3-8 Eyes On Abyss
世間は夏休みに入った。しかしこの夏、東京発パリ行シエルフランス便の予約リストに、ルナ・ウナヅキの名前は無かった。
そのルナ……流雫は、パリオリンピックでパリ市内が混雑するのを鬱陶しく思い、毎年恒例となっていた夏休みに帰郷するのを止めていた。尤もその分、春休みに前倒ししていたのだが。
開会式を間近に控えたパリ市内の様子が、ペンションのテレビに映し出されていた。夏のオリンピックが観客を入れ、且つ本来の形で行われるのは2016年以来、8年ぶり。
露骨な私利私欲に基づく全体主義を振り翳して強行された結果、オリンピック史上最低の大会となった3年前の東京オリンピックは、国内外から既に無かったことにされていた。そしてこれが、国民が銃を持ち、テロの脅威に怯えながら過ごすことになる遠因になったのだが。
その分、改めて世界の平和の象徴となるパリオリンピック、その盛り上がりは異様なものだった。まるで、3年前の東京オリンピックが今回の前座であるかのように。尤も、流雫自身オリンピック自体どうでもよかったが。
一方、日本は3年前のリベンジとばかりに過去最多の選手団を派遣していたものの、国内はオリンピックどころではなかった。8月の総選挙に向けた選挙戦が激しさを増し、連日のニュースも選挙の話題が独占していた。
朝から夜まで街宣車が走り回り、スピーカーからは絶えず候補者と政党の名前が叫ばれている。心を託したい人の名前を手で書くからこそ、候補者との絆が生まれる……と云う表向きの理由で投票のオンライン化は果たされず、だから街頭演説合戦が未だに続いているのだ。
ただでさえ蒸し暑い国が、更に暑苦しくなる。そして、あのショッピングモールの自爆テロ以降、その舞台となった河月市を中心とする山梨県東部の選挙区が或る意味最大の注目点だった。
流雫と澪は、この夏休み中に2度だけ会う約束をしていた。そのうちの1回は、今日だった。昼からだったのは、ペンションのモーニング後の片付けが終わった後でささやかな流雫の誕生日祝いが有ったからだ。
親戚夫妻から小さめのプレゼントの箱を受け取り、それと時を同じくしてフランスの両親からもプレゼントが届いた。流雫は部屋に戻ると、両方を机の上に置く。それは夜に開けようと思っていた。
そして、色違い以外は何時もと変わらないTシャツにUVカットパーカーとカラーデニムで、流雫はペンションを出ると、河月駅から快速列車に乗る。平日の日中だからか、乗客は多くない。
河月市の西側の線路は、月頭の土砂災害からの復旧作業が続けられ、特急は運休していた。特急よりも座り心地では劣る快速列車のロングシートの端で、流雫は目を閉じていた。
……美桜とはデートすらしたことが無かった。好きと云う感情が判らず、戸惑っている間に彼女を失った。そして今は、県外にいる澪と3月から毎月会っている。
ペンションの手伝いと云うバイト代を、澪とのデートにほぼ全振りしているからこそ実現できることだが、それは何もしてやれなかった美桜に対する、一種の贖いのようにも思えた。あまりに身勝手な解釈だと自覚してはいるが。
新宿駅、東京方面のプラットホームに、ダークブラウンのセミロングヘアをなびかせる少女が立っていた。30分前、流雫にどの車両に乗っているか問うてきて、彼は答えた。
ブレーキ音を鳴らして止まった列車のドアの窓越しに、2人は微笑み合った。
最初に列車を降りた流雫を、澪が呼ぶ。
「流雫」
「澪」
2人同士の挨拶は、決まって互いの名前を呼ぶことだった。
そう取り決めをしたワケではないが、二人称ではなく名前で呼ぶことで、「僕の澪」「あたしの流雫」と云う特別感を感じていた。ただ、そもそも互いを名前でしか呼んだことが無いのは、最初の半年はメッセンジャーアプリで文字だけで遣り取りしていた時からの名残か。
在り来たりだったが、2人は臨海副都心へ向かった。もう5回目となるが、この埋立地は2人にとっての定番だった。
2人が初めて顔を合わせたのは、青海の商業施設アフロディーテキャッスルだった。初めて互いの存在を近くに感じ、そして初めてキスを交わしたのは、レインボーブリッジを一望できる台場のペデストリアンデッキの端だった。互いが特別な存在になったのは別の場所だったが、この臨海副都心エリアはやはり思い入れが深い。
澪が夏休みとは云え平日の今日を指定したのは、この日しか空いていなかったからではなく、今日が流雫の誕生日だったからだ。その3日後には澪も誕生日を迎える。
2人がネット上で知り合った日から、互いに初めての誕生日を迎える。だから2人だけで互いに祝いたかった。
何度も行ったアフロディーテキャッスルは、しかし流雫と澪にとっては飽きることは無い。2人で行けるなら、多分近くのコンビニですら楽しいのかもしれない。それに、この場所は2人にとって思い入れが有る。
……悲壮感を滲ませて銃を握った流雫に合わせるように、初めて銃を握った澪は、しかしその重さやグリップの冷たさに戦慄していた。そして、銃を握ることがどう云う意味なのか、そして彼自身と自分のために引き金を引いた流雫が必死に押し殺していた、銃弾を浴びて殺される恐怖がどれほどなのか、思い知らされた。
それと戦った反動からか、流雫は膝から崩れ泣き叫び、澪は流雫を抱いた。想像し得る限りで最悪だった出逢いから、2人の今が始まった。その地こそ、「女神の城」を意味するこの大型施設だった。
アフロディーテキャッスルは施設全体の名前としても使われるが、厳密にはショップとレストランが入る建物がその本体部分。中はイタリアの街角を模したような構造になっているが、通りも入り組んでいる。
その通りを歩いていると、澪はアクセサリーショップの前で立ち止まった。
「澪?」
流雫はその隣に行く。
ワゴンに並べられた売れ残りが2個、そのブレスレットに目が止まった。7月の誕生石を遇っているらしいが、もう7月も終わるからだろうか。
「これ、可愛い……」
澪が呟く。
オレンジ色のティアドロップのチャームが、細いプレートに挟まれるように固定された、シルバーのチェーンのブレスレットだった。少女は、初めてアクセサリーと云うものに興味を示した。
隣には同じチェーンのブレスレットだが、チャームが紅い三日月に変わっているものも有る。2人に近寄ってきた店員が言うには、オレンジ色はカーネリアン、紅いのはルビーらしい。
流雫は、カーネリアンのティアドロップを遇った方を澪にプレゼントしようと思った。
「じゃあ、これで」
と店員に告げた少年は、しかし同時にルビーの三日月を遇った残りの1つを自分用に欲しいと思った。
「これ、ペアにするのもいいかな……」
と流雫は呟く。それに澪は
「え?これ、流雫も?」
と少し驚く。それは店員も同じだった。
流雫は中性的な顔立ちや体付きと云えど、仕草を見れば男だと判る。そのシルバーヘアの少年が見ているのは、レディースであってメンズやユニセックスではなかった。しかし、
「メンズじゃないけど、同じにするのも悪くないかな」
と流雫は言った。何よりも、唯一のアクセサリーぐらいは澪と同じ、誕生石の系統で揃えてみたかった。
「じゃあ、それはあたしがプレゼントするね?」
澪は言い、店員に差し出した。
名前を無料で彫ることができるらしく、カーネリアンの裏にはLUNA、ルビーの裏にはMIOと、自分じゃない名前を刻むことにした。刻まれた名前が肌に触れることで、互いの存在を感じていられる……そう云うのもアリだと思っていた。
その場でタグを切り離した流雫は、ぎこちない手付きで澪の手にブレスレットを着ける。そのために澪は、わざわざ腕時計を右腕に着け直して左手首を空けた。その後で今度は澪が、流雫の右手首に着けようとする。殊の外、流雫に似合っていた。
……流雫。漢字こそ流れる雫で、形としては澪に送ったティアドロップの方が似合う。だが、元々はフランス語で月に因む単語が由来。もし漢字を当てていなければ、日本での名前は宇奈月ルナだった。それなら寧ろ、月の方が相応しかった。
一方の澪は、船や飛行機が通った後、航跡の意味が有る。名前が水に因む字と云う点では、その形を端的に表した滴型はお似合いだった。
流雫自身は、澪と同じものにしようとして、唯一残っていたものを欲しいと思っただけに過ぎない。しかし、この形が流雫の手首を飾るために、店先のワゴンの上で在庫処分扱いされながらも、今日までこの店に残っていたのだと澪は思った。
互いの誕生日プレゼントを手首に通した2人は、少し遅めのランチにしようとした。パスタの店に入り、2人掛けの席に通される。カルボナーラとジェノベーゼ、そしてアイスティーをオーダーした2人は
「誕生日、おめでと」
と声を重ね、先に出されたアイスティーで軽くグラスを鳴らした。
「こうやって祝うなんて、思ってなかった」
流雫は言う。澪はそれに続ける。
「知り合った頃はね。こうして何度も会うと、思ってなかったし」
「多分、2月に色々有ったから、あれが起きてなければ会ってなかったと思う」
流雫は言った。
2月、1週間で2度も流雫はテロに遭遇した。そのことで澪とメッセージを遣り取りしているうちに、
「あたし、ルナに会いたい」
と澪は送ってきた。今も、メッセージ履歴をかなり遡れば出てくる。
迷いながらも断らなかったが、それがこの場所で……テロから逃げ惑っている最中に初めて顔を合わせた、3月のあの日に至る全ての始まりだった。
2人は、オーダーしたパスタを半分ずつ分けることにした。どっちも美味で、この店を選んだのは正解だった。今までのデートで最も、上質な時間だと思っていた。やがて空になった皿の隣に飲みかけのアイスティーが入ったグラスを置くと、満足感に包まれる。
2人は、互いの存在そのものを希望だと思っている。何度会っても、何処に行っても、何をしても。ただ同じ場所で生きている、それだけで安心するし救われる。
「そう云えば来月、何時ぐらいに東京に着くの?」
澪は問う。トーキョーアタックの追悼行事のことだ。
「新宿に12時ぐらいには……かな?確か13時から始まるような……」
流雫は答える。
渋谷での爆弾テロに合わせて、2度目の黙祷が15時過ぎに行われるから、終わるのは15時半頃だと思ってよい。ただ、8月下旬の炎天下で、政治家によるテロに対する非難を延々と聞かされるのか、と思うと軽く憂鬱になる。
美桜を弔うためではあるが、暑さで倒れては話にならない。それなら、黙祷時刻の直前でも構わないのでは?と流雫は思い始めた。
「じゃあ、そのぐらいに……また新宿のホームかな?」
澪は問いながら微笑む。
流雫と少しでも長くいたい、それは何時だって同じだった。それに流雫の場合、NR線同士でも大体は途中で乗り換える必要が有る。
一方、澪にとってはダイレクトに行けるとしても、新宿で降りるのは駅を出ない途中下車のようなもので、わざわざ早く行って待ち合わせるぐらいならホームで出迎えた方がいい。渋谷なら駅前で待ち合わせするより、それだけで10分ぐらいは長く一緒にいられる。
「じゃあ、それで決まりかな」
そう言った流雫は、カレンダーアプリの予定に集合時間と待ち合わせ場所を入れた。
これは遊びじゃない、デートじゃない。そう言い聞かせても、終わった後にカフェなんかでのんびりするだけの時間は有る。終わった後なら、少しぐらいは寄り道しても悪いことではなかろう、と流雫は思った。
会計を済ませて店の外に出た2人は、そのまま建物の外に出る。ペデストリアンデッキの階下の広場は、週末のイベントの準備が進んでいた。明日や明後日ならイベントの中身次第では楽しめたのだろうが、それはそれだ。
ペデストリアンデッキから台場までは歩いても十数分だが、流雫はりんかいスカイトレインに乗ったことが無く、それに乗ってみたいと思った。
鉄道が好きと云うよりは、鉄道に乗っての旅行や移動が好きで、だからパリからレンヌまでの高速鉄道TGVでの移動も、河月から都心までの移動も苦にならない。尤も、都心から河月への復路は1日の余韻に浸ることで現実逃避している節が有るが。
新橋と豊洲を結ぶりんかいスカイトレインは、臨海副都心を大きく半周するように走る。高架橋を走り、空が見えやすい列車だからスカイトレインと名付けられた。
アフロディーテキャッスルにほぼ直結した青海駅から、台場駅までは3駅。自動運転の小さな車両、座席は全て埋まっていたが、数分だけだし立っていても苦にならない。
車窓からは、何度か歩いた臨海プロムナード公園や道路を見下ろすことができる。視点の高さが変わるだけで、見える景色が大きく変わるのは面白い。モノレールから見る景色も好きだが、この高層ビルの間を走るのも面白く、夜だと更に綺麗なのだろうか、と流雫は思った。
ただ残念なことに、急に雲が出てきた。形からして、大雨をもたらす積乱雲……。ゲリラ豪雨も有り得る、と澪は思いながら、隣で景色に見取れる流雫を見つめていた。
台場駅で降りると、再び暑さが肌にまとわりついてくる。球体展望台は混雑していたために行かないことにし、足早に高架線の反対側の商業施設へ入ることにした。自動ドアが開いた瞬間、目の前が真っ白に光り、背後から体を貫くような轟音が響いた。
「っ!」
「きゃぁっ!」
流雫と澪は身構える。すぐ近くで落雷が起きた。それと同時に一瞬だけ停電が起きると、館内に悲鳴と驚きの声が響く。それはすぐ復帰したが、突然大きな音を立てて雨が降り出した。強いシャワーのようなゲリラ豪雨は、澪が思っていた通りだったが、何より雷が激しい。
瞬く間にペデストリアンデッキを濡らし、地面に当たって弾ける大きな雨粒は、しかし1時間もすれば止むと流雫は思った。澪はそれまでの間、雨宿りを兼ねて色々見て回ろうと言った。
ベイシティ台場と呼ばれるこの建物に、2人は5月末に結奈や彩花も交えた4人で訪れていた。ただ、数時間前のテロの悪夢を払拭することに夢中で、特に流雫はどんなショップが有ったのか、何を見て回ったのか、覚えていない。ただその3人が無事だったことに安堵していた、それだけは覚えている。
何度もテロに遭う不運を呪うより、何度テロに遭っても死なない強運に恵まれていると思う方がポジティブなのは、流雫も判っている。ただ、何かの物陰に隠れていて助かった、の類の運は流雫には無い。
殺される恐怖を押し殺してテロと対峙し、自分の手で必死に足掻いて、生を掴んできた。澪はテロと対峙して何を見たか知っているが、同級生2人には知ってほしくない。本来、知らないまま生きる……知るとしても動画で他人事に見える……方が幸せだからだ。
30分後、通り掛かったカフェの奥の窓越しに、雷を引き連れた雨が止んでいるのが判った。晴れ間が見えて明るくなっている。
しかし、雨上がりは少なからず気温は下がるものの、湿度が一気に高くなる。2人が今いる場所からは判らないが、屋外では先刻まで太陽に熱され続けたアスファルトから蒸気が発生している。今外に出れば、数十秒で汗が滲み出すだろう。
それなら、この後の予定も無く、ややワンパターンだがカフェに入ってもよかった。
2人はその店に入ると、窓側の席を案内される。2人用の席からは、東京湾の対岸の景色を一望できる。この景色は何度見ても好きだが、今まで外のデッキからしか見たことが無く、5階からの景色は新鮮味を感じる。
流雫はアイスラテとティラミス、澪はレモネードとレモンケーキをオーダーした。最早誰も傘を差していないが、蒸し暑いのか足早に通り過ぎる。時間的には夕方前で、これからは湿度は高いままながらも、少しずつ涼しくなるだろう。
2人が話していたのは、ゲームと夏休みの宿題の話だった。2人揃って元から成績はよく、宿題で行き詰まることは無いのだが、如何せん量が多い。去年の夏は、流雫は宿題を全てフランスに持って行き、滞在中に全て済ませた。当然、その分しっかり遊んできたが。
そろそろ進学先をどうするか、なども色々検討しなければいけなくなる。流雫は、日本に残ることだけは既に決めていたが、それは澪と知り合う前からの話だ。遅くても、次の春休み前までには大方決めなければならないが、今は忘れていたかった。半年以上先の話だし、何より今はその前に決着をつけたいものが有る。
青空を取り戻しながらも、雲が残る東京の空に虹は架からなかった。とは云え、別に残念に思う必要も無く、そのうち見ることはできるだろう。雨上がりの七夕の夜に見上げた無数の星に比べれば、遙かに簡単だ。そう澪は思った。
……天の川も、1年中見ることはできるらしい。しかしあれは、七夕の夜に見るからこそ意味が有る。そして、流雫と2人きりの河月湖の畔で、その特別感を独り占めしていた。まるで、流雫が澪のために魔法を掛けたように。
2人はカフェを出ると、そのままベイシティの外へ出た。雨の影響で少しだけ気温が低くなったものの、湿度は高いままだった。それでも、このままベイシティにいる理由も無い。
雨に濡れたペデストリアンデッキには、人通りが戻っていた。何処に行くかも決めていないが、流雫は澪といられるだけでよかった。台場にこだわりたいワケでもないが、この前のようにデッキで立ち話をするだけでも楽しい。
如何せん東京は行ったことが有る所しか判らないが、少年はシルバーヘアを揺らしながら、ふと
「渋谷……」
と呟いた。
「渋谷?」
と問うた澪に流雫は
「美桜に会いたい」
と言うと、澪は
「じゃあ、これで行こう?」
と斜め上の高架を指して言った。
2人は混み合うりんかいスカイトレインに揺られ、レインボーブリッジを越える。ループ状の高架線は流雫にとっては初めてで、それだけでも楽しい。
やがて終点で列車に乗り換え、渋谷に向かった。
駅前のスクランブル交差点に建つ、トーキョーアタックの慰霊碑。あれから11ヶ月、行き交う人々は誰も目に留めない。慰霊碑とは得てしてそう云うものだ。あの事件に無関係な人にとっては単なる、四角柱のモニュメントでしかない。
春には設けられていた献花台も今は無く、静かに2023年8月にこの地で起きた惨劇を伝えているだけだった。
「……美桜」
慰霊碑のレリーフを指でなぞりながら、流雫はかつて地球にいた少女の名を囁く。初めてこの場所に立って、4ヶ月近くが経っている。
あの日、慰霊碑の前に立った後、この地を見下ろす展望台の屋上で、流雫は澪を抱いた。
美桜の想いに戸惑い、漸く向き合えるようになった時に「別れた」。それは全てが不可抗力でしかなかったが、流雫はどうしてもそう思うことができず、全て自分の過ちだと思っていた。
だから流雫は、澪の手だけは絶対に離さないと決めていた。
「……僕が美桜を思い出す限り、美桜は生きてる。そう澪が言ってた。……何か、その意味が判る気がする。……僕は美桜に生かされてるんだと……」
と言った流雫は、自分でも脈絡も何も無い言葉を吐き出していることは判っていた。
美桜に話し掛けようとすると、急に語彙力も何もかも失うのは、彼女を失ったあの日の記憶が瞬時に蘇るからだった。
レリーフに触れる手に、澪の手が重なった。
「……澪?」
2つの真新しいブレスレットが重なる。先刻、澪が左手首の腕時計を右手首に移したのも、流雫からのプレゼントを左手首に着けたかったから。それはこうして手を重ねた時、指を絡めた時に隣り合うことに気付いたからだった。
ティアドロップのチャームに、三日月のチャームが並ぶ。それと同じように、澪が流雫の隣にいる。
「……テロに怯えない日々が、戻ってきますように……」
澪は俯いて目を閉じ、そう呟くように言った。それは今、流雫も澪も何より望んでいることだった。
「その日まで、流雫とあたしが生きられますように……」
少女が続けた言葉に重ねるように、流雫はゆっくり言った。
「……僕は死なない、澪も殺されない。あの日のように、泣き叫ぶのだけはイヤだから……」
それは、美桜への誓いだった。それに続くように
「流雫を、どうか護ってください……」
と澪は言って目を開ける。
あの日のようには泣かなかったが、少しだけ視界は滲んでいた。
……今の恋人に彼を護ってほしいと言われた美桜が、複雑な感情に揺さ振られることは判っていた。卑怯だと何だと思われても、文句は言えない。
しかし、澪は自分の死よりも流雫を失うことを、何より怖れていた。彼が生き延びるためなら、何にだって縋る。例えば悪魔と契約を交わし、二度と会えなくなったとしても、それが叶うなら本望だとすら思うだろうか。
ただ、彼が生きていても二度と会えなくなる悲しみと、彼を失う悲しみを天秤に掛けることはできないと澪は思った。間違いなく、天秤に掛けようとした瞬間に自分が壊れることは目に見えていた。いっそ、そのまま壊れれば楽なのか……。
……美桜と云う少女に本当に救ってほしいのは、助けてほしいのは流雫ではなく、あたし自身だったのかもしれない。そう思いながら、澪は指で目蓋を拭った。
流雫の17回目の誕生日は、特別な1日だった。楽しく過ごしたが、同時にその日々を失わないようにしなければならない、そう流雫は思った。澪が美桜に囁いた願いの言葉は、流雫を澪に置き換えるだけで、彼の願いにもなる。
救えなかったかつての彼女に、今の彼女を護れ……とは、あまりにも自分勝手だとは自覚している。多分、美桜が聞けば間違いなく呆れ果てるだろう。幻滅されても文句は言えない。それでも。
「流雫?」
澪は少年の名を呼ぶ。
「……来月は、来月こそは、少しぐらい美桜に……微笑んでやれるかな……」
流雫は呟く。
微笑むことなど、場違い甚だしいことだとは思っている。ただ、あれからもう1年になる。何時までも曇った表情のままでは、美桜もあまりいい顔はしないだろう。
……しかし同時に、そうは思っても、全ては自分次第だと云うのも彼は判っていた。
この2ヶ月だけでも、一連のテロと思しき事件が4件も起きているし、そのうち2件は遭遇して、戦った。そして、赤の他人とは云え人の死に際を見てきた。ジャンボメッセで見た、トリアージで黒タグを取り付けられた身体が布で覆われて担がれる光景も、鮮明に覚えている。
……それでいて、それでも気を強く持っていろと云うのはかなり残酷な話だ。今までも、澪がいたからこそ常に正気でいられただけの話だ。
今のままでは、美桜に微笑むなんてことは無理なことだと自覚している。しかし……。
流雫は今、泥沼に嵌まった気がした。アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳は、ただレリーフを見つめているだけだった。
微かに曇った流雫の目に、澪は一種の悲壮感を見た。……無理に微笑んでも、その深淵に滲む寂しさはどうしても見えてきて、それが澪に突き刺さる。
流雫が美桜と云う少女を忘れられず、彼女に負い目すら感じていることを、澪は受け入れているし、寧ろ彼女を覚えていなければいけないと思っている。流雫の記憶から消えない限り、欅平美桜と云う少女は生き続ける……澪はそう思っていた。
しかし同時に、澪は流雫が微笑めるとは思っていない。無論、思っているより難しいことなのは、言うまでもない。彼女を忘れないこと、それはあの悲劇も忘れないことを意味していたのだから。
「……無理に微笑んでも、流雫が辛くなるなら逆効果だから。何時か、微笑める時に微笑めばいいよ」
澪は言った。出しゃばっていると思っていたが、そうしてでも少しでも彼の力になりたかった。それほどに、今のあたしは弱い……澪はそう思っていた。
流雫は数秒の沈黙の後、レリーフから指を離し、小さく頷くと
「……また、来月戻ってくるよ」
とだけ言った。
……澪の言葉は、自分より澪や美桜を先に意識しがちな流雫にとっては、頼もしいアクセルでもあり、ブレーキでもある。彼女に制御を委ねているワケではないが、或る意味誰より自分を知り尽くしている少女の言葉は、それ相応の重みが有った。
……澪は一緒にいて、頼もしく感じられる存在だ。ただ、だからこそ自分も頼もしく思われたい。何処かでそう思っているのも事実だった。今の僕は、澪に対してあまりにも無力過ぎる……。それが流雫の負い目だった。
2人が慰霊碑に背を向けると、その近くで政治家の街宣準備が始まっていた。あの男の名前でなかったことに、流雫は胸を撫で下ろす。
正直、トーキョーアタックを政争の道具にされるのは、流雫にとって違和感が有る。ただ、日本の喫緊の課題が治安回復で、今年になって頻発するテロへの対応も議題になっていることは云うまでもなく、だから来月の総選挙の最大の争点なのも判っている。しかし、今は耳を傾ける気にはならない。
2人が改札を通り過ぎると同時に、街宣の準備が終わったらしく初老の政治家が挨拶の一声を上げた。雑踏に紛れる中で、何を言っているかは判らないが、テロと云う言葉だけは流雫にはクリアに聞こえた。
それだけ、テロに対しては自分が思う以上にナーバスになっているのだと、流雫は思い知らされる。誰でも、命に関わる脅威にはナーバスになるが、本能として当然のことだ。
しかし、何度も遭遇して……しかも戦う羽目に陥りながらも……生き延びてきただけに、余計に過剰反応気味になるのは仕方ないことだった。
「……流雫」
澪は隣の愛しい少年の名を呼ぶ。
「澪?」
と名を呼び返す流雫に、澪は言った。
「……8月、また会えるね。……遊びじゃないけど、楽しみ」
追悼行事で会うことを楽しみと言うのは不謹慎なことぐらい、澪も判っている。しかし、彼の意識が陥っていた負のスパイラルを強引にでも断ち切るには、それしか無かった。
「……うん」
流雫の口角は少しだけ上がった。少しだけ、澪は安堵の表情を見せた。
新宿駅で流雫は、山梨方面の乗り場に移動する。プラットホームの真ん中で澪は
「流雫」
と彼の名を呼び、不意に抱きしめた。
「……あたしがついてるよ」
彼女は囁く。
「……うん。……僕には、澪がついてる……」
流雫が小さな声で言うと、警笛を鳴らして河月止まりの列車が入ってきた。2人は離れ、流雫は
「……また後で、連絡する」
と言った。澪は
「うん。気を付けてね」
と返した。
流雫を乗せた列車のドアは閉まり、ゆっくりと走り出す。
……最後こそ微笑み合えたから、終わりよければ何とやら、だった。流雫は車両の端の席に座り、目を閉じた。澪と初めて過ごした、今までで最高だった誕生日の余韻に、浸ろうと思っていた。
流雫と別れ、大宮方面の列車に乗った澪は、ドアの窓から外を眺めながら呟いた。
「……あたしがついてるよ……」
先刻、流雫を抱きしめながら囁いた言葉。……だから弱いなんて、無力なんて思ってほしくなかった。
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