3-3 Stupid Conflict

 7月最初の金曜日。今日の午前中まで関東地方を襲った集中豪雨は、昨日の昼間に河月市の西端で大規模な土砂災害を引き起こした。1週間前に流雫が自転車で向かった先より1キロほど西側で、並行する国道と鉄道は大量の土砂に埋まった。死者がいなかったのは幸いだった。

 西河月駅から甲府方面が不通になり、東京方面は河月駅で折返し運転になった。そして国道の迂回路として、高速道路が指定されている。不眠不休の作業で早期復旧を目指すと、鉄道会社のNRは会見していた。

 その被害に関する夕方のニュースを遮ったのは、衆議院の解散に関する速報だった。何故今から失職すると云うのに国会議員が万歳三唱をするのかが、流雫にとっては不可解ではあるが、兎にも角にもこれから1ヶ月あまりの間、日本は総選挙と云う一種の戦争に突入する。尤も、これで血が流れることは無いから、平和な戦争だ。

 しかし同時、にこれから当面の間、朝から夜まで街宣車が走り回り、候補者の名前が至る所で連呼されることを意味している。そう思うだけで憂鬱になる。

 選挙戦も投票もオンライン化すればいいのに、何故かそれだけはオフラインのままらしい。フェイス・トゥ・フェイスだからこそ、候補者と有権者に絆が生まれ、また繋がりが見えるとでも言いたいのだろうか。

 その夜のニュースでは、立候補すると思われる人物とその選挙区をピックアップしながら、今回の争点を報じていた。その中に、あの名前も有った。

 3ヶ月前、国会議員が国会議事堂内で刺殺される事件が発生した。伊万里雅治は、その後行われた補欠選挙で初当選した佐賀県出身の新米議員で、就任当初から難民排斥と外国人の制限による日本人ファーストを唱えてきた。それは右派に称賛される一方で左派には非難されると云う、政治信条による両極端の評価を得ていた。

 ただ、自意識過剰と言われれば否定しないが、流雫は一度河月駅前でこの議員に因縁を付けられている。厨二病風に云えば暗黒微笑を浮かべられた。4月下旬の話だ。

 流雫はパリで生まれた後、日本に帰化したフランス系日本人だが、母に似たのかフランス人寄りだ。それ故に、典型的な日本人らしくない見た目をしている。シルバーヘアにアンバーとライトブルーのオッドアイだが、そのライトブルーは欧米系によく見られる色だ。

 それだけの理由で標的になった、とは被害妄想なのだろうか、と流雫は思ったりもしたが、演説を耳にする限り、被害妄想ではなかった。

 新聞社の政治部デスクの担当者がコメンテーターとして出演していたが、初当選による議員就任から約3ヶ月での失職となるため、政治信条の是非以前に国会議員としての実績が皆無に等しく、それがどう選挙戦に影響するかが注目だと解説していた。

 浮かない顔でニュースを見ていた流雫は、明日から五月蠅くなると思うと軽く気が滅入った。


 その週末、2日前まで降り続いた雨がウソのように晴れていて、蒸し暑い。

 流雫はワンボックスの後部座席に座っていた。河月湖の畔に経つ、ユノディエールと云う名のペンションを営む鐘釣夫妻が、郊外のショッピングモールに行くのに同行している。

 宇奈月家の親戚で、フランスにいる両親の代わりに流雫の面倒を見ている。その見返りに、流雫は手伝いを日課としている。

 河月市の南東部に、大型のショッピングモールが建つ。郊外の安価で広大な土地を開発して建設されたが、それに合わせる形で建設された高速道路のETC専用のスマートインターチェンジに近く、車でのアクセスはよい。それに、鉄道こそ通っていないが河月駅からもモール行き直行バスが走っている。更に、その隣には4ヶ月後のオープンを目指して大型のアウトレット施設が建設中で、年末には更に賑やかになるだろう。

 今日は買い出しではなく、夕方までオフになっている。親戚は観たい映画が有るらしく、シネコンが入っているショッピングモールまで行くことになった。映画館自体、河月にはこのシネコンしか無い。

 目当ては、この週末に上映開始となったアメリカのガンアクション映画だった。流雫はその間、ファストファッションの店でTシャツとUVカットパーカーの色違いを探してみようと思っていた。

 流雫の服の色のコーディネートは、デフォルトは下がネイビーかブラックで、上はネイビーとホワイトの2色か、どっちか1色。時々レッドがアクセントになるが、その時は必ずネイビーが入り、ホワイトとレッドの組み合わせは無い。

 それは、彼のコーディネートのコンセプトがフランス国旗のトリコロールだからだ。そして、フランスを1色で表せばブルーで、それ故ネイビーが基調になっていた。

 今日は下半身はネイビー、上半身がホワイト1色のコーディネートだった。そのシャツはフランスで手に入れたもので、前面にトリコロールが遇われている。

 「今何してるの?」

澪からのメッセージが、親戚と別れてすぐ流雫のスマートフォンを鳴らした。少年は立ち止まり、

「ショッピングモールで、服を探してる」

と返す。

「今度のデート用?」

「当たり」

流雫は、戯けながら問うてきた澪に即答した。別にデート用でもないのだが、彼女の戯け方が割とワンパターンだから、その意味で返り討ちは容易い。

 今頃、澪は少し頬を赤くしている頃だろうか。ただ、そうやって戯れるのは、寧ろ単調な遣り取りになりがちのメッセージでは重宝する。

「バカ……」

とだけ返してきたが、それは恋人を撃沈した手応えを流雫に感じさせた。

 「また後で送るね」

そう流雫は打ち、スマートフォンをショルダーバッグのアウターポケットに入れる。 改めて向かった店へは、それから数十秒で着いた。


 スマートフォンなどの画面で見た時と実物を見た時で、色に違いが出るのは仕方ない。流雫が見た服もそのパターンだった。久々にイエロー系が気になったのが徒となったか。

 少し迷ったが、結局流雫は手にしなかった。ただ、クリアランスセールがもうすぐ始まる。その時に別の色も発売になるらしく、その時を狙おうと思った。

 しかし、それでも多少期待外れだったと思いながら、流雫はモールの1階通路を歩いていた。ブルートゥースのイヤフォンで音楽を聴きながら、シルバーヘアの少年はフードコートの端に構えるレモネードの店に並ぶことにした。蒸し暑い日には、レモンの酸味と炭酸がよく似合う。

 ファストファッションの店からフードコートまでは、さほど遠くない。

 それに向かう途中で、立て看板を立ててフライヤーを配布している集団がいた。大体は、このモールで使うと便利だと謳うクレジットカードの勧誘だったりするが、そもそも流雫は高校生で持てないし、相手も彼がそうだと見えるのか、端から勧誘してこない。その意味では平和なのだが、その時は違った。

「孤高の志士、伊万里雅治先生来たる!」

立て看板には、そう書かれていた。

「またかよ……」

流雫は無意識に呟いた。

 ……その政治家の名前を、此処でも見るとは思っていなかった。そもそも、4月もそうだったが、地元ではない山梨に何故いるのか。

 ただ、河月駅前の時と同じで聞くに堪えないヘイトスピーチが展開されるのだろうと思うと、聞く価値は無い、と流雫は思った。それと同時に、もうすぐ始まるらしいこの演説が平和裏に終わるとは、彼には到底思えなかった。

 絶対、何らかの一悶着が起きる。例えば、カウンターヘイトとの一触即発……。流雫はそう思いながら、通り道を塞ぐようにフライヤーを差し出す支持者を無言で遇いながら、レモネードのカスタマイズをどうしようか迷っていた。この迷う時間が、何より楽しい。


 タイミングがよかったのか、店に行列は無く、すぐにオーダーしたレモネードを手にすることができた。ペットボトル1本分相当ラージサイズ、搾りたてレモン増量のカスタマイズを施した、微糖アイスレモネードソーダを喉に流し、安堵の溜め息をつく流雫。ベンチは生憎何処も開いていないが、座りたいほど疲れているワケでもない。

 そう言えば、バックパックが1つ有ってもよいか、と流雫は思った。もうすぐやってくる誕生日のプレゼントに、親戚に強請ってみてもよいか。愛用のショルダーバッグは何かと便利だが、やはりロードバイクに乗る時はバックパックの方が便利だ。

 「間もなく演説会が始まります。先生がお目見えになります!是非屋外広場へ!」

と声高に案内する支持者の声が聞こえる。或る程度は音楽が遮ってはいるが、耳障りでしかなかった。

 ……レモネードを飲み干して、そのバックパックでも見てみよう。流雫はそう思っていた。

 親戚が観たいと云う映画は、流雫が別れて30分経った今、満席でようやく始まった。120分超えの大作だと言われているから、2時間は出てこない。

 レモネードは順調に減り続け、カップに残るのは氷だけになった。流雫は氷を頬張ると同時に、バッグショップへと歩き始めた。

 その途中、屋外広場への出入口近くに差し掛かると、開いた自動ドアの奥から、始まったばかりの演説に早速怒号が混ざっているのが聞こえる。

 やはりか……、そう流雫は思ったが、同時に何か不穏な予感がして、思わず広場へと走った。


 屋外広場は、広大な駐車場とバス停の前に整備されていて、時々イベントが開かれている。先日は確か、全国各地のB級グルメのイベントが有った。結局、雨が降っていて行くのを止めたが、その代わりに東京の空港に行くのは、我ながら無茶苦茶だと流雫は思い、不意に苦笑いを浮かべた。

 その一角に、カーキ色の街宣車が乗り入れていた。そして、ポールとテープのパーティションで、スピーカーとオーディエンスが隔てられ、更に支持者が等間隔で配置されている。

 オーディエンスはそれなりにいたが、やはり展開されるヘイトスピーチを非難するプラカードを掲げた集団もいて、早くも一触即発の事態となっていた。ただ、警察はいない。

 ……難民排斥と外国人の制限による、日本人ファーストの社会の実現。その理念の過激さは、見ていて愉快にはならない。

 特に流雫は、国籍こそ日本だがフランス人の血を引いている。それだけに、別にアクティビストの真似事をする気は無いが、だからと無関心ではいられない。

 蒸し暑さが肌に纏わり付く中、スーツを着た暑苦しそうな政治家が河月にいる。それは、とある候補者の応援演説のためだった。互いに無所属らしいが、無所属同士の応援演説とは特別な縁故でも有るのか。

 しかし、それは1つのキーワードを軸にすれば、繋がる気がした。それは、OFAだった。


 OFA、正式名称はニッポンサポートワンフォーオール。難民支援のためのNPO法人で、東京の秋葉原の一角に本部が、そしてこの河月市の西側に唯一の支部が有る。先月、強制捜査が入っているがその理由は不明なままだった。

 流雫は澪に、一度色々思うことを書き散らしたルーズリーフの写真を送っていた。1ヶ月前の話だ。そこに並ぶ文字は、彼なりに浮かんだ疑問をブレストして纏めたものだったが、それは我ながら少なからず当たっている、微かながらも真実に触れていると思っていた。

 演説を妨害する集団に対し、挑発するような笑みを浮かべた伊万里は、声高に言う。スピーカーで増幅された声が、更に暑苦しさをもたらした。

 「其処の外国人も、日本と日本人に憧れているのだろう?在日外国人として日本に馴染みたいなら、日本への愛国心を鍛えなければな。外国人は本来制限されるべきなのだ、日本人ファーストであるためにも!」

その言葉と、推理ドラマのキメポーズを真似したような人差し指は、完全に流雫に向けられていた。……やはり、遠くから見ていただけの……半ば偶然通り掛かった

……流雫のことは、認識していたらしい。

 中年政治家の眼鏡越しの目は、完全に流雫を捉えていた。流雫は、無意識にアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳で睨み付ける。

 露骨な拒絶反応。それは、数十秒前の伊万里の発言ではなく、4月に初めて耳にした演説を思い出したから、でもない。もし、あの澪に画像として送ったルーズリーフに書き散らしたことが全て真実なら、流雫のかつての恋人、美桜……欅平美桜を間接的にとは云え、殺されたことになるのだ。

 あの書き散らしは、あくまでも僕の妄想だと流雫は思い、澪にもそう言ってある。しかし、それはただの願望に過ぎない。そして、その願望通りであってほしかった。


 自分より年齢が3倍以上の男を睨む流雫。伊万里が口角を上げた、その時だった。

 「黙れ殺人鬼!」

とある男の声がした。ポールとテープのパーティションの直前に立つ、流雫と同じぐらいの年齢に見える男。シャツとジャケット、スラックスの上下を黒で統一してある。その顔は、流雫には見覚えが有った。

 ……5月下旬に行ったゲームフェス。会場だった東京ジャンボメッセの屋上でランチ中に、澪や彼女の同級生……結奈と彩花……に近付き、流雫に因縁をつけてきた男だ。名前は知らないが、確か澪の同級生……。

「誰だ!?」

伊万里は声を上げる。それに対し、男は

「お前に殺されたOFA前理事の御子息だよ!」

と、伊万里を睨み付けて言った。同時に流雫は、この男の名字が大町だと知った。まさかの関連性に、思わず目を見開く。

 ……その減らず口は健在だったが、しかしごく普通の体つきだったあの時より、明らかに痩せていた。いや、痩せたと云うより窶れているように見える。表情も、焦燥感と疲労感に怒りを混ぜたような感じだ。

 しかしそれは、6月頭に秋葉原で発生したOFA本部ビルの襲撃事件で、父親を殺されたことが唯一の原因に思えた。

 「理事など知らないし、殺したなど事実無根、名誉毀損も甚だしい!法的措置だ!弁護士を呼べ!裁判所で勝負だ!」

その発言に、プラカードを掲げていた集団が失笑を浮かべる。

 伊万里の常套句だが、今まで実際に行動に踏み切った例しが無い。マスメディアや伊万里に否定的な集団が言うところの、伊万里劇場が開幕した。

 だが、大町は微塵も臆さない。

「やれるものならやってみろ!それでも日本人か!大和民族か!」

その言葉に、伊万里の眉間の皺が深くなる。日本人らしさを誰彼構わず要求し、日本人ファーストを掲げる人間にとって、その言葉は一種の全否定だった。

 その遣り取りは、最早完全に感情だけでの衝突と化していたが、その光景に呆気に取られている流雫は、しかしとある言葉に引っ掛かっていた。


 「お前に殺されたOFA前理事」

大町は、自分の父親を殺したのは伊万里だと言ったようなものだ。

 その秋葉原OFA本部ビル襲撃事件の実行犯は、ニュースで知る限り3人。その全員が、現行犯逮捕直前に服毒自殺した。しかし、大町は伊万里が殺したと言っている。

 つまり、それが正しければ伊万里が実行犯を操り、事件を起こしたことになる。そして、この政治家の黒幕としての関与がバレないように、自らの口封じに自殺した。

 ……その真実に触れている自信を覗かせつつも、何処かで妄想であってほしい……と流雫が願っていた。しかし今、その期待を裏切るように現実味を一段と濃くする。

「こんな出鱈目な輩が日本を滅ぼすのだ!諸君、そもそも難民は国の安全を脅かす……」

「黙れ伊万里雅治!」

大町は30歳以上も年上の政治家の名前を呼び捨てで叫び、話を遮る。

 最早このまま、無血の決着など有り得ない……流雫がそう思っている間も、建物の自動ドアは忙しなく開閉を繰り返し、人が頻りに出入りしている。その中に、大きな四角形のバックパックを背負った男がいた。

 ジーンズにくたびれ気味の白シャツ、そして自転車向けのヘルメットとサングラスを着けていて、顔はよく判らない。バックパックにはピンクとブルーのチェッカー模様で、白いフォークのロゴが印刷されている。

 数年前に乱立したフードデリバリー、その後発にそれと似たロゴが有ったことを流雫は思い出した。同時に、背筋が凍り付くような感覚に襲われる。

 それは、ほんの少し前に飲んだレモネードで身体が冷えたから、ではなかった。……これと似たような流れ、何処かで見た覚えが……、……まさか!

「逃げろ!!」

流雫は争乱を遮るように、遠くから全力で叫んだ。


 バックパックを背負った男は、その伊万里に噛み付く男とプラカードを掲げ怒号を上げる集団の近くを走りながら、手元のスマートウォッチを触ろうとしていた。流雫はもう一度叫ぶ時間は無く、店内へと走った。

 伊万里とその隣の候補者が、支持者のボディガードを受けて避難を始める。思わぬ妨害に演説が進まず、身の危険を感じたからだろうか。

 入口の強い冷房が、皮膚に滲み出る汗ごと流雫を冷やし始めた瞬間、背後から爆発音が響き、周囲の全ての窓ガラスが割れた。流雫も軽く背中を押される感じがしたが、よろけることは無かった。

 悲鳴が重なる中、火災報知器が鳴り響いた。ベルを叩く音は周囲の空気を切り裂き、館内の壁に跳ね返り反響している。

 自動ドアは開いたまま、爆風で歪んでいた。避難しようと店内に駆け込む人が、次々と流雫の後ろからやってくる。彼が脇に避けると、店内に入ってくる集団と入れ替わるように警備員と従業員が、ガラスの破片を慎重に踏みながら外に出る。中には消火器を手にする人もいた。

 「……またかよ……」

歪んだドアの方向に振り向きつう、苛立ちを露わにしながらそう呟いた流雫は、人通りが途絶えた隙に外に飛び出した。


 フードデリバリーを装った正体不明の自爆テロ、それは口にするのも憚られるほどの悲惨な地獄絵図になっているのは容易に想像できた。

 鉄板の車体が歪んだ街宣車は爆風からか横転し、パーティションのテープや立て看板は燃えている。何人かは火だるまになって倒れていて、警備員が消火器を噴き掛けている。別の警備員が、外の火災報知器に備え付けの消火栓から、消火ホースを取り出して走る。複数の従業員が携帯電話で周囲を見回しながら電話している。関係各所への通報か。

 流雫は、その惨劇に顔を歪めて目を細める。しかし、あの大町は、爆発が起きた位置には見えない。

「何処だ……」

と呟く流雫は、その地獄絵図のような光景に、先刻のレモネードが逆流しそうなほどの胸焼けを覚えながら、周囲を見回す。

 ……ジャンボメッセで見た自爆の痕より酷い。美桜が殺された渋谷のトーキョーアタックも、これと似ていたのだろうか。

 しかし、何故こうもイヤな予感ばかり当たるのか……。ただ、今はそう思う暇は無い。流雫はもう一度周囲を見回す。

 ……地面のタイルに、大小問わず血の痕が不規則に付着している。それが駐車場側へと数メートルだけ延びていたが、仰向けに倒れている人体の足下で途切れる。

 ……人体は男のようで、黒いジャケットを着ていた。しかし、なまじ目立つと思うが、誰もそれに気付いていない。

「まさか……!」

焦燥感を覚えながら、流雫はその倒れている人体に向かって走る。

「あ、……っ……」

流雫は思わず声を上げる。……あの大町だ、間違いは無い。流雫は名字しか知らなかったが、男の名は大町誠児。

 大町のジャケットとシャツは破れ、その隙間から見える皮膚は血に塗れている。左手は腹部に乗せているが、右腕は折れているのか、有り得ない方向に曲がっていて、更には口元を血で汚していた。

 「……!……お前……」

大町は一言、呟くように言う。両膝を地面に突いてしゃがむ少年に、僅かに目を見開いたが、流雫の地元が河月だとは知らない。何故此処にいるのか、そう大町は思った。

「喋るな!」

流雫はその言葉を、苛立ちを露わにしながら遮る。何故こんなことに……。

「お前……何故……此処……ごっ……がふっ……!」

と続きを言い掛けた大町は、しかし噎せて口から血を吐く。あの爆発で、内臓をやられているのか……?

「喋るな!」

流雫はもう一度叫ぶ。

「すぐ救急車が来る!絶対助かる!だから、だからそれまでは喋るな!」

そう叫んだ流雫には、我を忘れ始めている自覚は有った。

 ……ジャンボメッセで自分を揶揄ってきた時のような、生意気な様子は、今の大町には微塵も無い。それ以前に、今にも死にそうで苦しんでいるのを見掛けた以上、いけ好かなくても個人的な感情は一度脇に退けなければ、助かる命も助からない。今は緊急事態だ、それとこれとは話は別だ。

 「奴らは……殺人鬼……、……悪魔だ……」

「だから喋るな……!喋るなぁ……っ!」

流雫は、今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。喋って身体に負担を掛けるな、話したいなら病室でも何処でも聞く、だから今だけは……!


 意識が少し薄れ始めた大町は、この日本人らしからぬ、名前も知らない男が、まさか自分に駆け寄り、身を案じるとは思ってもいなかった。何故この河月なんかにいるのか、何故居合わせたのか、それはどうだってよい。

 その耳に、遠くから鳴る救急車のサイレンが入ってくる。

「助かる……!」

少しだけ明るい声を出した流雫に、大町は

「馬鹿だ……」

と呟いた。それは流雫に向けてのものだったが、彼の耳には届いていなかった。

 ゲームフェスの件も有るし、本当は心底憎いだろうに、流雫は大町を心配している。しかもその声は、最早泣き出す寸前だ。

 俺は恐らく助からない、大町はそう覚悟している。しかし、このシルバーヘアの少年は望んでいなかった。優しいと云うより、甘い。それは悪態ではなく本音だった。


 救急車のサイレンが大きくなる。これで大町も助かるハズだ。

「はぁ……」

と不意に安堵の溜め息をついた流雫の後頭部に、突然金属の棒のようなものが押し付けられた。流雫は目を見開く。

 「大町のグルだな」

太い声が、背後から響く。……誰だ?いや、それよりもこの金属は、まさか銃身……?

「騒ぐと死ぬぞ」

と、再び背後から声が聞こえた。……残念ながら、銃身だ。

 銃を突き付けられた流雫は、どうにも動けない。後ろを振り向くことさえできない。しかし、一体誰だ……?

 「高尚な先生の当選を邪魔する非国民共が……」

男は言う。流雫には見えていないが、黒いスーツを着ている。やや白髪交じりで、眼鏡を掛けている。

 ……そうか、伊万里と候補者の応援に駆け付けた支持者の類いか。流雫はそう思いながら、左手の親指で、右膝にもたれ掛かるディープレッドのショルダーバッグのジッパーに触れる。僅かな開口部の隙間に指を入れ、音を立てないようにゆっくりと押し開く。

 「……やはり真実だったか……」

と聞こえるように呟いた流雫に、男は

「黙れ!偉大なる日本を取り戻すための闘争なのだ!」

と大声で怒鳴る。それでジッパーの音が掻き消されるのは、流雫にとって好都合だった。流雫は挑発するかのように言った。

「闘争……その答えが無差別テロか……」

その言葉に、大町の表情が一瞬険しくなる。痛みに悶えながらも、必死に鋭い眼光を流雫に向けた。男は

「五月蠅い!」

と更に怒鳴り、流雫の頭に銃を更に押し当てる。

「くっ……!」

流雫の顔が歪む。……しかし、ビンゴかよ。

「シルバーのヘアなど非国民みたいなマネしやがって。日本人なら黒く染めろ!」

その言葉の間に、流雫のジッパーは完全に開いた。レザーのホルスターから、銃を何時でも出せるようにした。

 シルバーヘアの後頭部に押し付けられている銃身は、しかし少し大きく震えているのが流雫には判った。

 ……いざ銃を取り出して突き付けた、そこまではよかった。しかし初めて握ったのだろう、銃を構える覚悟など何もできていない、流雫にはそう思えた。そもそもこれも、本人の意思よりは伊万里か別の支持者に命令されたのだろう、

「あの男共を始末してこい」

と。

 引き金を引くことは簡単だが、その覚悟が思ったより追い付かない。だから引き金を引けない。流雫はそう思っていて、当たっていた。尤も、それは何時暴発させるかも判らない危うさも孕んでいたが。

「お前らさえいなければ……!」

男は更に叫んだ。

 腹部に乗せていた大町の左手が、ゆっくりと動いてジャケットに隠れる。まさか……。流雫は銃のグリップを握った。

「仲よく死ね、テロ犯として」

男は覚悟を決めたか、軽く上擦った声で言う。その瞬間、男は銃身を流雫の右側頭部にずらし、少年の頭を弾くように押し退ける。

「ぐっ……!」

手で頭を押さえて蹲り、痛みに歪む流雫の顔が僅かに見えた大町の腹部へ銃身を向けて、男は引き金を引いた。

 流雫の視界の端で、大口径オートマチック銃のスライドが前後に3往復動き、大きい発砲音が耳元に響く。既に自分の銃の銃声でさえ耳どころか脳に焼き付いているのに、更に脳に刻み付けられるようだ。

 「がっあっ……がはっ……!」

大町は呻きを上げ、口から血を吐く。その意識が遠退くのは、流雫から見ても判る。

「撃たせるものか」

男はしたり顔で言う。

 瀕死の大町を撃ったことで、最早1人撃っても2人撃っても同じ、寧ろ支持する「先生」のためなら、これは正義だと思っているに違いない。

 止める術は、一つしか無い。


 流雫は男が言葉を発した隙を逃さなかった。銃を引っ張り出すと右腕の脇へ通そうとする。頭から離した右手で、左から来る銃身のスライドを掴んで限界まで引き、上体を起こすと脇の下から、背後の男の太腿に銃身を強く押し当てた。セーフティロックは、先刻の銃声に紛れて外してある。

 「何!?」

一瞬のことに目を見開いた男の声に被せるように、目を閉じた流雫は引き金を引いた。反動を使って、僅かに角度を変えながら。

 オートマチック銃の小さい発砲音が3回聞こえると、男は

「が……ぁっ……!!」

と呻きながら、銃をその場に落として苦痛に顔を歪め、スラックスを染める血の上に両手を置きながら、その場に崩れ悶絶する。

 大町は薄れる意識で思わず口角を上げる。流雫が見せた……否、魅せた一瞬の反撃は、何時か見た夜のロードショーのワンシーンを観ているような痛快さを感じさせた。

 目を開けた流雫はそれに呼応するかのように、大町に微笑んだ。あの5月の出来事を知っている者からすれば、有り得ない光景だった。

 ……大町は薄れる意識で、その微笑を捉え、小さく頷く。言いたいことは言えなかったが、頷くことで伝えたかった。目の前の少年が辿り着いた答えは間違っていない、と。

 そしてあわよくば、俺の代わりに……。室堂が認めたこいつなら……。それだけで、不本意な死に方だが無駄死ににならなくて済む……と思った。


 サイレンが鳴り止むと同時に、薄れる意識に敵わず目を閉じた大町の体から、力が失われていく。

「え……?」

流雫の表情から微笑は消える。腹部と胸部の動きは止まっていた。

「まだ助かる……まだ助かるのに……!」

流雫は叫ぶ。視界が一瞬で滲む。数分前に、伊万里に向かって叫んだ話も聞いていない。否、それ以前に……。

 背後から救急隊員が走ってくる。流雫は震える足に力を入れて立ち上がった。

 ……これから、警察署で事情聴取が待っているだろう。これでもう何度目になるだろうか。しかし、今は話にならないことは自覚していた。だから、とにかく此処から逃げ出したかった。

 流雫は視界を滲ませたまま、そして左手で銃を握ったまま、右手でスマートフォンをバッグのアウターポケットから取り出し、メッセンジャーアプリを開く。そして、猫のアイコンに触れ、通話マークをタップした。

 サバトラ柄の猫のアイコン、その下に書かれていた名前はミオ。流雫が誰より頼れる少女の名前だった。


 少しだけ遅く目を覚ました澪は、バターをたっぷり塗った厚切りトーストを平らげると、リビングでミルク多めのコーヒーを飲みながらスマートフォンのゲームにログインした。

 5月に行ったゲームフェスで紹介されていた新作のRPGパズルゲームで、毎日ログインするだけで本来課金や広告で入手する宝石が無料で手に入る。6月頭の配信開始日から毎日ログインを欠かしたことは無い。

 ログインボーナスは無課金勢には有難い。そして後でプレイしようと思い、澪はゲームのアプリを閉じた。

 その隣では父、室堂常願が報道ドキュメンタリーを見ていた。テーマは難民問題だった。父はこうして、仕事で追っている事件に役立ちそうな情報を、片っ端から収集していた。全ては、トーキョーアタックから始まるテロの脅威から東京や家族を護るため。それが警視庁の刑事の仕事だ。

 「澪、今日は何処か行くの?」

「ううん、特には……」

と、母の美雪の問いに答える澪。今日は1日、家でのんびりしていよう……と思っていた。

 父の隣で見始めたドキュメンタリーは、突然ニュース専用スタジオの映像を映し出す。そしてカメラに正対したアナウンサーが、ニュース速報を読み上げ始めた。

「山梨県河月市のショッピングモールで爆発が発生し、死傷者が出ている模様です。繰り返し……」

「河月……?」

澪はその地名に反応した。流雫の地元……。

 娘が眉間に皺を寄せるのを、父は見逃さなかった。それと同時に、着信音が鳴った。パリの夜景のアイコン……流雫からだ。メッセージ無しでいきなり連絡してくるのは珍しい。

「流雫?」

「澪……」

澪の声に返す流雫の声は悲しげで、今にも泣き出しそうなほどだった。いや、もう泣いている……?

 その後ろでは、指示が錯綜しているような声とサイレンが重なって聞こえる。

 まさか、モールに……。澪は無意識にスピーカーフォンモードにした。

「今ニュース見た。モールにいるの?何が起きてるの?無事なの?」

澪は畳み掛けるように問う。それだけ、澪は焦りを感じていた。

 「無事……。……澪……今から……東京行く……会いたい……」

流雫は言う。会いたい理由、澪はすぐに察しが付いた。

「……撃ったの……?」

澪が恐る恐る投げ掛けた問いに、

「……うん……」

と間を置いて答えた流雫。その遣り取りを聞いていた父は、娘にスマートフォンを渡すようにジェスチャーする。

「ちょっと待って?」

 そう言って、澪は父に通話のまま端末を渡す。

「流雫くんか」

「!?は、はい……」

流雫は驚きながらも返事をする。まさか、澪の父と話すことになるとは。一気に緊張感が走る流雫に、父は言った。

 「澪に会いたいのは、モールの爆発のことだろう?撃ったんだろう?ならば東京には来るな。そのまま河月にいろ。代わりに、俺と澪が向かう」

「えっ?……で、でも……」

突然の指示に狼狽える流雫に、父は問うた。

「撃った身で、今警察から逃げると、最悪殺人になる。それは知っているだろう?」

 ……護身のために銃を撃つ。それが正当防衛とされるためには、現場付近で警察に身柄を保護され、事情聴取を受ける必要が有る。その場でないのは、安全のために逃げる必要が有る場合も有るからだ。

 3月にアフロディーテキャッスルのエレベーターで犯人を撃った流雫が、東京テレポート駅まで走っても問題視されなかったのは、犯人が生きていれば撃たれる危険が有り、安全な場所まで逃げる必要が有ったからだ。

 今はその心配も恐らく無いが、それでも立ち去れば、ただの殺人未遂の容疑者として追われることになっても文句は言えない。

「それは……」

と流雫は答える。

「河月署には連絡する、君の事情聴取は俺がやるからそれまで待て、と。君はそっちの警官に、警視庁の室堂が来れば話をすると伝えるんだ。これは君が犯罪者にならないためだからな」

と、最後の一文を強調したベテラン刑事に、流雫は

「……は、はい……」

とだけ答える。漸く、少しだけ落ち着きを取り戻した……ように澪には思えたし、そうであってほしかった。

「よし、それでこそ澪が見込んだ男だ。……また澪から連絡させる」

そう言うと父は澪に端末を返した。澪は言う。

「父が隣にいたから、つい……」

「……澪……」

と恋人の名を呼んだ流雫に、少女は優しく、しかし強く言った。

「あたしと会いたい、あたしにだけ会いたい。それほど今、流雫が何を抱えて、何を思ってるか、あたしは判ってると思いたい。……でも、2時間だけ待ってて。絶対行くから」

「……判った……」

流雫は答える。その声は最後まで弱々しいままだった。


 澪は通話を終えたが、その間に父は自分のスマートフォンから後輩刑事に電話していた。

「30分もしないうちに来る」

と通話を終えた父は言い、自分の部屋に行く。

 澪も慌てて部屋に戻り、何時ものスカートと白ブラウスを手にする。そう云えば、流雫と会う時はスカートしか履いていないことに澪は気付く。それまではパンツルックだったが、彼とだけは別だった。別に勝負服などと思っているワケではないが、何かこの方がしっくりくる。

 少女はオフの日用のショルダーバッグを手にする。そろそろ後輩刑事の迎えが着く頃だった。既に父は外に出ていた。

 澪がダークブラウンのローファーを履いて外に出ると、遠くからシルバーのセダンが1台走ってきた。それは家の前で止まり、運転席から後輩刑事、弥陀ヶ原陽介が車を降りてきて、2人に挨拶をする。

 言葉少なに挨拶を交わした澪は、後部座席に座るとシートベルトを締める。そして母が見送る中、セダンは動き出した。

 澪はスマートフォンを開こうとして、しかし止めた。今はニュースやSNSを見るより、気になることが有る。

 ……流雫の弱々しい声は、聞いている方が泣きそうになるほどに悲しみと怒りが混ざっていた。……会いたいと言ったのは恋人に甘えたいから、だとしても、そう思うほど、そのために東京に逃げ出したいほど、今流雫は苦しんでいることが判る。

 河月のモールで、流雫は何を見たのか、そして何を話そうとしているのか。それだけが澪の頭を支配していた。

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