2-3 Close Call

 翌日。前の日、澪が流雫とデートした余韻は、夢にも引き継がれていた。

 アフロディーテキャッスルの前で待ち合わせて

「ルナ?あたしはミオ。はじめましてっ!」

と微笑んでいた。それは、あんな事件が起きなければ叶っていた、彼女の願望でもあった。

 目覚まし時計の無機質な電子音で現実に引き戻され、澪は朝から憂鬱になる。望む形の初デートを夢で見ても……。ただ、夢でさえ彼と会えるのだから、それはそれで悪くない。

 目覚まし時計なんて掛けなければよかった、と思った澪は、しかし今日は結奈や彩花と遊ぶ約束をしていた。澪はベッドから下りた。大型連休最終日。今日もいい天気だ。


 ここ最近、流雫とのデートしか頭に無く、2人を少し置き去りにした感は有った。彼女たちも恋人同士だし、そうでなくても2人で遊んでいるが、3人で遊ぶのも楽しい。

 住んでいる場所は互いに少し離れているため、池袋駅で待ち合わせることにした。会っても、カフェで話したり気になる店を回ってみたり、普段の延長でしかないが、3人とはそれが何より楽しい。

 「待った?」

改札から小走りで2人に駆け寄って言った澪に、

「全然」

「めっちゃ待った」

と正反対の返答をする2人。実際は全然だと答えた彩花が10分前に最も早く着いて、結奈と澪は数十秒差だった。ただ、結奈の口元が笑っているのはそうやって戯けた時の癖だ。

 ……室堂澪、立山結奈、黒部彩花。この3人は特に仲がよく、一緒にいることが多い。その中心は誰と云うワケでもないのだが、周囲からは澪だと思われている。

 3人で駅前のカフェに入ると、モーニングを選ぶ。お供は3人それぞれ違うラテだ。そして、普段と変わらない話で盛り上がる。

 オンラインでは、こんなに盛り上がることは難しい。だから澪は、ほぼ毎日メッセージを送り合っている流雫と会うのが楽しみで仕方ない。そして、この3人と話すのも決まってリアル、オフラインでだ。

 店を出ようとバッグを手にした時、この大型連休で何度も見た街宣車が駅前に現れ、演説の準備をしていた。それは殆ど終わっていたらしく、すぐにスピーカーから太い声が響いた。

 大型連休は祝日が集中している。その皮切りとなるのが4月末の昭和の日で、昭和天皇の誕生日に由来する。そして5月に入ると憲法記念日が有り、その前には平日ながらメーデー……労働者の日が有る。このタイミングで特に憲法改正や軍国主義の復活と云う右翼団体の街宣が活発になる傾向が見られる。

 一方で、メーデーは労働組合による労働者の集会……それは賃金を含む労働環境の改善を求める運動だけでなく、現政権への批判も見られるが、その旗振り役として左翼集団の街宣も見られる。

 厄介なのは、この両者によるカウンタースピーチで一触即発になった場合だ。特に最近は、或る程度街宣の場所と時間帯が特定できているため、そこに被せてくるケースも多い。それが、警察や公安の監視下で一触即発寸前の騒動に至る。

 ただ、双方の共通認識として警察の世話になるのは互いにマイナスにしかならず真っ平だ、だから挑発合戦で留まっている。それでも、何時誰が手を出しても不思議ではないほどの物々しさを感じさせる。

 しかし、ここまで外出の度に出会すと、どうしても狙われているように澪には思える。偶然居合わせているだけなのだが、偶然と云っても限度は有る。何者に?それは判らないが。

「あの連中も毎日大変だよね……」

結奈は言うが、同情は微塵もしていない。別に政治思想や信条を述べることは悪ではないが、ただタイミングが悪過ぎる。

 何もこんな日に、と澪は思っていたが、それは結奈と彩花も同じだった。しかし、同時に澪だけは、不穏な感じがしていた。

 挑発と牽制が繰り返される演説合戦。しかし、この時ばかりは何か違う。見る限りヒートアップしているのは判ったが、それだけでは済まないだろう。

 会計を済ませて外に出ても、澪は1人気が気でない。

「……澪?」

彩花が呼ぶ。

「……あ、ちょっとね……」

「澪は仕方ないかもだけど、ナーバスになり過ぎだよ?」

結奈は言う。……遭遇した事件のことは2人には話していないが、父親が刑事故に事件が気になるクセを気に懸けていた。

 ……自分でも判っていた。しかし、気にするなと言われれば言われるほど、気になる。

 ……小規模ながら、暴動になりそうな予感がする。駅前から早く離れた方が安全だ。それで何も無ければ、それに越したことは無い。

「……早く行こう」

澪は2人を急かすように、繁華街へ行こうとする。その瞬間、街宣車の窓ガラスに蜘蛛の巣に似た亀裂が入り、その中心に穴が開いたのを、澪は見逃さなかった。

「うわぁ!」

街宣車と演説していた登壇者を囲んでいた左翼集団は叫び声を上げ、ヘイト反対などと書かれたプラカードを掲げていたが、その場に投げ捨てて四散した。そして登壇者も慌てて街宣車の影に隠れる。

 その場にいた警官でさえ、突然のことに驚きを隠さない。すると、街宣車の鉄製のボディと窓ガラスに複数の小さな穴が開く。鈍い音とガラスが砕ける音が規則的な間隔で響いた。

 池袋は、ほんの数秒でパニックに陥った。

「きゃあっ!!」

彩花が悲鳴を上げ、結奈も混乱している。

「な、何が……!」

「逃げなきゃ!」

澪は言い、地下街への階段を指す。2人を先に行かせ、その後ろから追うように階段を駆け下りる。2人を先に行かせたのは、彼女たちの安全が先だったからだ。

「何だってんだ……!」

階段を下りきって数秒走った結奈は立ち止まると、膝に手を突きながら言った。中学時代は陸上部だったらしく、運動能力は高い。しかし、咄嗟に走って避難するのは無関係だろうか、彼女でも息を切らしていた。

 澪は彩花を支える。彼女もまた、息を切らして屈んでいた。

「……どうして、こんな……」

澪は壁に手を突いて呟く。……不穏な予感に限って、何故的中するのか。

「……澪、何処か入ろう?話したい」

結奈は言った。今カフェを出たばかりだったが、こうなることが判っていればカフェに残っていればよかった、と思いながら、3人は別の店を探そうとした。


 地下街から地上に出て、近くのカラオケボックスに入る。ちょうど1部屋だけ空いていて、そこに入った。しかし、目的は歌うためではない。1ドリンクオーダー制だったから、3人はコーラやサイダーを頼んだ。

「……澪。今日本で何が……何が起きてるの?」

彩花が切り出す。それは結奈も思っていたし、澪も気になっていた。それは、やはり自分の方が知りたい、と思いながら澪は、自分が警察一家に生まれ育っているからだと判っていた。ただ、あの話は避けて通ることはできない。

 これぐらいのことで、2人は澪との付き合いを変えるとは思わない。ただ。

 澪は溜め息をついて、意を決した。

「……あたし、テロに遭った事が有るの」

その告白に、2人は目を見開く。

「嘘……テロって……」

「だから、どうしてもナーバスになっちゃって……。……それで、その時もだったけど……」

 澪は、アフロディーテキャッスルでの出来事を語り始めた。

「いきなり銃声がして、テラウェブに隠れたの。でも少しして、犯人が入ってきて下のフロアで乱射してて。あたしは上のフロアにいたし、その後逃げてどうにか無事だったけど……」

「その時の犯人の動機なんかは判らないけど、その時ダイバーシティや難民に関する啓発イベントをやっていたの。それが引き金……だと思ってる。短絡的ではあるけど。でも、あたしには判らないことだらけだと思うの。所詮、あたしは今まで平和だったこの国で、何不自由無く暮らしてきただけに過ぎない……そう思い知らされたわ」

そこまで続けた澪に

「でも、だからってテロってのは……」

「絶対間違ってる」

と結奈と彩花は続けて言う。澪はサイダーの透明な水面を見つめながら続けた。

 「……その時、流雫と初めてのデートだったの。初めてのデートなのに、台無しにはなったけど。でも彼がいて、いたからあたしは助かった」

澪はそう言いながら、その時のことを思い出していた。


 流雫の咄嗟の判断で、エレベーターで武装集団の残党に撃たれなくて助かった。しかし彼は冷静……端からはそう見えていただけで、見えないところで恐怖と戦っていた。

 殺される恐怖と、人を撃つ恐怖。殺さなくても、撃たなければ殺される。それは、澪も知らない……流雫しか知らない極限の状態。本来は知ることなく生きるのが何よりの幸せだろうが、流雫はもう何度も経験している。

 だから、澪は流雫の力になりたかった。彼が苦しいなら癒やしてあげたかったし、泣きたいなら抱きしめてあげたかった。

「流雫も、そう云うところは色々気にするみたい。……それでも、何故今こんなことになってるのか、それまでは判らないと言ってた。……それだけ、難しい問題が潜んでる……」

澪は言い、サイダーを一気に飲み干して小さく溜め息をつく。

 本来は楽しむための個室で話すような話題ではないのだが、だからとカフェや学校で話すような話題でもない。ただ、周囲の雰囲気に与える影響を鑑みれば、好都合なのは此処しか無かった。

 「折角の連休なのに……」

澪はトーンを落とす。アフロディーテキャッスルの時と同じだ、折角の休日が最初から台無しになった。

「澪が悪いワケじゃない」

結奈は慰めようとする。それに呼応するように、彩花が言った。

「何の思想や信条が有るかは判らないけど、でも反対勢力を黙らせるためだとしても、武力じゃダメだと思うの。対話するだけムダに思える相手もいるけど。……そのために、言論の自由が有るんだから。たとえ、それがカウンターヘイトだったとしてもね」

「私たちは、ただとばっちりを受けちゃってるだけ。折角の休みの平和を潰されるなんて、やってられないわよ」

そこまで続けた後で、コーラを半分ほど一気飲みした彩花は眼鏡越しに険しい目をする。それは、街宣車を狙った正体不明の犯人に対してのものだった。

 彩花は3人の中でも一番大人しい。結奈とは対照的に見えるが、しかし普段怒の感情を表に出さないだけだ。今、口調こそ大人しめではあるが、今まで1年以上澪と結奈が見てきた中では、最もその感情を露わにした。それがどう云う意味か、澪も含めて判っていた。

「彩花がそう言うってことは、余っ程だね……」

結奈は言う。彩花は返す。

「結奈も、そう思うでしょ?」

「……もし、ボクたち3人の誰かが怪我でもしていたと思うと、背筋が凍るよ。……怪我どころの話で済めば御の字なのかも」

「……だから、澪が悪いワケじゃない。澪は何も悪くない」

そう言った彩花は眼鏡越しに笑った。澪は微笑んでみせるが、気が気でないことだけは確かだった。


 カラオケボックスは1時間で出た。センシティブな話は終わった。そのままカラオケを始めてもよかったのだが、他に行きたい店も有った。特に何を買うワケでもないが、見て回りながらああでもこうでもない、と言い合うのが楽しい。そもそも、カラオケボックスに入ったのも、言ってみれば一種の避難だ。完全に予想外のことだった。

 池袋の駅前には警察官が何人も集まり、街宣車の周囲にパイロンを置いていた。まだ鑑識は現場検証を続けていて、周囲は騒然としている。そして中には、そのマイクロバスを改造した……緊急車両以外装備禁止の赤色灯など違法改造も見られるが……車両に、スマートフォンを向けている連中もいた。

 写真を撮ってSNSに、または動画に録って動画投稿サイトなりにアップロードして、閲覧数や再生数を稼ごうとするのか。今はスマートフォン1台で誰でも「市民ジャーナリスト」の大義名分の下に……不謹慎なコンテンツでさえ、知る権利や報道する権利を盾にした報道と云う建前でアップロードするなど、その意味では無法地帯と化している。

 例えば、駅での飛び込み自殺など人身事故が起きた場合に時々見られる、ブルーシートと車両などの隙間からショッキングな「画」を……澪も地下鉄爆弾テロ事件の際に見た……狙うのは、その最たるものだ。そして、その度にSNSでプチ炎上が発生する。承認欲求の暴走か、モラルハザードだと叫ばれるようになって久しいが、澪はうんざりしていた。

 3人はそれに目を向けないように、目的のエリアまで急ぐ。しかし、1時間前の出来事を忘れるには、夜まで掛かることは覚悟しなければならなかった。


 客室のベッドメイクを終えた流雫は、自分の部屋でコーヒーを飲んでいた。連休最終日は、特に何処に行く用事も無い。気晴らしに湖を自転車で走ってもよさそうだ、と思えるほどの陽気だ。そうしようか……と思っていると、スマートフォンのニュース速報アプリからの通知が鳴った。

「池袋で街宣車狙撃、負傷者なし」

そのポップアップがロック画面に浮かぶ。流雫は怪我人がいないことに安堵しながらも、行ったことが無い池袋での発砲は、他人事ではない気がしていた。……何が起きているのか、気になる。

 ただ、澪にメッセージを入れるまでもない、と流雫は思っていた。そもそも、今日何処に行くか聞かされていないし、特に詮索もしない。池袋にいるとは限らない。

 ……ただ、そうは思っていても、やはり何かが引っ掛かっていた。


 3人で、仕切り直しとなった連休最後の1日を遊びながら、先刻の件を忘れようとしていた澪は、しかし未だ何か引っ掛かるものを感じていた。今この時には無用なのだが、それでも一抹の不安を拭えない。結奈や彩花の前では、それは隠しているのだが、しかし頭から離れない。

 雑貨屋を見て回ったり、気になるゲームのグッズをクレーンゲームで入手するのに付き合ったり、そうやって2人がリードしているからこそ、今澪は楽しく過ごせている。その意味でも、2人に頭が上がらない。本当に、人に恵まれているのだと思った。

「澪」

彩花は名前を呼び、大きな広告を指す。そこには色んなキャラクターのイラストが並んでいる。

「今度、このゲームフェスに行こう」

「5月末……?いいわよ」

彩花の誘いに、澪は即答した。結奈は問答無用だ。

「何なら、流雫くん……だっけ?呼んできなよ?ゲーム好きなら、ダブルデートだって面白いかもよ?」

結奈は言う。そうくるとは思わなかった澪は

「……ちょっと話してみるね」

と言った。

 彼のことだから、ゲームが好きかは知らないが距離がネックと言いながらも、行くと即答するだろう。いると、更に楽しくなるのは間違いない。

 夕方、池袋駅に戻った。途中、大きなハプニングこそ発生したものの、3人が全員無事だったことは不幸中の幸いだった。そして、また明日学校で会う。

 連休が明けると、次の大きな休みは2ヶ月後の夏休みまで無い。学校と家を往復する普段の、何の変哲も無い日常に戻るのだ。ただその平和な日々に期待しつつ、列車に乗ろうと改札を目指す。

 3人、使う線はバラバラだった。澪は国営会社から民営化されたNR線で、結奈と彩花はそれぞれ別の私鉄。改札も多少離れている。だから駅前で別れることにした。

「じゃあ、またあし……」

澪の声を遮るように、大きな銃声が響いた。

「なっ!?」

澪はその方向を振り向く。上空に向けての威嚇発砲ではあったが、まさかよりによってこんな時に……。

「何!?」

結奈は彩花を抱き寄せると

「澪!」

と声を張り上げて呼ぶ。だが、銃声の方向に向いた澪の反応は無い。

「澪?澪!」

と何度も呼びながら、腕を掴んで引っ張る。その間も、更に数発の銃声が聞こえる。

 ようやく我に返った澪は

「逃げなきゃ!!」

と、2人と一緒に混乱する人混みに混ざる。

 ……逃げると云ったって、何処へ行けばよいのか判らない。とにかく、少しでも駅から離れなければ。

 止まることはおろか、スピードを落とすことすらできない。落とした途端、後ろから押されて転倒し、次々に踏まれることが目に見えている。運動能力が高い結奈は別として、彩花はその点がやや不安だったから、結奈は恋人を離さないように必死だった。

 そして澪は、2人から遅れていた。2人が自分の視界に入っている、それは自分より僅かながら危険から遠ざかっていることだ。だから澪は、少しだけ安心していた。しかし同時に、怒りと疑問が浮かぶ。……何が目的なのか。

 ただ、今は人混みに乗じて避難しなければ。

 人の流れは、駅の反対側……西口公園へ向かっていた。昔何かのドラマで話題となった、目の前にバス停が有る小さな公園だが、既にそこは密集状態だった。

 息を切らして、結奈と彩花は公園から離れてバス停で足を止める。公園に入れないのは目に見えていた。澪も2人から少しだけ遅れて合流した。

「……結奈……はぁっ、彩花……、はぁっ……、……無事ね……っ……はぁっ……」

澪は膝に手を突いて、首だけ2人の顔に向けながら言う。……3人揃って、次の言葉が出ない。言葉を出そうにも、乱れた呼吸を整えなければ。彩花は先に澪に答える。

「無事、だけど……一体何が……」

「あたしが……知りたいわよ……」

澪は、未だ混乱が残っている。そして、その表情は2人が見たことが無いほどだった。一言で言えば、焦燥感が滲んでいた。

 「どうして、こんなことに……」

澪は言ったが、誰も答えを持っていなかった。持っていれば、彩花の問いも出てくるワケがないのだ。

「まさか、1日で2回も……」

結奈は青ざめたような表情を隠さない。それは声でも判る。彼女はこの3人で誰より気強く見えるが、まさか自分がこんなことに遭遇するとは思っていなかった。……最悪の休日だ。

 誰も、それに続けられる言葉を持っていない。3人は、ただ遠くから幾重にも重なって鳴り響くサイレンをBGMに、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 引っ掛かるものは有ったが、結局流雫は前日2人で過ごした河月湖に1人で行った。湖の周囲は歩道だけでなくサイクリングロードも整備されている。

 フランスへの帰郷の際に、何度か観戦に行ったツール・ド・フランスに影響されてフランスで買った青いロードバイクを走らせる流雫ペースは遅めだが、事故を起こさないように走るには、他のことに頭を使わないことが何より重要だ。手伝いが無い時に少し無心になりたい時、身体を動かしたいと思った時には最高のスポーツだと、流雫は思っている。

 フルコースを3周した流雫は湖畔のペンションに戻り、白いヘルメットを脱ぐ。それと同時に、彼のスマートフォンから通知音が鳴る。あの不安に駆られる音だ。

 白地に赤と青のストライプが入った小さなサコッシュには、財布とスマートフォンだけしか入れていない。流雫はグローブを外して黒い端末を取り出す。国民保護情報は

「発砲事件、池袋」

とだけ表示していた。

 ……1日に2度も、同じ場所がターゲットになった。それは、この関東に限って云えば初めてのことだった。トーキョーアタックも、神奈川とのほぼ県境の東京中央国際空港と渋谷……幾分離れていた。ただ、今日は数時間離れているものの同じ池袋だ。

「池袋で銃乱射らしいけど、無事?」

流雫はメッセンジャーアプリを開いて打つ。

 澪が池袋にいるとは限らない。先刻はそう思ったが、逆に云えば偶然居合わせる可能性だって有る。

 澪が何処に住んでいるか、駅単位で知っているが池袋からは遠くない。だから、ちょっとした用事で出ていて、遭遇していることだって有り得ない話ではないのだ。

 ただ、どっちにせよ澪の身に何も無いことを願うしかない。流雫は溜め息をつき、ペンションのドアを開けた。

 楽しいことが台無しになった。今から気を取り直そうにも如何せん気が乗らなかった。帰ろうとした矢先の出来事だったからではなく、色々と気が気でなかった。


 2023年8月のトーキョーアタック以降、テロや銃撃は4ヶ月間で2件だった。それが銃刀法改正後、特に今年2024年に入って急増した。その最たるものが、アフロディーテキャッスル銃撃テロと地下鉄爆弾テロだった。

 ただ、それ以外にも大都市を中心に何件も起きている。その半数は2月からの3ヶ月で、先日もメーデー……労働組合を中心とした大規模集会の会場となっていた代々木公園で集会中に発砲騒ぎが発生したばかりだった。

 護身のために銃の所持が認められたが、銃弾の販売システムで購入が厳しく管理されているため、理論上は市民による銃犯罪は起きないと言われていた。しかし、何らかの穴が有り、そこを突いているのかもしれない。あくまで、憶測の域を出ないが。

 そして、犯行声明も出ていない、動機も解明されていないのは流雫、もしくは澪が遭遇した事件だけだ。それぞれの背景に何が有るのか。

「じゃあ、また明日ね」

そう言って3人は別れた。最後だけ互いに微笑んでみせたが、誰一人として目は笑っていなかった。

 澪が家に帰ると、父も母もいた。3人で夕食を済ませ、父が始めた後片付けを手伝うと、澪は自分の部屋に籠もる。

 スマートフォンを開くと、流雫からのメッセージのポップアップが放置されたままだった。あの夕方の銃声から今まで、スマートフォンを出していない。出すほど落ち着きを取り戻していなかった。

「池袋で銃乱射らしいね。無事?」

事態が事態だけに仕方ないことではあったが、流雫に悪いことをした、と澪は思っていた。そして、迷わず通話ボタンを押した。


 流雫のスマートフォンが鳴る。手を着けるのを忘れていた宿題を必死に片付けている最中だった。流雫は英文を走らせていたミリペンをノートに置き、通話ボタンを押した。

「澪?……無事……だった?」

流雫は先に切り出す。

 「無事だけど、遅くなっちゃった……」

澪は悪びれる。……まさか。

「……いたの?」

流雫は問う。その事実に、思わず身震いする。

「うん……同級生と行ってたの。怪我は無かった。でも、怖かった……」

澪は答えた。そして、彼に自分が何を見たか話した。それは、彼が知らないネットニュースにも出てこない池袋での現実だった。

「……怖くて、とにかく……ただ避難するのに必死だった」

と細い声で言った澪に、流雫は

「無事だったから、安心した」

と言った。ただ彼女が無事であるだけでよかった。

 澪曰く、狙撃されたような感の街頭演説の最中は別として、威嚇発砲の時は何の予兆も無かったらしい。理由無き発砲なんて有り得ない、と思っていたが、思えばあの教会爆弾テロは、流雫の学校まで銃を手に侵入してきて、流雫が狙われた。今もその理由は判っていない。教会が狙われ、流雫はその口封じ……だと思っている。

 もし、理由なんてものが何も無いのだとすれば……理由が有っても糾弾は必至なのだが……、相当厄介だ。何が引き金で、銃撃事件が起きるか判らない。

「……通り魔的に撃たれると思うと、動けなくなっちゃって……」

そう言った澪は、今にも泣き出しそうな声で続ける。

「……あたし、怖い……」

 流雫は、スマートフォンを耳に当て、澪の声を聞きながら頭を抱えていた。

 今の日本に、平和な場所など何処にも無い。それぐらい判りきっていた。しかし、それでも澪が言ったように通り魔的と云うのも有り得ない話ではなく、それは新たな問題だった。

 どんなに対テロ、凶悪犯罪対策の護身用として用途は限定されているが、それでも自ら起こす犯罪に使う奴は出てこないとは限らない。それは銃刀法改正の議論でも超党派の反対派を中心に常に持ち上げられていた。

 だから弾倉に封印を貼り付け、最低限の弾数しか所持できないように販売システムを構築したし、警察による講習を受けた者のみの登録制で、データベースで銃弾の販売履歴と紐付けて一元的に管理、照合できるようにシステムを構築したのだ。

 それに違反すれば即登録抹消、今後も銃の所持が永久的に認められなくなり、銃も即提出しなければ銃刀法違反で処罰の対象となる。そこまで法整備も整えていながら、それでも結果として防ぐことはできなかった。もしそれが、本当に通り魔的犯行であれば。ただ、仮にそうでなかったとしても、何れは起きかねないものとして捉えていなければならない。

 何処かの組織で銃の扱い方の訓練を受けた者なら、その危険性を把握している分まだマシで、一番怖いのはライセンス発行のために講習を受けただけの者だ。それは流雫自身も自覚している。既に3度も銃を使ったものの、一歩間違えれば正当防衛でない殺傷を招くことは常に頭に有る。


 流雫と話そうとしたことが、間違っていた。それは彼に、余計な心配を与えただけだった。澪はそう思っていた。

 今日だけでも色々有り過ぎて、澪は流雫に縋ろうとしていた。しかし、自分があまりに弱い存在なのだと思い知らされる。結奈と彩花を心配している自分の方が動けなくなって、結奈が正気を取り戻させた。

 ……流雫ほど強くない、それどころかあまりにも弱過ぎる。澪は、そう思っていた。


 澪が怯えているのは流雫にも判る。彼の記憶が正しければ、澪がテロや銃撃事件に遭遇するのは、この1ヶ月半で3度目だ。流雫自身もそうだが、本来なら一生経験する必要が無いことを何度も経験している。だからと、何も怖くならなくなる、なんてことは無い。有り得ないと思っていた。

「……澪」

流雫は彼女の名を呼ぶ。しかし、次の言葉が出てこない。何を言えば慰めになるのか、そもそも慰めの言葉が有るのか。こんな時に、彼女の役に立っていないことがもどかしい。

「僕が今日会っていれば……」

流雫は言った。

 今日のデートを約束していれば、こんなことにはならなくて済んだのではないか。全ては昨日と3日前にデートを決めた僕の間違いだ、と流雫は思っていた。現に、東京でのデートと重なっていたとしても、テロが起きた時間は臨海副都心にいた。起きることは避けられなかったとしても、遭遇は避けることができた。

 所詮、全ては結果論でしかないし、もし流雫に予知能力が有るならば、そもそも一度もテロに遭遇すること無く、今日まで平和そのものの生活を送れているだろう。何もかも、無いもの強請りなのは判っていた。それでも、だ。

 「流雫は何も悪くないよ」

澪は言った。確かに、その通りではあったのだが。しかし、こんなことになっているのならば、無理してでも東京に出ればよかった、と流雫は思っていた。そうすれば、少しでも澪を慰めてやれただろうに。

 いや、澪を慰める以上に、澪が生きていることに流雫自身が救われていただろう。


 「でも、何か声を聞けて、少し落ち着いた。……怖いけど、流雫はもっと経験して、それでもこうして生き延びてる。それに比べれば……。あたし、もっと強くならなきゃ……」

そう言った澪は、恋人の言葉を遮るように続けた。

「あたしは流雫に助けられてる。だからあたしは、流雫を支えないと。2人なら、それ以上のことができるから」

「流雫、大好き。……またね」

そう言い残して、澪は終話ボタンを押した。

 かなり身勝手だと思ったが、澪はそれ以上言葉が出なかった。それ以上は、何だか感情のブレーキが壊れるような気がして、止まらなくなりそうで。

 机に伏せた澪は、しかし手遅れだった。最愛の人を失ったかのような寂しさが、彼女を縛り付ける。嗚咽混じりの言葉を洩らした。

「流雫ぁ……、流雫ぁ……っ……」

慰めてほしい。優しく抱いて、囁いてほしい。

「僕がついてるよ」

と。

「……どうして……どうして今……あたしの隣に……いないの……?」

澪は泣きながら、今この場所にいてほしい少年に問うた。問うたところで、答えなど返ってくるハズもないのに。


 一方的に通話を切られた流雫は、スマートフォンを机に置いて、椅子に座ったまま天井を仰ぐ。2割ほど残った宿題は、30分も有れば簡単に終わるが、今は手を着ける気にはならない。

 ……澪は、恐怖を抱えながら、目の前の光景に必死に立ち向かっていた。そして、その光景が蘇る今も。アフロディーテキャッスルの時も、後に流雫だと判る少年を窓ガラス越しに見つけるまでは1人で、そして地下鉄の時は完全に1人で。何故、澪までそう云うのに遭遇するのか。

 ただ、彼女は銃を握り、人を撃つほどのことにはなっていない。それだけは流雫を安心させた。自分のように、人を撃つことは望んでいない。それが、単なる綺麗事でしかないことは、判ってはいるのだが。

「泣いてるの、かな……?」

流雫は呟く。

 声が、そして流雫に言葉を挟ませようとしない話し方からも、そう思えた。もしそうなら、初めて銃を握った夜、澪が言ったように

「僕がついているんだから、泣いてもいいよ?」

と言えるのに。……今通話ボタンを押しても、恐らくつながらない。

 早くこの夜が終わればいいのに。流雫はそう思いながら、

「澪……」

と少女の名を呟いた。

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