1-9 Night Rainbow
2人揃って警察車両に乗せられ、少しだけ離れた臨海署で下ろされたのは、東京テレポート駅まで逃げ延びて数分後、流雫が泣き止んだ頃だった。それでも、未だ午前中だ。
「またか……」
流雫は呟く。
事態が事態だけに、これだけで1日が終わることは覚悟していた。澪と何も話していないのに、1日が終わろうとする。ツイていない……にも限度が有る。
取調室が空いていないため、2人は応接室に通される。そして、流雫にとって4回目の事情聴取が始まった。果たして、今度は何時間続くのか。
銃を使ったことで、流雫から話が始まった。彼は頻りに、隣にいるミオが無事であることを意識していた。その少女は少女で、1日ルナと遊ぶことを台無しにされたことへの、犯人グループに対する怒りを露わにしつつも、自分と……何よりルナが無事であることに安堵していた。
「……災難だったな」
インクが残り少ないボールペンで調書を書いていく若い刑事の後ろから、低めの声で言いながら入ってくる男が見える。ミオはそれに誰よりも早く反応した。ミオの父、室堂常願だった。
「……今日、非番だったんじゃ……」
「今し方、応援要請の電話が入ってな。……警察とはそう云うものだ」
常願は言った。確かに、トーキョーアタックの時もそうだった。
そして中年刑事は調書を書いていた刑事に言う。
「……ちょっと借りるぞ」
「手短にお願いしますよ」
若い刑事が言うと、常願はミオを休憩室に連れ出した。
最上階の休憩室は、自販機が数台壁沿いに並んでいる。飲料だけでなく、宿直に対応してかポットや電子レンジも完備している。その喫食もできるよう、椅子とテーブルが50人分、所狭しと並ぶが、全体的に殺風景な空間だ。
アフロディーテキャッスルの件で、未だ慌ただしさが残るオフィスとは対照的に、休憩室には誰もいない。窓からは、先刻まで澪がいたアフロディーテキャッスルの大観覧車が見える。
左端のベンダーから、紙コップにコーヒーが注がれる音がする。電子音の後に、大きな手がプラスチックのドアを開けて紙コップを取り出し、端の椅子に座っていた澪に渡す。小さく礼を言った澪は、ミルク多めのコーヒーを一口だけ飲み、溜め息をついて切り出した。
「……何か、こんなこと初めてで……」
「日本の安全神話は、最早何処にも存在しない。それは重々判っている。だが、見たところ怪我は無いようだが、娘まで遭遇したとなると、流石に黙っているワケにはいかん」
そう言った父に澪は
「怪我は無いわ。でも、銃で人を撃つところ……そして撃たれるところ……初めて見た」
と言い、紙コップを両手で挟みながら、一息ついて続ける。
「……怖い、それ以前に何が起きているのか判らない。……そう云う感じだった。音だけ聞こえてきたけど、あっけなく撃たれる人もいたりして、何故撃たれるのかも判らないまま死ぬなんて……。……何故あんなところで……」
「それが判れば苦労しない。……それはあまりに乱暴だが、俺だって知りたい。ただ、被疑者は全員死亡だがな」
と言った常願は、一息に濃いめのブラックコーヒーを半分ほど飲み、窓の外に目を向けて続けた。
「宗教、領土、難民……様々な理由で、世界中で争いが起きている。政治思想の違いが混乱を引き起こすことだって、珍しくはない。……昨年の日本がいい例だ」
「かつて、一人の生命は地球より重い、と言った日本の首相がいた。バングラデシュで起きた、ハイジャックの時か。俺が生まれる前の話だったが。当初は、各国から非難囂々だったらしい、日本はテロまで輸出するのか、と。尤もそれは、日本に限った話ではなかったが」
「……だが、あれから半世紀近く経つ今こそ、今一度改めてその意味に向き合うべきなのだろうな。尤も、それが難しいのは十分過ぎるほど思い知らされたが」
一通り常願は語り、残りのコーヒーを飲み干した。澪は、目の前の父を時々気難しいと思いながらも尊敬していた。
地下鉄サリン事件の速報を学校のテレビで見た29年前の今日、警察に入ることを決めた常願にとって、テロは何より撲滅したい犯罪だった。
「駅の広告で少しだけ見たの。今日、ダイバーシティにまつわるイベントだったって。でも、もしそれに反する思想が、今日の事件の引き金だとすると……」
「……自分のポジションがノイジーマイノリティなら、サイレントマジョリティに刺さるだけのメッセージを持って挑まないと、何も始まらない。それはあたしにも判るわ。でも、……でもその手段が武装とテロだなんて間違ってる!」
そう言った澪は、怒りと悲しみを交えた感情を露わにした。
思わずヒートアップした澪の耳には、銃声と悲鳴が残っていた。今でも、簡単に思い出せる。その娘に、父はあくまでも冷静に語る。
「それでしか、マイノリティの叫びを知らしめることができない。……だからと云って、微塵も褒められたものではないがな。如何せん、日本は、システミックレイシズムが多すぎる。システムとして、ヘイトやレイシズムが組み込まれ……いや、刷り込まれているんだ。そう云うものが遠因だとしても、何ら不思議じゃない」
常願は続け、眉間に皺を寄せる澪に体を向ける。その顔を険しい目で見つめながら、少女は言った。
「……あたしも、今の日本で起きているテロの根幹に何が潜んでいるのか、ニュースで見る限りしか判らない。……でも、武装した集団に、何もしていないのに殺されるのは、理不尽でしかないと思うの。……もし、この引き金を引かないといけないのなら、あたしは迷わない」
澪はテーブルに置いた鞄を軽く叩く。中に、ルナの活躍で今回は使わなくて済んだ自分の銃を隠している。
……端から見れば、近寄り難い話をしている室堂家の父娘。2人揃って、険しい表情を浮かべていた。
澪が気になるのは、何故メッセージの手段がテロでなければならないのか、だった。一部の有識者に言わせれば、明確な答えの一つでも出るのだろうか。ただ、こんなところでいくら語ったところで、答えなど出るハズもないが、この社会は今あまりにも暗すぎる。重すぎる。
普段通りの生活を送りながら、しかし常に爆発と銃声に怯えて生きている。1日の終わりに、今日も死ななかったことを幸福に感じ、また明日もこうして1日の終わりを迎えられることを願いながら、数時間の眠りに就く。
かつて、水と安全はタダ、とまで言われてきた。その日本の安全神話は、四半世紀以上前と違って最早何処にも存在しない。……いや、何もなさ過ぎたことで、誰もが安全神話と云う幻を見ていただけなのかもしれない。
熱かったハズのコーヒーは、人肌程度まで冷めていた。半分以上残っていたか。澪は飲み干し、軽い溜め息をついた。
「……ところで」
父、常願は話題を変えた。
「この後はどうする?もう帰るのか?」
「どうしよう、かな……」
澪は答えた。
時間も気になるが、ルナがどうなのかが全てだった。事態が事態だけに、彼が帰ると言い出しても引き留めることはできない。
「今聴取を受けているのは、誰だ?知り合いなのか?」
「ちょっとしたことで知り合って、メッセンジャーで遣り取りしてるうちに、会ってみようって話になって」
澪は少し、はにかみながら言う。
同級生との交遊は悪くないが、異性との交遊は皆無だ。それだけに、ルナは或る意味特別だ。とは云え、未だ普通にリアルで話したことは無いが。
「そうか……。……あまり遅くなると年齢的に色々厄介だからな、それだけは気を付けろ」
「……うん」
澪は頷いた。やがて、父を経由してこれから澪の番だと告げられると、2人で休憩室を後にした。
澪の事情聴取は、ルナのそれとは異なり、最初の銃声の瞬間からアフロデイーテキャッスルにいたことで、それからテラウェブに身を潜めている間、どんなことが起きていたかの話が焦点になっていた。
しかし、それでも比較的早かったのは、やはり銃を撃っていないことが大きい。あの時、流雫が撃った2発で2人の命運が決まった。だから、撃つ必要が無かったのだ。
そして、同時にそれはルナの銃撃が正当防衛であることを決定付ける証言となった。
「災難だったね」
と、引き続き調書を書いていた父の後輩が労ってみせたが、労いにならない。
その隣には、ルナがじっと座っていた。澪が先刻の件の有力証言者として語るのを、半ば上の空で聞いていた。今でも、彼の手には先刻の感覚が鮮明に残っている。
相手の人体に銃身を押し当てたが、それがホールセールストアの時のように太腿ではなく股間だったのは、精巣と呼ばれる睾丸を本能的に狙っただけだからだ。
股間に物が当たった時に、呻き声さえ出ないほどの激痛に見舞われるのは、流れてきた血液の圧力で勃起や収縮をする海綿体ではなく、睾丸に直撃した場合だ。死んだ方がマシだとすら思えるほどの、強い吐き気を伴う苦悶は、実際に経過した時間の何倍も続くと感じられる。
そのことを、同じ男として痛いほどよく判っている。だから、咄嗟に狙った。しかし、実際にボールが当たっても悶絶するのに銃弾を受けると、どんな感じなのか……。否、そもそもそれで済むのか。想像するだけで性器が痛くなってくる。
ただ、それで澪が引き金を引かなくて済んだことは、せめてもの救いだった。
2人が応接室を出ると、腕時計は14時半を示していた。3時間以上いたことになるが、警察にとっては事態の全容把握に向けて有力な資料になるらしい。それなら、遊びたい時間を潰されたことへの慰めには多少は成り得る。
臨海署の入口の前に、人集りができている。大きなカメラも見えた。
「ちっ……」
応接室からエスコートしてきた若い刑事は、露骨に敵意を剥き出しにし、舌打ちした。
連中は、東京テレポート駅前で保護された2人のインタビューにこぎつけたいのだろう。そして、翌朝のワイドショーなんかで流すハズだ。
恐らく、あのヤジ馬たちがエレベーターから銃を持って逃げてくるのを見た、自分のスマートフォンに動画が残っているだのと、情報提供をしたのだろうか。
「仕方ない……」
と呟いた刑事は、一度エレベーターホールまで2人を戻して一旦裏の通用口から外に出た。近くの黒いセダンを乗り付け通用口に乗り付けると2人を迎えに行き、後部座席のドアを開けた。窓はスモークガラスだが、膝に顔を押し当てるように丸まって、横顔を腕で隠すよう指示された。
報道機関は、報道の自由や知る権利を盾に、我が物顔で他人のプライバシーを踏み躙る、デリカシーの微塵も無い連中……そう認識する警察関係者も多く、室堂常願もその一人だった。特に、トーキョーアタックの時に渋谷の現場では、巨大スクープのために暴走した報道記者が一悶着起こした。結果、その記者は世論の非難を浴びて懲戒解雇処分となったが、それ以来警察も対報道では一層神経質になっていた。
通用口から正門に回った黒い車を取り囲もうとする群れに、刑事はクラクションを鳴らし続けた。それに負けじと
「あの時何が!」
「2人はどういう!」
と問い質そうとする声が相次ぐ。
やがて入口で、本来は遺失物の連絡などを受け付けている警察官も出てきて、揉み合いになりながら車が通れるだけの幅を辛うじて確保された。刑事はナビシート側のサンバイザーを下ろし、中に仕組まれたLEDの赤色ライトを光らせ、サイレンを鳴らし、更にはクラクションを鳴らして威嚇しながら、ネット上でハイエナと揶揄される集団を振り切った。
「もう安心だ」
その刑事の声に、流雫と澪は恐る恐る顔を上げる。
「五月蠅い……」
ナビシートの後ろで流雫は苛立ちを露わにしながら呟く。その反対側に座る澪も、声にこそ出さなかったが、その表情は険しい。
やがて、2人が警察に保護された場所……東京テレポート駅前のロータリーに、黒いセダンが乗り付けられた。刑事は、運転席から外を見渡し、報道の連中は見えないことを確認し、外から後部座席のドアを開けた。
バイクで追い掛けようとするパパラッチ対策として、台場から有明に掛けて、8の字状に1周したほどだった。どれほど、警察がマスメディアを信じていないかよく判る一幕だった。
2人は刑事に駅まで送り届けられた礼を言い、その車がロータリーを出ていくのを見送った。
……あの一件で、アフロディーテキャッスルはテラウェブや大観覧車トーキョーホイールも含め、全館臨時休業となっていた。
入口となるエスカレーターと階段には、日本語と英語で立入禁止のテープが張られ、警察官が立っている。当然、りんかいスカイトレインの青海駅までも、施設の外側を半周する形で回り込まなければ辿り着けなくなっていた。そして、あのエレベーターも、当然ながら止まっていたが、遠目に閉ざされた外ドアとタイル張りの地面の間に、血痕が残っていた。
それに気付いた流雫は眉間に皺を寄せ、呟くように言う。
「まさか、こんなことになるとは……」
「出逢いがこんなのだとは……想像してなかったわ。……でも、やっと逢えた」
最後だけ語尾を上げたミオの言葉に、流雫は頷く。
今まで文字だけで、流雫を支えてきた人が、隣にいる。初めて文字を交わしたのは、半年前のこと。その時は、こうして顔を合わせることになるなど、想像もつかないことだった。
アフロディーテキャッスルは閉鎖されていたが、別にこの施設が今日の行き先ではなかった。寄りたかったのは事実だが。
そもそも、東京テレポート駅が待ち合わせ場所だったのも、臨海副都心で最もアクセスがよく、特に流雫にとっては好都合と云うだけの理由だった。ミオにとってもそうなのだが、りんかいスカイトレインに乗ったのは単に家の最寄りで列車を乗り間違え、スカイトレインに乗り換えないとタイムロスが大きいことが理由だった。
地下鉄……東京臨海ラインの東京テレポート駅とりんかいスカイトレインの台場駅は、臨海副都心の玄関口としてはデフォルトだった。
朝からあの一件が起きたとは云え、駅前の人の流れは意外と鈍ってはいなかった。SNSのトレンドもそれで埋め尽くされていたほどに、事件は認知されているが、それはそれ……なのだろうか。
流雫は臨海副都心は基本的に疎いため、ミオに行き先を任せることにした。彼女は台場を選び、流雫を案内する。2人は、東京テレポート駅の裏を走る首都高速に架かる歩道橋を越え、台場へと向かった。
都内のレジャースポットとしての顔が強い台場は、今やその由来となった砲台より、レインボーブリッジと自由の女神像がシンボルだ。
自由の女神と云えば、普通はアメリカ、ニューヨークに建つものを想像するが、それはアメリカ合衆国の独立10周年を記念して、フランスがアメリカに贈呈したものだ。そして台場のそれは、フランス政府公認の上でフランスで建造されたものだと言われている。
その対岸には、高層ビルが建ち並び、テレビやポスターなどでよく見る大都会東京の一角を望める。それは人工ビーチ沿いに建つ複合商業施設からも可能だ。
……気付けば、15時前。朝、ペンションを出た時から何も固形物を口に入れていない。2人は遅いランチを兼ねて、海に面したシアトルスタイルのカフェに入った。
ベーコンのサンドイッチとラテをオーダーし、空いていたデッキのテーブルを選び、木の椅子に座る。そして、未だ名も名乗っていなかったことを思い出し、流雫から切り出した。
「……そう言えば、まだ名前……知らなかったね。僕は……流雫。宇奈月流雫。……はじめまして、でいいのかな……?」
「はじめまして。あたしは澪よ。室堂澪。よろしくね、流雫」
と澪は返した。
リアルでの出逢いはこれが初めてだったが、同い年でもあり、普段からタメ口で遣り取りしていた。互いに丁寧語だったのは、最初の数回だけだったか。そして、先刻の出逢いの瞬間も。
「……澪に何もなくて、安心した」
流雫は切り出す。
彼自身、先刻のエレベーターでの一瞬のことは、無我夢中だったが我ながらよくやったと思っている。ただ映画の見様見真似なのだが。しかし、それよりも目の前の少女に、掠り傷の一つも無いことが、何よりも安心する。流雫は言った。
「初めてのことなのに、こんなことになるなんて思ってなかったけど、でも……澪が生きててよかった」
危険極まりないことだとは判っていたが、流雫は澪だと思った人影を追って、逃げ惑う人の流れに逆らい、ペデストリアンデッキにつながる階段を駆け上がった。何度思い返しても、褒められるどころか呆れるだけだ。
「……でもどうして」
「えっ……?」
流雫の言葉に、澪は声を上げる。
「どうして、あそこで僕だと……」
流雫は問うた。
「どうして、僕ばっかり……。そう言ってたから……」
澪は答える。
……そのことは、彼自身意識していなかった。完全に無意識だった。
「……もう、口癖になっちゃってるんだ、な……」
流雫は呟くように言い、苦笑を浮かべるも、それは今この時間には場違いだと思った。サンドイッチに歯を立てると、ノンシュガーのラテを啜る。
その様子を見ながら、澪は言った。今日、何よりも語ってほしかったこと。彼との遣り取りで、何よりも気になっていたこと。それが、流雫と澪が知り合うきっかけだった。
「……あたし、流雫を知りたいの。何を思って、何に苦しんでいるのか。……あんなことが起きたばかりだし、楽しく過ごしたいのに場違いなのも判ってる。でも、あたし……流雫を知りたいの」
ラテが半分近く残った紙コップをテーブルに置くと、流雫は澪から目を逸らし、東京湾の景色を眺める。
……そうくると思った。しかし、思ったより単刀直入だった。予定が決まった時から腹は括っていた……が、どう切り出すか。
シルバーヘアの少年のシンボルと言えるアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳に、レインボーブリッジを中心に一望できるウォーターフロントの景色を焼き付けながら、流雫は数秒の沈黙の後、ゆっくり語り始めた。
「……この景色が好き。台場は遊んだ記憶が無いけど、この景色……僕は好きだよ。こんな風にゆっくり過ごしながら見て……。でも、そうやったところで吹っ切れないんだ」
「先刻のことだって、……間違ってる、とは思ってない。そうじゃないと、生き延びることなんて、できないから……。でも、そう思ってても、時々ふと思うんだ。……犯人相手とは云っても、人を撃つことで、何を得られるのか。どうして、人を撃たないと生き延びられない……世界になったのか……」
そこまで続けて、流雫は紙コップに残るラテに視線を落とす。ライトブラウンの水面には、何処か寂しそうな表情が揺れていた。
再び訪れた数秒の沈黙の後、流雫は続けた。
「日本でテロが起きるなんて、想像できるワケがなかった。でも、あの日……何もかも変わった。僕は空港で、辛うじて無事だったけど」
「僕には、彼女がいたんだ。美桜って名前で。でもあの日、渋谷で……。僕は空港にいて、どうにか助かったけど、でも美桜は……」
「……流雫……」
澪は、語り続けた彼の名を呼ぶことしかできなかった。彼が抱える現実が、彼女の想像を遙かに超えるような重苦しさを抱えていたからだった。
「……あの日から、何もかもが変わった。生きるためには、犯人と云えど人を撃たないといけなくなった。どうして、こんなことになったのか。何時まで、人を撃たないと生き延びられないことが続くのか……」
と言った流雫を、澪はただ見つめていた。似たようなことを無意識に繰り返すのは、そのことに頭を支配されているからだろう。そしてそれは、彼が抱える苦しみに他ならない。
リップサービスでもなく、流雫は澪にとってヒーローのように見える。誰も名前を知らない、言わば無名のヒーローだ。彼は全力で否定したがるが。
ただ、そう見えるだけで、誰も……澪さえも……知らないところで、同い年にとってはあまりにも重過ぎる苦しみを抱えていた。人の命のことや人を撃つこと、その見えない答えを探そうとして、必死に藻掻いていた。
澪は、ラテの水面に目線を落としたまま、唇を軽く噛む流雫を見つめながら、知りたかったことを知ろうとしたことに、罪悪感を覚えた。何時もなら、彼は言うだろうし、今も言うだろう。
「澪が気にすることでもないよ」
と。
しかし、彼が抱えているものが澪には想像できないほど重かっただけに、その優しい言葉は逆に、彼女の罪悪感を増やすだけのスパイラルに陥りそうで、それが少女を苛んでいく。
「……何時かは、言わないと……話さないといけないこと、だと思ってた。それが今だった、それだけのことだから……」
流雫はゆっくり顔を上げて、微笑むように見つめる。しかし、彼の左右で異なる色の瞳に、陰りが見えた。それは、澪にだけ判った。
澪は、罪悪感を浮かべながら流雫を見ていた。しかし流雫も、何時かはこう云う話をしなければならない、とは思っていた。それがこの日、この瞬間だっただけの話だ。限りなく最悪のタイミングだと流雫は思っていたが、それは寧ろどうも思っていなかった。ただ、澪がどう思うのか、それだけが気懸かりだった。
ただ、少しだけ気が楽になったように感じる。それは、誰に話すことなく、1人きりで抱えていたものを、少しずつ手放したからだろう。
「……こんな話を、人とすることって無かったから、何か……楽になった感じはする。……何時も、澪に助けられてばかりで……」
そう言う流雫は、澪の存在を大きく感じていた。だからこそ、こんな最悪の出逢いは避けたかった。それなのに。
「……流雫……」
澪の声に、彼は再び目を逸らした。……今は、澪の目を見ていられない。彼女を掴もうとするあまり、一線を越えそうな気がした。
2人がカフェを後にしたのは、それから少ししてのことだった。しかし、気付けば2時間近くもいたことになる。
既に太陽は、数年後の開業に向けたリニアの建設工事に絡めた再開発が急ピッチで進む、品川のビル街に沈み始めるところだ。空は淡い碧からオレンジのグラデーションに染まり始めた。それはやがて、ブルーブラックを纏いながら黒へと変化する。
流雫はペンションに連絡を入れ、帰りが遅くなることを伝えた。親戚は反対しなかった。日課と言っても差し支えないほどのペンションの手伝いをできないことは、後ろめたくも感じていたが、それは感じるだけ損だった。
今までが自分の時間にあまりにも無頓着だっただけに、2人が喜んでいるのが声で判った。
それからは、付近の商業施設を回るぐらいだったが、それでも2人で回る台場は、流雫には新鮮だった。
朝、アフロディーテキャッスルで起きた事件では、犯人側以外にも多数の死傷者を出した。その喪に服する意味で、レインボーブリッジを一望できる海沿いのエリアで行われていたスプリングイルミネーションはなくなった。その案内が、BGMの代わりにスピーカーから無機質な合成音声で繰り返し流される。
中には、それが目当てだったカップルや親子も多く、至る所で落胆の声が上がっていた。そのためか、思ったより少ないような印象を澪は受けた。
「仕方ないわね。あれだけのことだったし」
澪は呟く。尤も、スプリングイルミネーションの存在も先刻まで知らなかったが。
対岸のレインボーブリッジも、毎夜ホワイトのライトアップが楽しめる。しかし、この日に限っては、台場の商業施設群に足並みを揃える形で消灯したままで、飛行機に対して構造物の存在を知らせる目的で吊橋の主塔の頂上に設置された、航空障害灯が赤く明滅を繰り返しているだけだ。一言で言えば、味気ない。それでも、流雫にとっては新鮮だった。
「……綺麗……」
と流雫は呟く。
東京の夜景は、空港へ向かうモノレールと離陸する飛行機から眺めただけだ。本来は鉄道でもほぼ乗換無しで行けるのだが、流雫のフライトは大体夜中の出発。夜景を楽しみながら空港に向かうには、多少遠回りになるが京浜運河の上に架けられたレールを走るモノレールに乗るのがベストだと思っている。
しかし、車窓越しではなく、春とは云え少し肌寒い空気に触れながら、空を見上げ、対岸の景色を望む……それは初めてだった。
無邪気な目で、アンバーとライトブルーの瞳にその光景を焼き付ける流雫。その意味では、今日点灯しなかったライトアップやスプリングイルミネーションは、逆に余計だったのかもしれない。
ペデストリアンデッキは、臨海プロムナード公園の北側エリアを兼ねていた。その終点は、東京湾の展望デッキになっている。イルミネーションは無くても、少ないとは云いながらそれなりに人はいる。海に面して設置されたベンチに座ったり、夜景をバックにセルフィーに夢中になったり、人の数だけ楽しみ方が有った。
アフロディーテキャッスルの件も、立ち寄りたい店やレジャースポットが一つ減っただけで、何が起きたかは知っていても大多数にとっては大凡無関係だったし、だからと休日を楽しんではいけない、と云う決まりなど何処にも無い。
2人も、周囲より数時間遅れたがようやく、それに乗ることができた。特に、流雫にとっては、それが殊更特別に思えた。
展望デッキ、その最も突き出た半円状のスポットに立つと、対岸の夜景を覆う空にふと、星を見つける。
「東京でも、星って見えるんだ……?」
流雫は呟く。
街に飲まれていれば、空を見上げたところでカラフルなライトに掻き消されて、空に浮かぶ小さな点などよく判らない。しかし、この場所なら見える。2つか3つか、それだけでも見えたことに、流雫は奇跡のようなものを感じた。
初めて外に出た幼児のように、見るもの全てに興味を示す流雫は、何よりも今こうしてミオ……澪の隣で生きていることを、感じようとしていた。7ヶ月降り続いた、強く長い雨が上がった夜に架かった細い虹を、見失わないようにと。
澪は、手摺りを掴む流雫の右隣に並ぶ。肩と肩が、少し触れる。
「綺麗……」
そう言って、彼女はブラウンの瞳に対岸の景色を映す。
「こんなに、綺麗なんだ……」
もう一度声に出した澪にとっても、この夜景を生で見るのは初めてだった。
「……流雫」
澪は、少年の名を呼ぶ。顔を向ける流雫と目が合う。澪にとって、何よりも甘く、ゆっくりとした時間が流れる。ほんの数秒のことなのに、何分にも感じられる。
「……澪?」
流雫は呼び返す。
少し冷える空気を吸っても、その自分を映す異なる色の瞳に吸い寄せられた澪の心臓は、少しだけ早く鼓動を刻んだままだった。澪は、一瞬息が止まる。そして、軽く頷いて言った。
「……あたし、流雫の力になりたい」
澪が、数秒の沈黙を破った一言。1ヶ月ほど前にも、メッセンジャーアプリで書いた。しかし、彼の瞳に吸い寄せられると、唇が無意識に動いた。
……あの8月から、流雫は孤独だった。
そもそも美桜を好きになったのは、流雫を好きだと堂々と言える強さだった。何かにつけて流雫を気に懸けてきた優しさも有るが、何よりもその強さに惹かれ、彼女にどうやって接すればよいか戸惑いながらも、告白を受け入れた。だが、その幕切れはあまりに突然だった。
あの日から、何に没頭しても満たされなかった。所詮は紛らわせているだけで、ふとしたことで思い出す。そのスパイラルに人知れず苦しみ、同級生を全てシャットアウトした。その最中に、ふとしたことで知り合ったのがミオ……澪だった。
最初は、美桜と名前が同じだと云う理由だけで、何処かに美桜の面影を重ねようとする自分がいた。彼女が持つ強さは、美桜と同じだったことが大きい。
やがて、SNSからメッセンジャーアプリに会話の舞台を移した。それでも、流雫も美桜の面影を探そうとしていた。
そして、初めて引き金を引いたあの時でも、澪は流雫を受け止めた。夜中に6インチのスマートフォンを握りしめ、泣きながら流雫は確信した。ミオ……澪は、膨大な情報の海で掴んだ、一欠片の希望だと。それは、流雫にとって手放すことは、或る意味死より怖かった。だから。
「……サンキュ……、……澪……」
流雫は、はにかみながら答えた。
澪は冷えた左手を、流雫の右手にそっと重ねる。……無意識だった。これでようやく、彼の隣に立てる。あの時自分を助けた流雫の力になってあげられる。
この夜が明けることなく、明日が来なかったとしても、こうしていられるなら本望だとさえ、思っていた。……ただ、一欠片のリグレットを残しながら。
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