3-10 Frozen Reason
総選挙から一夜明け、朝のワイドショーではその総括に全ての時間が割かれていた。
野党の国民党が与党の自由党に接戦ながら土を付けた。それでも単独過半数には至らず、今回も連立与党の政権になることは、有識者の予想通りだった。
そして、今回特に注目された2つの選挙区の選挙結果について、分析が始まった。
7月に河月のショッピングモールで起きた自爆テロで任意同行を求められ、更に1年前の東京同時多発テロ、通称トーキョーアタックの容疑で投票日前日に事務所が強制捜査を受けることとなった山梨の白水、そして佐賀の伊万里。共に無所属の2人、結果は揃って落選だった。
政治評論家のコメンテーターはその敗因についての意見をまとめていた。
先ず白水は、市議会などの地元政界での実績も何も無く、地元とのパイプが皆無に等しく、支持層が極めて薄いことを強調していた。得票数も泡沫候補者のそれで、立候補の意味そのものを疑問視する意見も見られた。
伊万里の場合は、元々4月の国政進出も長年地元の有力者だった井上元幹事長の暗殺による補欠選挙で地滑り的に当選したものだが、その時は野党推薦の候補者との一騎打ちだった。しかし今回、長年この選挙区から出馬していた井上武雄元幹事長の弟子と云える候補者が出馬した。
地方では特に、1人の有力者が長年に亘って連続で選出されることが多いが、その後継ぎと言える新たな候補者がその票を受け継ぎ、伊万里の再選を阻んだ形となった。
その露骨な日本人ファースト政策は保守層、特にネット右翼と呼ばれる連中にウケているが、地元選挙区での伊万里の支持層は薄く、新人に太刀打ちできなかった。ただ、やはり地方都市と云う環境も要因で、これが大都市圏であれば、当選も有り得た。
しかし同時に、無所属故に比例代表での出馬はできないルールも、落選の要因になった。仮にこれができたとすると、全国の有権者から票を得ることができるため、場合によってはネット右翼の票を掻き集める形で当選も有り得た。
そして、トーキョーアタックへの関与が疑われていることについても触れていた。特に伊万里は、次の国会議員選挙で国政復帰を目指すだろうと思われているが、そのためにはこの疑惑をクリアにしなければならない。前途多難だ。
注目の選挙区の話題はそう締め括られると、今後の組閣についての話題が始まった。流雫は食器洗いが終わって自室へと戻る。今日は朝から図書館へ行くことに決めていた。
準備をしながら、昨日の夜に澪とメッセージを遣り取りしていて、2人して思ったことを思い出していた。
……このままで終わらない。それは悲観でも無く、最も現実的だと思った。
開票から半日以上が経ち、全ての結果が出ても、SNSでは投票日前日の強制捜査自体が政府の陰謀で、政府と警察が癒着した末の愚行だとする投稿が散見される。
正論を全体主義と同調圧力で封殺しようとする売国奴の政治家に、無知で無教養の国民が盲目的に賛同した結果であり、日本の民主主義が非常事態であることを世界に見せ付けることになった。……と云うのが、複数の投稿をまとめて見えてきた、支持者連中の持論だった。
右翼左翼問わず、相手に対してのレッテル貼りに勤しむのは、政治絡みの言動ではよく有る話だ。自分は知性が有り正しく、相手は知性が無く間違っている、と相手を貶めることで自分が優位であろうとする。特にSNSではそれに対する反応が数字として如実に現れるため、同志で反応し合うことで互いに自分の知性と正論を武装するのだ。
そして、伊万里と白水の2人が国政での活躍を断たれた原因は、政府と警察の癒着による陰謀だった。……そうでなければ納得しない連中が、義憤に駆られていることは間違い無かった。それがどう云う形に発展するか、想像すると悪寒がする。
流雫はフランスから誕生日プレゼントで届いた、小さめのバックパックを手にした。鐘釣夫妻からは黒いショルダーバッグを送られていた。どっちも、ディープレッドのショルダーバッグとは使い分けるが、ノートや教科書を何冊か入れた上で貴重品も入れられる唯一のバッグで、自転車に乗る時も便利だ。
何より、背中が無防備になりやすいバックパックの欠点を排した、背中から下ろさなければ開かない仕様になっている。
銃の収納と取り出しには困るが、その取り回しさえ注意すれば普通に使いやすい、と彼は思った。
カラーデニムと白いTシャツ、その上にUVカットパーカーを羽織った流雫は、最後にアナログのスマートウォッチとブレスレットで左右の手首を飾った。
雨の心配は無さそうだが、しかし今の季節に自転車は短距離でも汗だくになる。流石に避けたい。流雫は、大人しくバスで河月駅を目指すことにした。駅ビルに隣接する形で3階建ての図書館が入っているため、駅までバスで行くだけでよい。
巷は盆休みだが、平日には変わりない。ラッシュアワーを過ぎると、バスは河月駅や市街地の総合病院へ向かう人ぐらいしかいない。流雫は最前列の席に座り、バッグからブルートゥースイヤフォンを取り出した。
終点の河月駅にバスが着くと、流雫は最初に降りる。その足で改札前のコンビニでランチ用のサンドイッチとボトル缶のコーヒーを手に入れると、隣の建物へと入った。
真新しい図書館の自習室は、半年後の大学受験や高校受験を控えた学生で埋まっていたが、それ以外は空いていた。しかし、コーヒー片手に作業するなら、その方が寧ろ好都合だった。
流雫は、ランチタイムまでは宿題を片付け、自由研究は午後からにしようとした。
……夏休みの宿題恒例の自由研究。流雫の今年のテーマはテロについて。ただ集めた情報をまとめるだけで、観察や記録は不要だ。自由とは言いながらも、教師が定める定義からは外れるだろう。
だがこの1年、テロに何度も遭遇してきた流雫だからこそ、触れられるテーマでもあったし、寧ろ高校生らしからぬテーマだからと目を背けるワケにもいかない。
トーキョーアタックも、自分が遭遇してきたテロに限っても、故郷フランスで起きているそれより背景は簡単だ。間接的ながら澪の父にも見せることにもなった、あの推察が全て正しければ、の話だが。
流雫はノートと問題集を取り出す。持ってきた問題集は1時間ほどで終わるハズだと思い、細書きサインペンとシャープペンシルが入ったペンケースを開けた。
澪は半袖のセーラー服を纏い、秋葉原に出ていた。何故長い夏休みに登校日など設定されているのか、それも何故盆休みの真っ最中なのか、不可解極まり無い。
2時間で終わった学校を後にした澪は、立山結奈と黒部彩花……何時もの同級生2人と遊ぶことにした。特に結奈が好きな、スマートフォン用RPGパズルゲームのグッズが秋葉原のオタク向けショップに大量入荷しているらしく、3人で行こうとした。
山手線に揺られて向かった秋葉原の街は、東京ジャンボメッセで開かれているオタク向けの大規模イベントに絡んだ人出なのか、普段より相当混雑している。当然、飲食店も空いていない。学校の最寄り駅近くでフィッシュフライのバーガーセットを頬張ったのは、ランチタイムには幾分早いが正解だった。
制服のまま、イベント帰りの集団や外国人観光客に混ざって歩くのは、半ば場違いにも見えるが、3人は気にせず大きなショップに入る。店内は混雑していたが、大方の目的は二次創作を扱った別フロアで、目当てのフロアは比較的空いていた。
ロスト・スターライトのPOPが目立つグッズコーナーに辿り着くと、それぞれがグッズを見ては手にする。澪は自分が使っているキャラクターの、アクリルキーホルダーやチャームを選んだ。
……正義感が強く、しかし悲しい過去を抱え、笑い方を忘れた嘆きの美少女騎士。澪は、そのキャラクターを持ちキャラに選んだ。最近のこのテのゲームでは珍しく、フルボイスではないが、代わりに名前を変えられる。だから澪は、彼女にルナと名付けている。
ビビッドなレッドとスカイブルーのオッドアイの目をしているが、設定も含めて何処か澪が愛しい少年に重なる。否、正しくは重ねていた。
月の光のような優しさが垣間見えるキャラだから、と一応の理由を拵えている。しかし、本当の理由は話せば痛々しいと思われるものだとは、百も承知だった。
「澪はそれにするんだ?」
と結奈が言う。
「あたしの持ちキャラだからね」
と、澪は微笑みながら答える。
本来、澪はこう云うグッズには興味を示さないだけに、2人にとっては意外だった。それほどこのゲームにハマったのだろう、と2人は思っていた。
ゲームをする時間が無い日でも、ログインボーナス目的のログインだけは、配信開始日から欠かしたことは無いほどで、それも間違いではないのだが。
会計を済ませると、3人にとっての秋葉原での用事は終わった。欲しいものは全員一通り入手できて、店をはしごする必要が無くなっていたからだ。
しかし、未だ午後になって1時間も経っていない。このまま帰るには未だ早いし癪だ。折角だし別のショップに行ってみるのも悪くない、と3人は移動することにした。
その途中、中央通りを2台の警察車両がサイレンを鳴らして走り去るのが見えた。2台が交差点を左に曲がると同時に、建物の壁に反響していたサイレンが鳴り止む。その場所に見覚えが有った彩花は
「あれ、あの場所……」
と呟くような声で言った。
「確か、前行ったカフェがすぐ近くに……」
結奈はそれに続く。
それが何を意味しているか、澪には何となく想像がつく。場所的に単なる偶然ならよいのだが……そう思いたかったが、思えなかった。
OFA本部襲撃事件の瞬間、結奈と彩花はそのビルの向かい側のカフェにいた。銃声が聞こえ、周囲から驚きの声が上がり、他の客も立ち上がって窓の外を見る。窓側にいた2人もそれに目を向けたが、更に銃声が聞こえビルの窓が割れるのを見て、怖くなった。
落ち着け、と自分に言い聞かせる結奈と彩花。1週間前にジャンボメッセで爆発が起きた時よりは安全だ……。根拠など無いが、そう思うことでやり過ごそうとした。
……その時のカフェの近くでサイレンが止まった。それは、襲撃を受けたビル……OFA本部で何かが起きたからだ、と澪は思った。2日前の強制捜査と昨日の総選挙が、今起きている何かの発端だったと云っても不思議ではない。当然、それは外れていて欲しいと思った。
「……行こう」
結奈は言った。
……あの場所は、今は亡き同級生の父親が射殺された場所でもある。その報復とばかりに同級生、大町は伊万里を追って河月へ出向き、そして返り討ちに遭った。
自分が因縁を付けた相手に助けられ、微笑みながら看取られ、それは残された少年の慟哭を誘った。その少年こそが、宇奈月流雫だった。
あの事件さえ起きていなければ、馴れ馴れしい絡みに唾棄しつつも、未だ平和な日々を過ごしていただろう。それだけに、結奈はあの場所から目を背けたかった。そして、それは彩花も同じだった。
別のショップでも同じゲームのグッズを物色して、ジャンボメッセのイベント限定品が出張販売されているのを知った。澪が思わず掴んだアクリルキーホルダーとパスケースは、夕焼けで黒い衣装と鎧に身を包み、真紅のケープとシンボルのシルバーのロングヘアを風に靡かせ、空に手を伸ばす美少女騎士のキービジュアルが遇われている。
……4月の夜、シブヤソラで流雫は夜空に向かって手を伸ばした。その悲壮感に支配された目は、今も澪の脳に焼き付いている。そして、彼女がルナと名付けたキャラのイラストが、あの夜を思い出させた。
「……澪?」
彩花が問う。
「あ……、……この時、彼女何を思い浮かべてるんだろうって……」
澪は言い、自分が今思っていたことをはぐらかして続けた。
「何か、幸せを掴んでほしくなるような……」
しかしそれは、流雫に言っているような錯覚さえ覚える。自分が或る意味危険に思えてくるが、仕方ないことだった。
「確かにね。設定があまりにも不憫に全振りだし」
結奈は言い、先に会計に並ぶ。澪もそれに続いた。
……思わず流雫を思い出すのは、このキャラが似ているからなのは判っている。しかし同時に、2週間後に流雫に会えることが、遊びではないとは云え待ち遠しいと思っていたから、でもあった。
予想外の収穫も有って満足した3人は、秋葉原駅へ向かった。満足したが、とにかく制服は夏服と云っても暑い。駅前にケータリングワゴンが止まって、レモネードを売っているのが遠くから見えた。数人の列ができている。
しかし、彩花はワゴンを避けたがっていた。あのジャンボメッセでの件が軽くトラウマになっているようだった。そうなるのも無理は無い。
……屋上でケータリングワゴンが爆発し、屋外階段では逃げようとした来場客が殺到した挙げ句、将棋倒しが発生した。そしてアトリウムでは、流雫と澪がテロリストに遭遇した。4人が無事だったのは唯一の幸いだったが、彩花は今でも恐怖に襲われる。
同じようなシチュエーションでの爆発が、二度と起きるワケが無いと云う保証など、何処にも無いのだ。無論、気にすればキリが無いことは彼女自身も判っている。ただ、それほどインパクトが大きい事件だったことを、改めて思い知らされる。
……澪は彩花の反応を見て、河月署で父が言ったことを思い出した。
流雫がショッピングモールで遭遇した自爆テロも、フードデリバリーを装っていた。しかし、だからと全ての配達員を疑えばデリバリーなどオーダーできないし、街中で遭遇する可能性まで入れれば、近くのコンビニへの外出すらできない。
特に日本は、性善説で成り立ってきたような社会。だからと全てを容易く信じるのは危険だが、何処かで割り切るしかない。あれは自分の運が悪かっただけだ、生きているだけツイているではないか、と。
3人は秋葉原駅の中央口に行こうとした。今いる電気街口からは通路で結ばれている。その横断歩道の向かい側に建つ大きな家電量販店の1階に何軒か店が有り、その1軒に別のレモネード屋が入っているのを結奈が思い出した。そこなら彩花も安心するだろう。
「行こう」
結奈は言った。
彩花を挟むように、結奈と澪が並んで歩き始める。
秋葉原はオフィス街の一面も有り、盆休みとは云え平日だからと普通に出勤の人も少なくない。スーツを着た人の往来も有り、そして大型イベントの余波も有り、ビジネスとプライベートの両面で賑やか……もとい慌ただしい街と云う様相だった。
駅の入口前には、見るからにそのイベント帰りらしい服装の4人がいた。缶バッジを多数付けたバックパックを膨らませているのが目に付く。今からそのテの……先刻まで自分たちもいた……ショップを回ったりするのだろうか。澪は最初そう思ったが、しかし一瞬不穏な予感がした。
何もかも警戒してはキリがない。それは判っているが、全員が俯いたままなのが気になる。イベントで目当てのものが売り切れで、秋葉原のショップに逆転を賭ける気なのか……、と思うことはできなかった。
突然、銃声がコンクリートの壁に反響した。澪たちも含め、近くにいた人々は全員反射的に固まり、その場に立ち止まる。それと同時に4人が
「うわあああああ!」
と叫びながら四方に散る。1人は駅の南側へ、1人は駅の北側へ、1人は改札を飛び越えて駅構内へ、そして1人が澪に向かって走ってくる。澪は
「えっ!?」
と声を上げた。
咄嗟に、自分より左側を歩いていた彩花と結奈を、庇うように壁に大きく幅寄せして、男を避ける。少し大柄の男は、その場で盛大に前のめりになって転ける。
「あぁっ!」
と声を上げた男の様子に周囲が笑い始める。アニメに有りがちな転ぶオタクの典型的な様相だ。澪と結奈は睨むように、男に振り向く。
だが、同時に刑事の娘はほのかに変な臭いを感じた。それが何なのかは判らないが、反射的に
「逃げて!!」
と叫んだ。結奈と彩花も一瞬戸惑う。
……逃げろ、しかし何処へ?何処かは澪にも判らない、ただこの駅前から離れなければ。
「息を止めて!早く!」
澪は結奈と彩花に、半ば命令するように声を上げた。
2人は、切羽詰まった澪の言葉に従って息を止めると駅の方へ走り、澪は彼女たちと反対方向へ走る。男は起き上がると、澪の方へ走ってきたがすぐに再び転け、動かなくなった。
風はコンクリートの建物の間を通って、駅から中央通りと呼ばれる大通りまで吹いてくる。澪は小さな店が並ぶ路地へ曲がり、高架線の脇から大通りを目指す。何処まで逃げれば安全なのか判らないが、走らないと、離れないと。
大通りに差し掛かった時、少し離れた横断歩道でクラクションが鳴った。シルバーメタリックのセダンの直前で、人が倒れている。
「おい!赤信号で飛び……!」
スーツを着た男が車から降りながら怒鳴るが、言葉を途切れさせる。接触したワケでもないのに目の前で倒れた青年の男を抱えると、車を運転していた男は
「おい、どうした!?」
と血相と声色を変えた。それとほぼ同時に、横断歩道にいた十数人が次々とその場に蹲る。
その光景を、クラクションが鳴ったと同時に目の当たりにした澪は、無意識に
「救急車を!」
と男の方向へ叫び、異臭がしない空気を限界まで吸って息を止め、横断歩道へ走った。
自分に近寄ってくる少女に、男は見覚えが有った。先輩刑事の娘だった。そして彼女にもその男が、弥陀ヶ原だと判る。父の後輩刑事は、近寄ってくる澪に思わず
「何なんだこれは!」
と叫ぶ。
突然、車の前に人が倒れるように飛び出してきた、と思えばその相手は衝突していないのに動かないし、近くにいた人も一斉にその場に蹲り、中には倒れている人もいる。いくら刑事と云えど、それで平静を保つことができるとは思えない。
「駅前で異臭が!」
と澪が言うと、
「何……?乗れ!」
とスーツを着た男は言い、澪を助手席に乗せて自分も運転席に座る。
交差点前で一斉に蹲った人々は、駅前で異臭を吸って、それがあのタイミングで何かの症状を引き起こしたのか。
エアコンの外気導入をカットすると、サンバイザーに仕組まれたLEDの赤色灯を点滅させ、車載無線機を手にした。
「臨海署の弥陀ヶ原より、秋葉原駅電気街口で異臭騒ぎ発生、負傷者多数。大至急応援と救急車の手配を求む」
そう言って溜め息をついた弥陀ヶ原は、澪に問う。
「……何が起きてるんだ?何か見たのか?」
「……銃声が聞こえて、バックパックの男たちが走り出して、すれ違い際に異臭が……」
と澪は答えた。
弥陀ヶ原は少しだけドアを開けて手早く降りる。そして数秒……一呼吸分だけ間を空けて再び乗ると、もう一度無線機を手にした。
「……臨海署の弥陀ヶ原より、先程の異臭はシアン化水素の可能性有り。何者かが意図的に撒いた模様!」
その物質に、澪は疑問を持った。
「シアン化水素……?」
「青酸ガス。そっちの方が判りやすいかな。青酸カリなどのシアン化物から発生して、シアン化物中毒を引き起こす猛毒だ」
弥陀ヶ原の簡単な説明に、澪は目を見開く。
「……じゃあ、結奈と彩花は……!」
「知り合いか?」
「同級生!あたしと別方向に逃げた!」
澪はそう言って車を降りようとするが、弥陀ヶ原は思わず澪の腕を掴む。
「待て!」
と制しようとした刑事に澪は
「でも!」
と声を上げる。
「自分から中毒になる気か?……青酸ガスは幸い、空気より軽い。今出た時も、ほぼ臭いはしなかった。もう少しだけ待てば、安全にはなるだろう」
澪は不服だが、ここで弥陀ヶ原に従っていなければ、後々父から苦言を呈される。
「警察の応援も救急ももうすぐ来る。俺たちに任せろ」
少女は、その言葉に従うしかなかった。
弥陀ヶ原は澪を残し、秋葉原駅へ走る。エアコンの音が響く車の中から外を見ると、漸く応援が到着した。
それと同時に、少女の手に握られていたスマートフォンから通知音が鳴る。
「秋葉原で異臭騒ぎ、負傷者多数」
そのポップアップに重なるように、1通のメッセージが届いた。
「今から行く」
流雫からの一言を目にした澪は
「……バカ」
とだけ呟いた。
澪は流雫に、登校日が鬱陶しいと云う愚痴と秋葉原で遊ぶことをメッセージで送っていた。少しだけ遣り取りした後、澪は最後に
「また夜に送るね」
と打っていた。
流雫は、秋葉原へは一度だけ行った。ただ、澪と小洒落たカフェに行っただけで、よく聞く、色々な意味でのカオスな側面を知らず、興味が有った。
場合によっては、2週間後に軽食がてら少し寄り道してもよい。尤も、メインの用事は遊びではない、と言ったのは自分なのだが。
図書館で宿題を終えた流雫は、少し遅めのランチにした。サンドイッチを頬張り、缶のボトルコーヒーを喉に流すと白紙のルーズリーフを机に出した。今から自由研究に手を付ける。
突然、机に置いていたスマートフォンが震えた。ミュートに設定していて、バイブのモーター音だけが聞こえる。
「秋葉原で異臭騒ぎ、負傷者多数」
ニュース速報の通知だった。
……秋葉原……?まさか澪も……?
流雫は机の上を片付け、澪に
「今から行く」
とだけ送った。
何がどうなっているかも判らない、ただニュース速報でも異臭騒ぎとしか書かれていない。それでも行かない、と云う理性はシャットダウンされていた。
流雫はバカだ、と澪は思った。異臭騒ぎ……最早毒ガステロと呼んでも差し支えない……の一報を聞いて、澪に会おうとしている。
メッセンジャーアプリの遣り取りで何を言っても、流雫は澪の無事をそのオッドアイの瞳に映さなければ気が済まない。それほど、言わば澪ファーストで自分自身を置き去りにするのは、最早その領域でもなければできないことだった。
それでも、今は危険過ぎる。澪は通話ボタンをタップした。
手に握ったスマートフォンが震える。澪からの着信だった。
「澪?」
流雫は河月駅へ向かうべく図書館の外に出たところで、通話ボタンを押した。
「来てはダメ。あたしなら無事だから」
「でも。一体何が……」
流雫は問う。異臭騒ぎとしかニュースには出ていない。
「青酸ガス。弥陀ヶ原さんがそう言ってた。だから来ても危険なだけだから」
澪は言った。
……弥陀ヶ原は、もう少し待てば安全になるだろうと言った。しかし流雫には危険と言わなければ、行っても問題無いと思われれば、次の特急列車にでも乗るだろう。彼なら、やりかねない。
しかし、流雫は青酸ガスの言葉に背筋が凍る。
「青酸……澪!」
「あたしは無事。無事だから」
澪は、一瞬焦りを見せた流雫を制するように言い、一呼吸間を空けて言った。
「……今、弥陀ヶ原さんに保護されてるの。偶然通り掛かったらしくて、偶然出会して。……今警察も救急車も集まってる」
その言葉を遮るように、更にサイレンが幾重にも重なって近付いてくる。
「……その直前に銃声もして……それが合図だったのかは判らないけど、それから……」
「……澪……」
流雫は完全に言葉を失う。
「……ありがと。でも、あたしなら無事だから」
そう言った澪は、運転席の窓ガラス越しに弥陀ヶ原がドアを開けようとするのが見えた。
「……また夜、話すから」
そう言って澪は通話を切る。それと同時にドアを開けて刑事が乗ってきた。
「通話中だったか。急かしたようだ」
「いえ、それは……」
澪は首を振る。弥陀ヶ原は少し間を空けて、ゆっくり言った。
「……君と同じセーラー服の学生が1人、駅前で倒れていた」
その言葉に、澪の頭は力任せに殴られたような目眩を覚える。
「……え……?」
「大きな三つ編みの子だ。もう1人は一緒にいるが……もしかして、同級生かい?」
セーラー服……大きな三つ編み……、そして一緒にいるってことは2人組……?
「彩花!結奈!」
澪は無意識に2人の名を呼び、ドアを開けた。
「おい!」
「もう安全でしょ!?あの2人を助けないと!」
そう言って澪は、秋葉原駅へと走り出す。
「待て!!」
と大声を出した刑事の声は届かなかった。
この刑事も無防備、それでも無事に見える。なら、自分も問題無いのでは……。後で父親経由で苦言を呈されるとは覚悟していたが、そう言っている場合ではない。2人が気になる。
……薬に近いような異臭はしなかった。しかし、目の前では多数の人が倒れ、それぞれに救急隊員が駆け寄っている。
その近くでは、警察官がバックパックを背負ったまま倒れている男を仰向けにし、意識を確認していた。
言葉を失った澪の足が竦む。これが、青酸ガス……テロ……なの……?
戦慄と焦燥感を色濃く滲ませるダークブラウンの瞳に、澪と同じセーラー服を着た2人の少女が見える。
駅の柱に額を打ち付けるように蹲る黒い三つ編みの少女と、頭を押さえながらその背中を擦っているライトブラウンの姫カットの少女。
「結奈……!彩花……!」
怒りと悲しみを交錯させた表情を露わにした澪は、地面を蹴った。数秒でも早く、2人の元に辿り着きたかった。
「結奈!彩花!」
2人の名を呼びながら隣に辿り着いた少女に
「み……澪……?」
と返した結奈は顔を上げるが、息切れしている。青酸ガスを少し吸ったのか……?
「彩花は!?」
「み……お……」
彩花も澪の声に反応したが、顔を向けない。顔を下に向けたまま、時折嘔吐いては息切れしている。
「救急車が来てる。助かるわ!」
と言った澪は、しかしその言葉とは裏腹に冷静さを欠いている。
「澪、は……?」
「あたしは無事。それより2人が……!」
と結奈に答えた澪の後ろから、救急隊員が走り寄ってくる。これで2人は助かる。そう思った澪は脇に退き、救急隊員の指示に従うことにした。
同伴者として救急車に乗ることになった澪は、担架で担がれた彩花と隣に座る結奈を見ていた。緊張の糸が切れたのか、力なく座席に座っている。
……澪と2人は逆方向に別れ、澪だけが無事だった。男が澪を追い掛けるように走り始めた時点では、2人が正解だと、澪は一瞬思った。しかしそうはならなかった。
あの場で、咄嗟の判断ではどの方向に逃げるのが正解だったのか、誰にも判らない。錯乱したような男の動きを先読みして的確に逃げる……そう云う芸当などできるハズもなく、死なないだけ不幸中の幸いだと思うしかない。全ては結果論でしかなかった。
救急隊員が処置を行いながら、搬送先が決まったと澪に告げる。やがて、サイレンを鳴らしながら救急車が走り出した。患者の搬送と云う目的だからか、タイヤとシャシーを繋ぐサスペンションは軟らかく、常にゆっくり縦揺れしている感覚だった。
数分後、サイレンが止まって一呼吸分開けて救急車が揺れた。もう搬送先の病院に到着したらしく、すぐに後部のドアが開けられると、結奈と彩花は同じ処置室へ通される。
1人残された澪は、病院の看護士から問われたことを答える。と云っても、先刻救急隊員から問われたことをリピートするだけだった。
ふと周囲を見回すと、病院は急患で混雑していた。それも、同じような症状で。
……収穫前のアーモンドに似た、ベンズアルデヒドの臭い。澪にとっては薬のような臭いに思えたが、それが官能的な特徴のシアン化物中毒の被害は頭痛や目眩、息切れ、嘔吐などに始まり、重症化すると発作や意識障害、痙攣などを経て、最悪の場合は死に至る。
そして、今そこにいる患者は全員その何れかの症状を抱えていた。
待合室で澪は、スマートフォンと睨めっこを続けていた。シアン化物中毒とシアン化水素、そしてSNSで今の秋葉原の様子を調べていた。
フィクションで他殺によく使われ、現実では服毒自殺でよく使われる青酸カリ……シアン化カリウムも、同様にシアン化水素を発生させる。それが今日、秋葉原の街に撒かれた。
そして、駅のホームでも人が大量に倒れたと写真と共に投稿されていて、澪は思わず画面を閉じた。思い出したのは、弥陀ヶ原の言葉だった。
「青酸ガスは幸い空気より軽い」
空気より軽いガスは、上空へと拡散されていく。NRの秋葉原駅は、改札の上にプラットホームが有る高架式。ガスが空気中に拡散されることで、幾分濃度が下がっていたとしても、地上より少し遅れて吸うことになる。
……列車を待っている間、駅前の騒ぎを目にするも、何が起きているのか判らず、ただ人が倒れる様だけを目の当たりにする。それが得体知れない恐怖に変わったタイミングで、鼻腔を異臭が刺した。
一瞬でパニックに陥ったプラットホーム。ホームドアが有ったことで、混乱で人が線路に転落しなくて済んだが、避難するにも逃げ場が判らず、階段が混雑した。
それに、ガスを撒いた1人は改札を飛び越えた。それがどう動いたかは判らないが、その影響は恐らく小さくない。
そのうちにガスを吸って発症する人が続出し、次々とその場に蹲る。中には、結奈や彩花より先に搬送しなければ危険な人もいただろう。
サイレントに設定し忘れていたスマートフォンから、ニュース速報の通知が鳴った。
「秋葉原異臭騒ぎ、犯人全員の死亡確認」
そのニュース速報を見ただろう他の人から、小さいながらも驚きの声が聞こえた。
人によって異なるらしいものの、青酸ガスの致死量は数グラムにも満たない。背後のバックパックから噴出させて走り回ると、それ以上のガスを簡単に吸うことは火を見るより明らかだった。それでも、この自殺攻撃を厭わなかったと云うのか。
これも、一連のテロの延長なのか……澪はそう思った。銃声こそ響いたが、トーキョーアタック以後のテロで、流雫や澪が遭遇したものに限っても、化学テロは初めてだった。
今までは、爆発物と銃と云う物理攻撃だけだった手口に、化学兵器が増えた。それは、テロの脅威が増していることを意味している。世界史を見ても化学兵器によるテロや武力攻撃は極めて少数派だが、起きてはいた。
ただ、その極めて少数派と云う事実が、流石にそれは無いだろうと云う、一種の油断を招いていた。現に29年前、日本で起きていたのだから。
澪は頭を抱えていた。流雫は、自分を心配して東京に行くと言った。澪は危険だからと彼を制した。
「あたしなら無事だから」
と。
……確かに、無事だった。幸い、中毒症状は何も出ていない。だが、理性だけが瀕死だった。……制したけど、でも。
「……助けて……流雫……」
澪は呟いた。
それに被せるように、
「全く……」
と聞き覚え有る声が少女の耳に届く。
「あ……」
澪は咄嗟に顔を上げる。弥陀ヶ原だった。
「事情聴取でこの病院に回されたが、まさかいるとはな……。……同級生が気になるのは判るが、危険地帯に飛び込むなんて愚の骨頂だ」
そう苦言を呈した刑事の声を、半分聞いていなかった澪は小声で問う。
「……今、秋葉原は……」
空いていた澪の隣に座った弥陀ヶ原は、周囲に聞こえないように小声で言った。
「混乱している。青酸ガスの被害者の搬送と同時に、小規模ながら暴動寸前の状態だ」
澪と結奈、彩花の3人が見た警察車両は、その推測通りOFA本部前で止まった。それは2日前のOFA強制捜査を受け、抗議運動を展開する左派集団と警察の小競り合いだった。
そして今、秋葉原駅前ではデモ集団と警察の一触即発の事態に陥っている。デモ集団の目的は、伊万里雅治と白水大和の落選は、正論を不当に葬ろうとした国と警察の癒着による陰謀だ、その上で伊万里と白水の選挙区に関しては選挙結果を破棄し、無条件で2人の当選とせよ、と云うものだった。
この数日間、東京で最も賑やかなのは秋葉原で、この大規模イベント時に全国各地から集まる連中は、政治に無関心な世代が多いと言われている。そこで政治的行動を起こすことによって、無関心な連中を取り込む目的が有った。
更に、このサブカルチャーの聖地に集まるオタクの中には、ネット右翼と呼ばれる連中も少なからずいる。それらを蜂起させるための引き金でもあった。
弥陀ヶ原は手帳型ケースを付けたスマートフォンを取り出し、ニュース速報の動画を澪に見せると、先輩刑事の娘は今何が起きているか判った。
「文字通りの非常事態だ……」
そう呟く弥陀ヶ原の口調は、苛立ちを隠さなかった。
……青酸ガスを撒かれた現場でデモとは、いくら空気より軽く、時間が経てばガスは残らないと云っても、流石に命知らずだと思わざるを得ない。そして、この事態が穏やかに収束するとは思えなかった。
澪はメッセンジャーアプリを開いた。
澪から制止された流雫は、悶々としていたが東京に行くのを諦め、自由研究に手を出した。しかしノートは白紙のままで、スマートフォンのニュース動画に釘付けになっていた。
音こそ出していないが、映像とテロップで何が起きているのか判る。
「ルナ」
映像にポップアップが重なる。澪からのメッセージだった。流雫は動画を閉じてメッセンジャーアプリを開いた。
「無事?」
流雫は再度問う。
「うん、あたしは。でも、同級生がガス吸っちゃって運ばれて、その同伴で病院にいる。助かるとは思うけど」
その返事に、流雫はそれが誰か察しが付いた。
一度だけ、ジャンボメッセの日に会ったあの女子高生2人。そのうちの片方なのか、両方なのか。
「……まさか、こっちに来てない?」
「流石に、澪に怒鳴られると思ったからね」
流雫は一旦そう返して、続ける。
「駅前で暴動になってて、秋葉原駅も閉鎖らしくて動きようが無いっぽくて」
それは今のニュースで伝えられた。
青酸ガスによる二次、三次被害を防ぐため、高架駅となるNR線はすべて秋葉原駅を臨時通過する措置を執った。運行上の制限なのか、列車は一度駅で停止するが、ドアを開けないまま発車する。その光景もニュース動画に映っていた。
新宿から地下鉄と云う手段も有り、流雫もそのルートは知っていた。ただ、今の秋葉原は流石に危険だった。
強行軍の挙げ句、澪の表情を曇らせるようなことはできない、と思った。理性がフルブレーキを掛けた。ただ、ブレーキを壊してもよかったのでは、と今更ながら思い始めた。
「来なくて正解だったでしょ?」
と澪は返す。
……来てほしかった。でも、それで流雫がとばっちりを受け、怪我するぐらいなら、今の寂しさ、心細さすら耐えられる。
「でも、ミオは……」
「今こうしてルナといられるから、あたしは平気だよ」
澪はそう打ちながら、少しだけ平静を取り戻すのを自覚した。
こう云う時に隣にいないことへの不安は大きいが、アプリでの文字の遣り取りだけでも、話せるか否かでは大きく違う。
それと同時に、処置室のドアが開くのが遠目に見えた。
「また夜、連絡するね」
と澪は打って、スマートフォンを鞄に入れると立ち上がった。
結奈と彩花が近寄ってくる。先に口を開いたのは彩花だった。
「助かったわ……」
「キツかったけど、もう元通り。澪は?」
と続いた結奈が問う。
「あたしは、無事だった……、でも2人が……」
そう言って俯く澪の頭を彩花は撫で、言った。
「澪は何も悪くない」
「ガスを撒いた連中が全ての元凶だし、その意味では澪も被害者だよ。でも澪が無事でほっとした」
結奈はそれに続く。
走る方向を間違えたのは結果論で、もう病院を出られるほどの軽症で済んだだけ、幸運だったと2人は思っていた。
澪は何も言わず、しかし今にも泣き出しそうな表情を隠していた。消えない2人への罪悪感と、助かったことへの安堵が交錯していた。
女子高生3人はシルバーのセダンに揺られ、すぐ近くの警察署で降ろされた。建物の中は署員が慌ただしく動き回っている。目と鼻の先で起きた青酸ガステロに、振り回されていた。
弥陀ヶ原は応接室の空きを確認し、3人を通した。
病院で、澪が言っていた同級生が結奈と彩花の2人だと知った刑事は、3人から事情聴取をすることに決めたのだ。椅子の都合上、弥陀ヶ原の隣に澪が座り、その向かい側に結奈と彩花が並んだ。
簡単な挨拶の後で弥陀ヶ原は
「……秋葉原駅前で、君たちが見た事を教えてほしい」
と3人に問いながら、階下の自販機で調達してきたペットボトルの紅茶を3本、テーブルに置く。
「……賄賂ですか?」
澪は無邪気な表情で問う。弥陀ヶ原は溜め息をつきながら
「全く……そう云うところは親譲りだな」
と言う。澪の父、常願もそう言って後輩を揶揄っているのだろう。血は争えないらしい。
「それはどうも」
と微笑む澪に
「褒めてはいないからな?」
と釘を刺した弥陀ヶ原は、その少女が今までに何度か見た普段の表情に戻っていたのを見て、安心……できなかった。
何しろ、先輩刑事の一人娘は同級生や恋人が当事者として絡むと、無意識にその知性や理性を投げ捨てる癖の持ち主だ。他人思いなのは認めるが、感心できない。
弥陀ヶ原の問いに澪、結奈、彩花の順で話していく。
……銃声と同時に4人の男が奇声を上げながら走り出して、うち1人が澪たち3人に向かってきた。澪が避けると男は転んだが、その時に澪は異臭を感じて、結奈と彩花の2人組と二手に分かれて走り出した。
澪はその後、弥陀ヶ原と偶然鉢合わせして保護されたが、2人は駅の方へ走っていると先に彩花が体調を崩し、その介抱を始めたと同時に結奈も体に異変を感じた。
異臭を感じなくなった頃に澪が走ってきて、後は澪が見た通りだ。
シアン化物中毒は、個人差で致死率が大きく変わるらしいが、2人共軽症で済んだのは不幸中の幸いだった。
「銃声を聞いて走り出した、と云うワケか」
弥陀ヶ原は言いながら、調書にボールペンを走らせる。
「あれが、走れの合図だった……?」
と結奈が言うと澪は
「合図だったし、銃声も奇声も、一瞬だけど人の動きを止める意味も有ったのかも。止まれば、次のアクションまで僅かなタイムラグが出るから、逃げ遅れさせることができるだろうし」
と続け、彩花が更に続いた。
「でもまさか毒ガスだなんて……」
「目的は何なの……?」
澪は呟くように問うた。弥陀ヶ原は目線を調書に向けたまま答える。
「それはこれから明らかになるだろう。尤も、実行犯は全員死んでいるからな……」
「最初から死ぬと判っていて……?」
その彩花の疑問に
「逆に、死ぬとすら思っていなかった、とか……」
と澪が答えると、弥陀ヶ原の手が止まった。刑事はダークブラウンの瞳の少女を見る。結奈や彩花も、同級生に視線を向ける。
「どう云う意味だ?」
弥陀ヶ原の言葉に澪は
「……そもそも、バックパックにシアン化物が入っていることさえ知らなかったのかも。ただ銃声と同時に走れ、とだけ誰かに指示されていたのなら……」
と言い、続けた。
「何も知らないのって怖くないじゃない?青酸ガスで死ぬと判っていて引き受けるなんて、正気の沙汰じゃないわ。……まるで、適当に拾ってきた使い捨ての駒のような」
その言葉に、応接室が沈黙に支配される。
結奈と彩花は言葉を失っていた。2人には残酷だったが、それ以外に適切な言葉が見当たらなかった。
「人間を捨て駒扱い、か……」
弥陀ヶ原は隣で開いていた手帳にメモしながら同じことを呟き、溜め息をついた。
澪と弥陀ヶ原、2人の脳裏に過ったのは6月の秋葉原OFA本部ビル襲撃事件だった。
武装した数人の男が……後に身元不明の不法難民だと判明した……、難民支援団体OFAの本部ビルを襲撃したそれは、犯人全員の服毒自殺で幕を閉じた。その不可解な事件の実行犯は、黒幕によるマッチポンプのための駒として使われた、と云う答えに、流雫は辿り着いた。
それは澪を経由して彼女の父、常願の目に止まり、その翌日弥陀ヶ原にも小耳に挟んだ話程度とするように、との前置きの上で、その説を伝えられていた。
まさかそれが、奇しくも同じ秋葉原界隈で、同じように仕立て上げた実行犯を使い、今度は混雑する駅前で犯行に及ばせたとは。その可能性は、一種の恐怖を8畳の応接室に落とした。
「……君たちの聴取は終わりだ。わざわざご苦労だったね」
数分の沈黙の後に、弥陀ヶ原は言った。
3人は警察署を後にし、賄賂と澪が揶揄した紅茶のペットボトルを手に、御茶ノ水駅へ向かった。秋葉原駅は未だ混乱が続く影響で閉鎖されていて、別の駅を使わざるを得なかった。
駅までの十数分、全てを台無しにした惨劇を忘れようと、あのゲームの話をしてみて、
「またね」
と言って別れてみたが、誰も微塵も微笑を浮かべなかった。まるで、あの美少女騎士のごとく、笑い方を忘れたかのように。
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