。澪の深層心理が呼び寄せた存在……彼女はそう言ったが、それなら何か納得する。説明がつかない部分も有るが、やはり夢だから整合性を気にしない……方がいいのかもしれない。

 「澪?」

美桜は名を呼ぶ。

「あ……」

と顔を上げた澪は、悲しい表情を滲ませていた。……彼女の前では暗くなる。ダメだ、あたし……。

 澪がそう思っているのを判っていたかのように、美桜は言った。

 「澪は、誰よりも力になってる。澪がいるから流雫は戦える、そして澪は流雫を癒やせる。……そう云うの、理想的だと思うな」

 周囲からは痛々しく見えても、澪は流雫にとって生きた証と生きる希望だし、流雫は澪にとって生きた証と生きる希望だった。

 銃を持たなくて済む、泣かなくて済む日々なんてどうでもよくて、ただ流雫が生きていること、それだけで澪は救われる。

「流雫には、私より澪が相応しいわ」

と言った美桜は微笑んだ。そこにリップサービスは感じられない。

「……」

澪は何も言わず、ただ頬を紅くする。

 「……澪なら、流雫の力になってあげられる。明日からも」

そう囁くように言った美桜の、桜色の瞳を澪は見ていられなかった。光を失ったままの瞳、その奥深くで澪に希望を見出していた気がして、それに触れると泣き出しそうで。


 「……首都タワー、行きます?」

澪は問う。空は既に、微かながらオレンジ色のグラデーションが掛かり始めていた。

「え?いいの?」

と美桜は問う。

「あの日、最後に行く予定だったのなら……あたしと一緒でいいなら」

澪は言った。

 今これ以上話しても、あたしは多分泣き出す。そして、逃れられない美桜との別れの瞬間でも、多分泣き出す。それなら、泣くのは後回しにしたかった。

「……勿論」

美桜は微笑んだ。澪もそれに微笑み返すと、席を立った。……思えば、今日初めて、澪は笑った。


 アフロディーテキャッスル裏の青海駅から、りんかいスカイトレインと地下鉄を乗り継ぐ形で向かったのは、古くからの東京のシンボル、首都タワー。今から60年以上前に建設され、10年以上前のスカイツリー竣工後もそのシンボルの座は譲っていない。

 その間も、美桜は以前デートした時の流雫と同じように、高架橋を走るスカイトレインからの眺めに見取れていた。

 高層ビル、大きな橋、そして海……。地元の河月に無いもの、その全てに目移りする美桜の様子を見て澪は、やはり彼女も生きていれば自分と同い年だったのだと思った。それだけに、その死があまりにも理不尽で不憫過ぎる。

 急勾配の坂を越えると、紅白に塗られた東京のシンボルに着く。澪は中学生の時に一度だけ訪れたが、地元の名所なんて得てしてそう云うものだ。

 チケットを購入し、エレベーターに乗る。複雑に組まれた赤い鉄骨越しに、東京の景色が眼下に広がっていく。展望台はトーキョーホイールより高く、また都心に位置するために周囲の高層ビルと肩を並べ、眺めが一層新鮮に映る。

「すごい……流石は東京……」

美桜は呟きながら、展望台の回廊をゆっくり回る。

 しかし、高さ150メートルの展望台よりも高いビルも多いことは、新鮮な眺めの一方で先刻までいた臨海副都心も見えないことを意味していた。

 美桜は少し残念そうな表情を浮かべるが、それは仕方ない。しかし、渋谷でトーキョーアタックに遭遇しなければ拝めたハズの景色を、こうして眺めることができた。

 澪も数年ぶりに訪れたが、至る所で進む再開発で以前より見晴らしが悪くなっているのが気懸かりだった。

 ふと、トップデッキと書かれた看板が2人の少女の目に止まる。説明には、別料金で更に100メートル上の展望台へ行ける、と書かれてある。高さ250メートル、それは澪が流雫と恋人同士として結ばれた、あのシブヤソラよりも高い。

 「行ってみます?」

「うん!」

澪の誘いに、美桜は満面の笑みで答えた。


 受付の奥の専用エレベーターは2人の貸切状態だった。先刻と同じように鉄骨の隙間から東京の景色が見える。しかし明らかに先刻より高いのはすぐに判り、美桜は期待に満ち溢れた表情を浮かべている。澪もその様子が微笑ましく、漸くこの不思議なデートを楽しめるようになっていた。

 そしてエレベーターのドアが開くと、先刻とは全く違う眺めが2人を待っていた。屋外展望台のシブヤソラと違って風を感じたりはできないが、東京湾が、街並みがよく見える。

 そして、オレンジ色から漆黒に変わり行く空が、街明かりのイルミネーションを際立たせる。

「うわぁ……!きれーっ!」

そう無意識に大声を上げた美桜は展望台の端に寄る。望んでいた以上の光景に、美桜は感無量だった。そして、その桜色の瞳に光が戻ったような錯覚さえ、澪は感じた。

 しかし、澪は気付いた。2人の時間が、もう殆ど残されていないことに。

 ……彼女が生きていれば、仲よく付き合えただろう。もしそうなら、流雫と出逢うことは無く、彼女を知ることすら無かった、と云う尤もらしいことはまた別の話で。

 「……美桜さんが生きてるうちに、逢いたかったな」

澪の呟きに、美桜は顔を向けて言った。

「生きてるよ?」

その一言に、澪は美桜と目を合わせた。

「え?」

と小さな声を上げた澪に、美桜は微笑みながら言った。

 「この夢を忘れなければ、私は澪と生きていられる。それに流雫が、私がいたあの日々を忘れなければ、私は流雫と生きていられる。だから、私は死んでないよ」

……忘れない限り、生きていられる。その言葉は、同時に彼女の願いだった。

 そして、何時だったか澪自身も、澪がいるのに彼女を思い出すことに苛まれていた流雫に言っていたことを思い出す。

「彼女のためにも思い出してあげなきゃ……」

と。

 ……彼女の時間は、あの日で止まったまま、動くことは無い。そして、やがて生きていたこと自体、何時かは忘れ去られる。

 ただ、流雫や澪が忘れない限り、そして2人の足枷にならない限り、生きていられる。

 そう思える、そう言える美桜は、あたしより遙かに強い。澪はそう思った。だから、強くないあたしから離れてほしくない、別れなんて来てほしくなかった。

 「笑いなよ……澪」

そう言って微笑んだ美桜を、澪は思わず強く抱きしめた。

「美桜さん……!」

「澪……?」

自分と同じ読みの名前を囁くように呼ぶ美桜は、目を見開いた。

 「やだ……!!」

その声で、美桜は澪が泣いているのだと知った。

「別れるなんて……!やだぁ……ぁ……っ!」

……夢から覚めれば、もう二度と会えない。だから、その現実から逃げ出したかった、彼女の手を引いて。

 「……もう外は夜が明ける。だから澪も私も還らなきゃ……、それぞれがいるべき世界に」

と、美桜は優しい声で囁く。判ってはいる、だけど。

 「でも……!」

と、震える声を絞り出した澪の頬に美桜の手が触れ、親指が彼女の目の下を拭いた。……その指が、少しだけ熱く感じた。

 「流雫のこと、頼むよ。澪」

そう美桜が囁いた言葉に、澪はただ泣きじゃくるしかできなかった。

「……澪、楽しかった。こんな形でも、逢えてよかった。だから、笑って別れたいの」

そう言った美桜も、少しだけ桜色の瞳を滲ませた。

「……美桜さん……」

と、桜色の瞳を見つめて名を呼んだ澪は精一杯微笑む。滲む視界は、しかし最後に鮮明に、世界一優しい美桜の微笑を映した。

「澪……あり……が……と……!」

彼女の声がフェードアウトし、意識が遠退く……。


 ダークブラウンの瞳が捉えた白い壁とピンクの枕は、部屋の薄暗さで灰色が混ざったように見え、そして滲んでいた。

「……あ……さ……?」

澪は呟く。頬と枕が濡れていた。

 ……少し不思議で悲しく、世界中の切なさを掻き集めたように、心臓を軽く締め付けるような夢。しかし、もう少しだけ見ていたかった。

 隣で眠る流雫を起こさないようにベッドから起き上がった澪は、少しだけカーテンを開けた。風雨は数時間前より、寧ろ激しくなっている。その天気に小さく溜め息をついた澪は、机に立ててあったコンパクトミラーを見つめる。

 ……小さな鏡に映る自分に向かって、微笑んでみた。……誰よりも流雫に近い場所にいることを誇りに思える。

 ……夢の世界で美桜と出逢った。それ自体、彼女が見せた魔法だったように思える。いや、それは澪が逢いたいと願ったから。

 彼女の魔法は、流雫と澪を引き寄せたこと。あの悲劇で、この世界から切り取られた少女が、切り取られなかった少女に見せた、最初で最後の魔法。

 そして、あの絶望の深淵に沈む少年の手を掴んだから、今澪は流雫と生きていられる。愛していられる。

 「流雫のこと、頼むよ。澪」

その優しい声を思い出す澪。拭いたハズの頬が、また少しだけ濡れた。

 「ありがと……美桜さん」

そう呟いた澪は、部屋の端のクローゼットを開けて、フォーマルウェア代わりの黒いセーラー服を手にした。あの日から1年の、大切な日を迎えるために。

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