2-2 Holidays For Abnormal Lovers

 巷は大型連休に突入した。流雫が居候しているペンション、ユノディエールは連日満室で、彼も朝からガレットを焼き続けている。蕎麦粉を使ったクレープのため、蕎麦アレルギーの持ち主には禁物だが、そう云う事情でもない限りオーダーされると云うのは嬉しい悲鳴だ。

 それが終わると、本来なら客室の掃除だ。それが最も大変なのだが、余計なことに頭と気を回さなくて済む。しかし、今日は最後の1枚を焼き上げるとすぐにディープレッドのショルダーバッグを手にし、白いUVカットパーカーを羽織りペンションを出た。

 タイミングよく来たバスに乗り、終点の河月駅で降りた流雫はすぐに列車へと乗り継ぐ。全席指定席となっている特急の座席が確保できなかったため、時間は掛かるが快速列車に乗ることにした。

 ……もっと遊んで来てもいい、と相変わらず親戚からは言われるが、流雫はそれはそれで気が引ける。手伝いの延長ながらもバイト代は出るし、流雫にとっては寧ろこの手伝いが好都合だった。だから、これでも十分遊んでいる方ではないか、とは思うが。

 1ヶ月ぶりの東京は、やはり騒がしくて、活気に満ちている。ただ、その騒がしさは別の意味も有った。5月3日が、どう云う日か。少年はロングシートに揺られながらカレンダーアプリを見て、溜め息をついた。

 待ち合わせは、3月の初めてのデートでも指定された、東京テレポート駅だった。あの日朝からテロに遭遇し、その避難の最中に初めて流雫と澪が顔を合わせた商業施設、アフロディーテキャッスルの最寄り駅だ。その時は事件の影響で閉鎖されたが、改めて行くことに決まった。

 1ヶ月半ぶり2度目の臨海副都心だが、やはり人は多い。その人混みに、軽くうんざりするが、連休だから仕方ない。

 東京テレポート駅は、あの日のように……否、あの日以上に行楽客で賑わっていた。特にアフロディーテキャッスルは、この大型連休に照準を合わせたアウトレットセールの真っ最中らしく、その効果も有るのだろう。それに天気もよく暖かい。行楽日和とはまさにこのことか。

 「流雫!」

改札を通ったばかりの少年の名を呼び、ダークブラウンのセミロングヘアをなびかせて前から近寄ってくる少女がいた。ネイビーのデニムジャケットがアクセントだ。

「今日、多いね」

「連休と云っても、こんなにいるんだ……」

澪の言葉に流雫は答える。ただ、セールと云う平和な戦争が繰り広げられている戦場に、今から行くのだ。周囲の連中も、同じように思っているだろう。

 2人は早速、人の流れに沿ってアフロディーテキャッスルへと向かった。


 モーターショールームのテラウェブは、先日の事件で銃撃を受けて多数の犠牲者を出したが、銃撃を受けた展示車は流石に入れ替えられたが、それ以外は何事も無かったように修復されていた。

 そのテラウェブとペデストリアンデッキを挟み反対に建つ、商業施設としての建物……アフロディーテキャッスルの中核は、意外と被害は小さく、数日後には営業を再開していた。そして、その両方がカップルやファミリーで溢れている。

 その建物は、中が多少入り組んだ回遊型の構造だが、フロアガイドを見ながらでなければ迷子になりそうに思う。尤も、それもデベロッパーの思惑通りなのだろうが。

 2人はそのエントランスから入る。一度周囲を見回した流雫は

 「こんな風になってるんだ……」

と言った。その隣で澪は

「思ったより入り組んでるのね。ここで脱出ゲームなんか、面白そうじゃない?」

と言い、同じように左右を見回す。確かに面白そうではあるが、この前のような事態に陥った時に逃げにくいと云う欠点を抱えている。ただ、言えばキリが無い。

 特に欲しい物は無いが、見て回るだけで面白い。ただ人混みが凄く、最上階のアウトレットフロアだけを見て一度出た。熱気からの解放は、少し汗ばむほどの陽気でも逆に涼しく思える。

 2人の目に止まったのは、トーキョーホイールだった。直径100メートル超、日本一の高さを誇る大観覧車で、一度乗るのも悪くは無い。

 8組分待った末、偶然ながらシースルーゴンドラが来た。ゴンドラの床面以外が頑丈な透明のボディになっていて、高所恐怖症には絶対勧められない。

 外からドアを閉められ、鍵を掛けられると16分間、狭いゴンドラに2人きりになる。床がシースルーでないのは、澪にとっては幸いだった。高所恐怖症ではないのだが、真下は流石に怖いらしい。流雫は特に怖いとは思っていないが、何度も飛行機に乗っているからだろうか。

「こんな感じなんだ……」

流雫は左右を見回しながら言う。まだ2割も進んでいない。

「あたしも、初めて乗った……」

澪は言いながら左右に目を向け、続けた。

「……もっと色んなとこ、行きたいね」

「えっ?」

流雫が声を上げると、澪は彼の顔を見ながら言った。

「毎週でも会いたい、そう思う時も有るけど、近いワケじゃないから。それなら一緒の時ぐらい、色んな場所に行って、色んなものを見たいの」

「……僕も、同じことは思ってた」

と流雫は言い、続けた。

「学校の同級生とは遊ぶような関係でもないし、ほぼ1人だし。それはそれで寂しいなんて感じたりはしないけど、澪とだけは別かな」

その言葉に、澪は微笑む。

 ただ、それでも澪は気になっていた。4月のあの日、渋谷の慰霊碑の前で、彼が何を思っていたのか。流雫が美桜に何を思っているのか、いくら恋人と云えどそこに言及するのは、何か違う気がしていた。


 正直、流雫は吹っ切れていたワケではなかった。

 同級生は、流雫とは距離を置いている。それは、欅平美桜と云う女子生徒がいない事実を前に、元々交遊が無かったことが更に激しくなっただけだ。そして流雫も、同級生との距離は置きたかった。

 2月、ホールセールストアでの事件の直後に学校で開かれた特別教育は、護身のためとは云え銃で人を撃つことは本来、倫理面においても好ましくないことを伝えるためのものだった。

 しかし、彼は痛感していた。そうしなければ、自分が殺されていたこと。引き金を引かなければ、今こうして生きていないこと。そして、そう云う経験しなくてもよいハズのことを、この3ヶ月足らずのうちに3回も経験していること。

 ……自分を護るためには、それ以外に方法は無かった。しかし、それは何よりの皮肉でしかなかった。

 新学期を迎えても同級生のシャッフルは無かったが、流雫はそれから更に話さなくなった。


 流雫は必死なのだ、と澪は思った。好きだった人をテロで失い、自分も何度も遭遇した。そして、生き延びるために銃を撃った。その重みや痛みは、誰よりも知っている。常に突き刺さっている。そして、テロを恨み、自分を護る銃を憎しみながら、テロに怯えている。

 相反するものが螺旋状に絡む中で、流雫は藻掻いていた。

「あたしは、ルナの味方だから」

「あたし、流雫の力になりたい」

と澪は流雫に言った。最初はメッセンジャーアプリで文字越しに、次は自分の声で。

 しかし、その柵を解く手を差し伸べても、彼には届かない。そのもどかしさに、澪は自分の無力を嘆いていた。


 観覧車が頂点に差し掛かろうとした頃、流雫は言った。

「……澪がいて、だから寂しくないし、何時も救われてる」

その言葉に偽りは無かったが、しかし流雫は吹っ切れているようで吹っ切れていないことを、何度も思い知らされる。

 ……美桜を忘れられない。未練云々の以前に、人を失う経験そのものが親族を含めても初めてで、しかも病室のベッドの上のような、それなりの別れの場での話なら、恐らくこう云うことにはならなかった。

 室堂澪と云う彼女がいながら、美桜を忘れられないのは、或る意味最低だと言われても返す言葉は無い。ただ、忘れるワケにはいかなかった。思いつく限りで最悪の別れ方だっただけに、人を失うと云う怖さを思い知らされた。

 そして、皮肉にもそれが、流雫の原動力になっている。もう、あんな経験は二度とイヤだった。自分が経験するのも、澪に経験させるのも。

「……だから、この景色も覚えていたい。澪と見た景色、全て」

流雫は言う。澪は微笑んだ。

 2人の目には、東京湾の奥に見える東京中央国際空港から飛び立つ飛行機や高層ビルが犇めく都心が一望できる。4月に2人が一線を越えたシブヤソラより低いものの、海に面したこの景色は新鮮だった。


 トーキョーホイールを降りると、ランチタイムを迎えつつあった。2人はオムライスで有名な店に入る。思えば、2人で会った時に軽食しかしていなかった。初めての、しっかりしたランチだ。

「流雫の町、今度行ってみたい」

料理を待つ間、澪は切り出した。

「いいけど、東京みたいに面白そうなところは見当たらないよ?」

「河月だっけ?湖が綺麗、とは聞くけど。ただ、今まで東京でしか会ってないじゃない?だから、行ってみたいの」

澪は言う。

 正直、一度は空港からの寄り道だったが、今日も含めて2回はわざわざ2時間近く列車に揺られて来ている。毎回東京と云うのも、流雫は気にしないだろうが澪は流石に気にする。

「まあ、湖が有るから何も無いワケではないけど……。それで、何時ぐらいに?」

「流雫は、河月でなら何時でもよかったっけ?」

「まあ、融通は利くよ」

流雫は答える。どうしても、ペンションとの兼ね合いを気にするのだ。

「明後日は?急過ぎるかな?」

「明後日は……いいよ」

流雫はスマートフォンのカレンダーアプリを開き、空白なのを見て答えながら、今決まったばかりの予定を入力する。

 美桜以上に、澪は主導権を握っているように感じる。しかし、流雫はこう云う「人と会う」ことに関しては、特に話を切り出す点で多少及び腰になっている。

 澪がリードすれば流雫はついてくる。他人任せにしたいワケではないのだが、色々思うあまり時間が掛かる。こう云うところだけ、優柔不断なのだ。

「じゃあ、明後日ね」

澪は言い、小さな手帳を開いてシャープペンで書いていく。その様子を、流雫は微笑みながら見つめていた。


 午後は、アウトレットより下のフロアに行く。1Fからは円形の小さな屋外広場に出ることができる。

 あの日、最初に銃声が鳴り響いた辺りか。そこでも、ダイバーシティ関連のイベントが開かれていた。そこでは、特にアジアの現状とダイバーシティを軸としたSDGs……持続可能な開発目標に関するパネル展示やトークライブが開かれていた。

 ……ふと、2人は出逢ったあの日のことを思い出した。

 銃声が聞こえ、駅で澪を待っていた流雫は、直前に遠くに見えた人影を追って、逃げ惑う群衆に正対して「飛び込んで」いった。

 澪は、この広場のほぼ真上に架かるペデストリアンデッキを歩いていて、銃声を聞いてテラウェブへ隠れた。そして、根拠は無いが澪だと思った人影を追ってきた流雫と、ガラス越しに目が合った。

 澪は、駅の改札前で

「ルナ……?……はじめましてっ!」

と微笑みながら言いたかった。しかし、それは銃声で霧散した。まさか、武装集団から隠れている最中に初対面を迎えるとは。

 澪はそれがきっかけで沸き上がってきた怒りの矛先を、やがて2人を追ってきた連中に向けた。流雫にとっても……そして追ってきた武装集団にとっても全くの予想外だった。

 連中に振り向き、怒鳴った。ほんの数十秒の出来事に全員が「飲まれ」、結果的には連中の足を止め、事件の収束につながった。澪にはただ驚くばかりだった。

 「流雫の方が、こう云うの詳しそう。あたしは日本から出たことが無いもの。だから正直、こう言われてもあまり判らなくて」

澪は言う。

 確かに、日本にいるとSDGsで掲げられた項目、その一部は日本の「悪しき風習」に真っ向から異を唱えるものだ。そう解釈する連中が現れても、何ら不思議ではない。

「どうだろうね。正直、僕もよく判っていないんだ」

流雫は答え、続けた。

「ただ、そのうち判ってくるようになると思う。今全て知れ、実践しろ……なんて方が、難しいと思うし」

 ……そのイベントに興味を示すのは、4割ぐらいだったろうか。東京オリンピックを控えた頃から、SDGsと云う単語が出回るようになり、あちこちでドーナツ状のマークを見掛けるようになった。

 それでも、気になるのはこのイベントを狙った理由だ。不思議なことに、犯行声明はあれから1ヶ月以上経つのに、何処からも何も出ていない。それだけでなく、去年から日本で起きたテロの全てで。

 「……次、何処行く?」

澪は問う。

 このイベントは、2人が「普通」ならよかった。しかし2人には、イベントそのものに罪は無いが、そう云う因縁が有るだけに、長居するようなものではないと思えた。そもそも、今も偶然通り掛かっただけだ。

 2人が帰ろうとすると、記念にSDGsのマークが印刷されたウェットティッシュを渡された。鞄に入れながら、2人はアフロディーテキャッスルを後にした。


 2人は、この前のルートをトレースするように、海浜公園側に出た。海に面して、商業施設が3棟並んでいる。建物の中から相互に往来できるのだが、2人はその外のデッキを歩いていた。

「昼の景色も好きだな」

流雫は言う。対岸の景色は、3月に夜景として見た。綺麗で好きだった景色の昼間の顔は、ライトアップも何も無い分味気ないが、それはそれで悪くはない。

 「それって、あたしといるからじゃないの?」

澪はふと、戯けてみせる。それに対して

「当然」

と、はにかむ様子も見せず、流雫は答える。

 その寸分のブレも無いストレートな答えに、澪の方が逆に頬を赤く染める。一瞬身体が熱くなったのは、高めの気温が原因ではなかった。

 そう、流雫は時折こう云うことを平気でする。その分、人に対する表裏が少ないと云うことになるのだが。

「……バカ」

澪は軽く不貞腐れて言った。完璧なほどの返り討ちに、為す術が無い。

 しかし、澪も同じだった。流雫が隣にいる、だからこの休日が何より楽しい。それに、2日後はまた、今度は流雫の地元で会える。それも楽しみだった。


 今日は日没を目処に別れることになっていた。流雫も満室のペンションのことが……親戚の意に反するが……気になるし、澪も澪で夜は家族と以前から立てていた予定が有る。

 それでも、逆にちょうどよいぐらいの長さだった。一緒に乗った列車で、2日後の約束をもう一度交わすと、各々の帰路に就く。

 その直前、東京テレポート駅前のロータリーには、憲法記念日だからか厳つい名前の政治団  体の街宣車が止まっていて、その前で何か演説をしていた。その周囲を、ヤジをひたすら飛ばす集団が囲んでいた。恐らくは左派集団のカウンターか。

 世は連休だと云うのに、いや連休だからこそだろう、多くの通行人に向けてそれぞれのイデオロギーを唱えること自体、言論の自由が与えられている以上はとやかく言う筋合いは無いが、一触即発の事態なのは見ていて判った。駆り出された警察が監視するのを尻目に、2人は改札へ向かって行った。

 これが、やがてあの事件の引き金になるとは、誰も思っていなかった。


 2日後、澪は都心を離れる快速列車のロングシートで微睡んでいた。郊外へ向かう列車は立っている人も少なくないが、座れたのは幸いだった。

 前日、何故か寝付きが悪かった。遠足前日の小学生に似た現象か。尤も、県外へ1人で列車に乗って行くのは、或る意味遠足で間違いなかったが。

 都心からは、特急でなければ2時間近く掛かると乗換アプリでは出た。そして、既に1時間が経った。後1時間ほど……こんな遠いところから来ているのか、と思うと、澪は流雫に頭が上がらなくなる。

 やがて、終点に着くと云う車内放送が流れた。終点と聞いて、澪は乗り過ごしたかと一瞬思ったが、思えばこの列車は河月止まりだった。一瞬だけ焦り、落ち着きを取り戻した澪は首を窓に向けた。


 澪が乗っているハズの列車に合わせて、流雫はペンションを出た。バスは少し遅れたが、それでも河月駅に着いた時点で10分近く有る。

 西関東の保養地として知られる河月は、この大型連休もそこそこ多く、甲府や長野に向かう特急から行楽客が続々と降りては、河月湖行きのバスに乗り換える。その様子を見ながら、流雫は改札近くの柱にもたれ、胸を抱えるような腕の組み方で列車が着くのを待っていた。

 澪が来るのは嬉しいが、しかし流雫にとって河月と云う町は自然しかめぼしいものが無く、その意味では東京には敵わない。それでも、澪のような都会の人にとっては雑踏を忘れられるとして人気なのだから、住む場所が変われば憧れるものも変わるのか、と思う。

 簡単なランチ代わりに、ペンションを出る前にガレットを焼き、ラップに包んで持ってきていた。澪が一度口にしたいと言っていたのを朝になって思い出したのだ。

 定番のコンプレットをベースにしたが、持ち歩くために手に持ったままで味わえるようにと長方形にし、玉子も黄身が崩れて流れ出さないようにしっかりと火を通して固めてある。

 暖かくなってくると食中毒が怖い。だが、ここまでやっていれば問題無いだろう。

 それと一緒に、流雫は銃も相変わらずバッグに忍ばせてある。思えば、最初に遭遇した2回の事件は、いずれも河月市内での出来事だ。教会も他の街にだって有るだろうに、ホールセールストアも他にも有るだろうに、何故河月で発生したのか。

 それは判らないが、地方都市と云えど油断はできない。その意味では、あの日本から帰国した日は丸腰だったが、本当に運がよかったのだと、彼は改めて思った。

 やがて、改札の奥に階段を下りてくる少女が見えた。ダークブラウンのセミロングヘアに、デニムジャケットを羽織っている。

「流雫っ!」

改札を通った澪は、流雫より早くその名を呼ぶ。

「こんなに遠いとこまで、よく来たね」

「こんなに遠いのに、あたしに会うのに東京まで出て来る流雫もすごいわ」

と澪は感心した。

 交通費だけでもバカにならないし、帰りの列車の時間も計算する必要が有る。それでも、東京に澪と会うのに行く流雫には、澪はやはり頭が上がらない。

 「……さて、何処に行こう?この周囲にめぼしいものは無いけど」

「湖が有るんでしょ?一度行ってみたいな」

澪は言う。前から、河月の話をする度に湖に行ってみたいと言っていたから、或る意味予想通りだった。

 湖畔のビジターセンター行きのバスは、自分が住むペンションまで帰る時に使うバスで、ただ澪を迎えるために1往復するだけの形になる。別にそれでも、流雫にとってはよかった。2人でいられるなら、それだけで何だって何処だって楽しいハズだから。

 その時だった。

「我々は、この日本を日本人の日本人による日本人のための国にしたい。日本人であることに誇りを持てる国にするのが我々の責務なのだ!」

駅前のロータリーに止まっていた街宣車から、スピーカーで増幅された大きな声が響く。

 「……またかよ」

流雫は舌打ちした。声と言い方で、それが誰だか判る。伊万里雅治だ。河月で遭遇するのは2回目だ。

「僕のストーカーか……?」

流雫は冗談混じりに言うが、冗談でなければ困る。ただ、デートの出端を挫かれた感は否めない。あのアフロディーテキャッスルの再来のようだ。

 ちょうどその時、助け船のように目的のバスが来た。2人はそれに乗り、一番後ろの座席に並んで座る。30人ほどの乗客を乗せて、バスはドアを閉めて走り出す。ディーゼルエンジンが唸る音に掻き消されながらも、伊万里の声は河月駅一帯に響いていた。

 「……悪い」

流雫は言った。

「流雫は何も悪くないよ。ただ、こんな時に限って……」

そう言った澪も、流雫と思っていることは同じだった。……しかし、今はそう云う雰囲気になっている場合じゃない。

 流雫は話題を変えようとした。

 「……河月湖って、先刻のことすら忘れられるよ。……今日は特に」

「今日は特に……それって、あたしといるから?」

澪は戯けてみせる。……その答えは判りきっていた。

「だって、澪といるのが楽しくて」

流雫は、またしても隠すことなく微笑んだ。

 その表情も判ってはいたが、澪はやはり頬を紅くした。やはり、流雫には敵わないのか。ただ、その表情とその言葉に撃沈したかったから、本望だったが。

 澪は彼から目を逸らし、初めての車窓を見つめた。

 バスは住宅地を経由して、30分ほど終点、河月湖バス停に着く。2人は最後に降りた。

 河月湖の中心になるのはビジターセンターと呼ばれる、道の駅を併設した建物。河月湖の淡水魚と地元の野菜を使ったレストランが人気で、朝から客も多い。バスが着いた頃には、既に駐車場がほぼ満車だった。

 湖畔は遊歩道やサイクリングロードが整備されている。人混みを避けて、2人はその遊歩道から小さめの公園まで向かうことにした。歩いて20分ほどで着く。

 5月の大型連休は、何時しかトレンドが安近短になった。安上がりで、比較的近場で、短期間で。暦通りの勤務カレンダーで働いている人にとっては、休日が飛び石となるためこの方が好都合だ。そして、関東の保養地として河月は高コスパだと言われている。

 「この近くに住んでるんでしょ?流雫が少し羨ましいな」

澪は言う。

 目の前の景色は、前に写真で見たことが有るだけで、実際に見るのは初めてだった。こう云う景色は都心には無いから、歩いているだけで落ち着く。

「そう?」

「確かに東京は便利だけどね、でも時々、雑踏から逃れたいと思う時も有るの」

澪が言うと、流雫がそれに続く。

「僕は、小学校の頃からこの町で、親戚と暮らしていて、だから都会に憧れる。……でも、澪といられるなら何処でもいいけどね」

その言葉も、わざと気取った言葉を使う気は微塵も見せず、自然に出してくる。澪は判ってはいるが、何時も不意打ちにやられる。

 「ガレット、焼いてきたよ」

彼は話を変えるように、そう言ってショルダーバッグに手を入れ、ラップに包んだガレットを差し出す。

「ペンションで出してるのとは、少し違うけどね」

 持ち運ぶことを前提に、市販の一口クレープのように中身を蕎麦粉の生地で包んである。本当なら、コンプレットを目の前で焼いて振る舞いたいが、その時はペンションに招待することになるだろうか。それはそれで、宿泊客の目を盗まないと、何かと面倒そうではあるが。

 澪は軽く一礼して、生地に歯を立てる。……無言の澪の口に、蕎麦粉の香りが舞う。そして固く焼いた玉子も味わい深く、澪は

「これ……好きになりそう……好き……」

と無意識に口にする。流雫は安堵の溜め息をついた。自分の腹を満たすためだけなら雑でも十分だが、他人に振る舞うとなるとどうしても反応が気になる。

「また焼いてきてほしいな」

「澪が言うなら、飽きるほど持ってくるよ」

流雫は言い、自分の分を頬張る。……包み方に迷ったし、そもそも普段とは違う出来になったが、それでも十分合格点だと思っていた。


 公園では、家族連れが小さなテントを張って過ごしていた。親子でボール遊びに興じているのを見掛ける。流雫と澪は、ベンチに座ってのんびりと過ごしていた。特に何をするでもなく、東京でデートしていた時とは正反対の時間の使い方をしている。しかし、それでも楽しい。何より、互いにただ隣にいるだけで安心する。2ヶ月前は、こうして一緒に過ごすことなど想像もできなかったが。

 「何か、癒やされるわ……」

澪は思わず声に出す。喧噪から離れただけでなく、銃の存在を忘れて過ごせる。一言で言えば、無防備でいられる。

 澪は銃を持っているし、アフロディーテキャッスルで一度だけ出した。しかし、未だ引き金を引いたことは無い。それは幸いなことではあるが、しかし今はその銃が無くても、身を案じる必要は無い。そう、澪が今まで遭遇したテロは、悪い夢を見ていたかのようにすら思える。

「流雫といっしょに、こんな湖畔で1日をゆっくり過ごせるなんて」

澪は微笑んだ。流雫は

「澪が満足してるなら、何よりかな」

と答える。

 流雫自身、この自分の庭と云っても差し支え無さそうな観光地がデートに使えるとは思っていなかった。……もし美桜が生きていれば、地元同士ながら何時かはここに来ただろうか。流雫はふと思ったが、今は澪だけを見なければと、一度目を閉じた。


 2人は歩いてビジターセンターに戻る。併設するレストランや道の駅は昼過ぎでも混んでいた。ビジターセンター本館はこの河月湖にまつわる学習を兼ねた観光案内所として兼ねている。流雫も、鐘釣夫妻のペンションを手伝っている少年として、多少なり顔は知られている。ペンションの名前の由来はフランスの地名で、其処にいる少年は日本人らしくない見た目。その意味でも目立つ。

 そのセンターの内部も少し見て回ると、夕方にはなっていないがそろそろ市の中心部へ戻ってもよいぐらいの時間になった。2人は始発のバス停に並び、朝と同じように一番後ろの座席に並んで座った。


 満員のバスが河月駅に着くと、2人は最後に降りる。それと入れ替わりに、十数人の乗客が乗っていく。

 駅ビルは、連休だからか普段よりも更に混んでいる。アパレルの紙袋を持って歩く人も多い。その雑踏に混じり、駅前のロータリーではまたしても、右翼団体と左翼集団が一触即発の様相を呈していた。スピーチに対するヤジとカウンタースピーチで、最早誰が何を言っているのかも判らない。警察官が互いを監視しているが、幸い衝突寸前で踏み留まっている。

 大型連休ぐらい、静かにならないものか。流雫はそう願うが、思えばこの大型連休後半は憲法記念日から始まる。その日に……一昨日の臨海副都心がそうだった……右翼団体の街宣が活発になるのは合点がいくし、今に始まったことではない。そして近年では、その前後も含めて街宣が活発になっている。その論点は、難民とその支援団体の仕業とされるテロ事件に対するものだ。

 しかし、トーキョーアタックから地下鉄爆弾テロ事件……国会議事堂での暗殺事件の前哨戦だと澪は思っているが……に至るまで、流雫と澪が遭遇したテロの全てで、犯行声明が全く出されていない。それが今でも引っ掛かる。

「……相変わらず、よくやるよ」

流雫は呟く。折角のデートに泥を塗られた感じが拭えず、悪態の一つでもつかなければ気が済まない。

「何処に行く?」

流雫は問う。澪は、少し早いがディナーにしたいと思った。未だ帰りの電車まではかなり時間が有る。


 入った店は、駅ビル最上階の小さなレストランだった。河月湖で獲れた淡水魚と周辺で栽培された野菜を使った料理が出てくる。比較的手軽な値段で、美味い魚が味わえるのだ。

 レストランでも2人は、他愛ない話で盛り上がった。今日も一昨日も会っているし、それでなくてもほぼ毎日メッセンジャーアプリで遣り取りしているだけに、端から見れば常に話題は涸れているように見える。しかし、話題が何かは2人にとってはどうでもよく、ただ話していること、会っていることに意味を見出していた。

 ……この店に2時間近くいたらしい。既に一触即発の街宣は終わっていたらしく、窓から見える駅前は暗くなって街灯が灯り、そして平和を取り戻している。2人は会計を済ませて出ると、改札へ向かう。

 次会う約束はしていない。しかし、数日もすれば次の予定の話になるだろう。面倒なことに、中間試験や期末試験が有る。その前を避ける必要が有るだけに、早くても月末か、6月以降だろうと思っていた。尤も、メッセンジャーアプリが有るから寂しくは無いが。

「じゃあ、帰らなきゃ」

「気を付けろよ?」

流雫は微笑む。

「うん!」

澪は彼よりも微笑みながら、改札を通ると一度振り返り、流雫に向かって手を振った。流雫は手を上げてそれに応える。彼は澪が階段に消えていくまで、その背中を見つめていると、ふと寂しさを抱える。


 メッセンジャーアプリでつながっているから寂しくない。……半分正しく、半分嘘だ。

 ……澪がいないとダメだ。流雫は今まで、何度もそう思った。そして、今も思っている。時々、彼女の愛が重いと思ったりする。しかし、本当に……病んでいるほどに重いのは自分ではないのか。尤も、澪に話したところで何と返ってくるか、容易に想像できたが。


 帰り、澪は新宿で埼玉方面に乗り換える。それまで、彼女は今日撮った写真を数枚見返していた。……流雫に依存しているのが、自分でもよく判る。

 ……知り合った時から今までを思い返しても、2人は異常だったと澪は思った。ネットで知り合い、初めて顔を合わせた日はテロに遭遇し、死と隣り合わせの最中に初めて互いの顔を知った。そして2人が初めて一緒にしたことが、武装集団から逃げ切ること……。これが異常でなければ何が異常なのか。

「異常な出逢いをした2人は長続きしない」

昔澪がネット配信で父と見た映画で、そう云う台詞が有った。

 しかし、澪は流雫と異常な出逢いをして、複雑な思いを重ね、そして彼を求めた。あの渋谷の展望台で、肌寒い夜に重ねた手のほのかな熱は、今でも思い出せる。

 依存でも構わない。流雫が澪を好きでいることが嬉しく、澪は流雫を好きでいることが誇らしく思える。

 スマートフォンを鞄に仕舞い、数分だけ目を閉じると、新宿に着くアナウンスが流れた。この余韻に浸っていたいのに、と思いながら澪は列車を降りる準備を始めた。

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