1-8 Worst Encounter

 世間は春休みを控えている。あの慌ただしかった2月の後半から、もう1ヶ月が経とうとしていた。

 桜の開花予想が天気予報で流されるようになり、昨日九州南部と東海地方では開花宣言が出された。もう少しすれば、関東でも至る所で満開の桜を拝めることだろう。

 ペンションを早く出た流雫は、特急列車に乗る。河月から東京へ最も早く行くには特急列車で、そうやって行くにはネット割引が最も安かった。

 駅のコンビニで買った紙コップのコーヒーを飲みながら、ネイビーの長袖シャツに少しだけ厚手の白いUVカットパーカーを着た流雫は、あの8月から初めて日曜日に休息を得たことを実感していた。親戚に断りを入れたが、自ら手伝いに没頭していることに逆に心配していた身からすれば、好ましいことではあった。

 何処で誰と会うか、などは詮索することは無かった。それは、犯罪にさえ手を染めなければ流雫の自由だからだ。それは彼の母親の方針でもあった。

 そして、それはあの頃からすれば、彼にとっては「大きな進歩」と言える。

 ミオが主導権を握る形で、会う日も場所も決まった。臨海副都心は初めてだったが、初めての場所は面白そうで期待する。

 ただ、女子生徒と遊んだことが無かっただけに……美桜とさえ無かった……、流雫は初デートに一抹の不安を覚えていた。だからと云って、取り繕うように明るく振る舞うような器用さは、如何せん持ち合わせていない。一言で言えば、開き直るしかない。どう転ぼうが、なるようにしかならない。

 新宿駅で乗り換えた列車は知らないうちに地下に潜り、一度だけ警笛を鳴らして目的地の最寄り駅……東京テレポート駅のプラットフォームに滑り込む。流雫は車窓から入ってくる蛍光灯を見つめていた目を一旦閉じると、軽く溜め息をついて再び開き、

「……行くか」

と呟き、窓に背を向けるロングシートから腰を上げた。


 江戸時代末期、黒船対策として幕府が今の東京湾に埋立地として砲台を築いたことが由来とされる地区、台場で知られる臨海副都心。今から半世紀近く前は未開の地ではあったが、景気の栄枯盛衰に開発を左右されながらも、今では商業施設も建ち並び、比較的気軽にアクセスできる都心の観光スポットと云う側面も有る。

 モノレールと飛行機から見ただけながらも、流雫は東京の景色が好きだった。特にこの東京湾に面したウォーターフロントは、山梨と云う内陸に住み、故郷フランスでも海岸線を持たない街レンヌに所縁が有る彼にとって憧れだった。それは何度か家族旅行で行ったことが有るフランス南部ニースのコートダジュールやマルセイユと同じだ。

 テレポーテーションを連想させる、として海外でも一時話題になった東京テレポート駅。その名前は、当初東京テレポートタウンと云う当時最先端の情報通信基地としての街が開発される予定だったことに因むらしい。

 その地下のホームから地上の改札までは、長いエスカレーターで移動する。その間、どうにかして残る緊張を和らげることはできないか、流雫は頭を働かせてみる。しかし、できなかった。そして、不安も拭えなかった。

 ……ミオは、生の流雫を見ても裏切らない、幻滅しないと思っている。しかしどうしても、護身のため正当防衛だったとしても、人を撃ったことが有ることに、流雫は後ろめたさを抱えた。

 しかし、今までメッセンジャーアプリで接してきた限りでは、ミオはそれでも自分を受け入れるだろう。もしそうなら、やはり彼女の前世は女神か聖母か。


 改札からやや遠目に見える、賑やかな商業施設。開業から四半世紀を迎える、アフロディーテキャッスルだ。都心唯一のアウトレットを併設し、日本人だけでなくインバウンド需要も高く、常に賑わっている。シンボルマークは直径100メートルを超える日本一の大観覧車トーキョーホイールで、臨海副都心は当然のこと、都心も一望できる。

 時刻は10時を少し回っている。未だ待ち合わせの時間までは幾分余っている。時間を決める時、

「流石に早いかな?」

とミオに言われたが、それで構わなかった。元々、ミオよりは早く着くことになっていた。待ち合わせに間に合わせようとするなら、次の電車は特急でもギリギリ間に合わなかった。関東圏ではあるが、山手線と接続する駅から特急でも60分以上は遠い。

 ふと、遠くの人混みに目を向ける。流雫が乗ってきた地下鉄線とは別に、小さな電車が高架線を走っている。臨海副都心をほぼ1周するように建設された、新交通システムと言われるタイプで、高架線を走るため車窓からの展望もよい。りんかいスカイトレインと呼ばれるそれは、このアフロディーテキャッスルの反対側に駅が有る。青海駅だったか。

 ミオがどれで来るか、までは知らないが、それに乗っていたとすると、あの人混みに紛れているのだろうか。早く会って、この緊張から解放されたい。だから、紛れていてほしかった。

 待ち合わせは東京テレポート駅だったが、その駅舎とアフロディーテキャッスルの間を貫く歩行者専用の通り……臨海プロムナード公園と呼ぶらしい……まで1分だけ歩こうとした。

 少しでも早く、会ってみたかった。そうすれば、後はなるようにしかならない、と吹っ切れるからだ。

 モノトーンで合わせた黒いカラーデニムとスリップオンシューズの動きやすさは、少し軽快なステップに最適だと思いながら、流雫は歩き始めた。

 しかし、ミオに早く逢いたい流雫の想いを嘲笑うかのように、銃声が鳴り響いた。

「なっ!?」

流雫は声を上げる。それはアフロディーテキャッスルからだった。数発、続けて鳴った。

 同時に無数の悲鳴が飛び交い、重なり、東京テレポート駅側からの唯一のアプローチ方法である、ロータリー端からの階段とエスカレーターを走って、来場客が駅に押し寄せる。エスカレーターは、動いていなければ単なる階段でしかなく、それも非常停止ボタンで止められていたため、事実上階段は3本有ることになる。

 流雫はその動線上にいたが、その流れに飲まれないよう、一度ロータリーのバス停側に寄ったが、そっちにも人が流れてきて流雫は一度車道に下りる。そして、未だ来ていないミオに今を伝えようと、スマートフォンを取り出した。

 しかし、一体何がどうなっているのか。ふと、バス停に最も近い柱のデジタルサイネージが目に止まる。そこには、アフロディーテキャッスルのイベント情報が表示されていた。


 この日は、ダイバーシティに関するイベントが、1階で開かれていた。数年前から、SDGsと共にダイバーシティ&インクルージョン……多様性と包括的……の啓蒙が進んでいる。

 性別や人種を越えた社会の発展は、特に何だかんだで開かれた東京五輪後のインバウンドの回復をスターターとして、真の先進国入りを目指そうとした日本にとっては緊急的な課題だった。

 しかし、それによく思わない連中もいる。それによるデモも時々発生しているが、暴動に至ることでもなく、ただシュプレヒコールを挙げ、SNSでは指定のハッシュタグを使って投稿を繰り返すと云うネットデモを繰り広げるだけだ。

 難民問題以外で起きたデモで暴動に発展したのは、この数年では昨年の銃刀法改正に関するものだけで、それもごく一部の過激派が起こしただけに過ぎない。ただ、反ダイバーシティだけで銃撃事件に発展するとは到底思えなかった。あまりに暴力的で現実味が無い。

 しかし同時に、流雫は自分にとって銃犯罪が異常なものでなくなっていることを、思い知らされていた。何でもない日常が音を立てて崩れたあの日から、7ヶ月が経った。自分がこうなるとは思っていなかった。

 ダイバーシティを標的にしたのではなく、別の目的……到底容認されるものではないが……が有り、それが偶然重なっただけだ、と思うことにした。とにかく、今はそれどころではない。

「ミオ……どこにいる……?」

流雫は呟いた。

 人々が逃げ惑う商業施設を見つめるオッドアイの目には、焦りだけが滲んでいた。


 始発の新橋から乗るりんかいスカイトレインは、レインボーブリッジのループを通り、臨海副都心と呼ばれる人工島に差し掛かる。その最初の駅で降りると運賃は少し安くなるが、首都高速をオーバーパスする歩道橋で歩くことになる。

 一方の最寄り駅までは、やや高くつく一方でアフロディーテキャッスルのペデストリアンデッキと直結している。合計の所要時間は大して変わらない。それなら、最寄り駅……青海駅まで行こう。澪は混雑する車内の端に立ちながら、そう思った。

 肩をダークブラウンの毛先が撫でるぐらいのセミロングヘアにネイビーのデニムのジャケット、下は白シャツ。パンツルックが多い澪が珍しく履いたスカートは白くて短い。

 それは彼女にとっての人生初デートで気合いが入ったから、ではなく、休日に履くパンツを間違って全て洗っていて、すぐに履いて出られるのがスカートしか無かったと云うだけの話だ。

 サイハイソックスを履いた足下が少し肌寒い気もするが、それもそのうち気にならなくなるだろう、と思いながら澪は、賑わう台場の商業施設群を眺めていた。

 ローファーを鳴らしてスカイトレインを降り、小さな黒いショルダーバッグから取り出したパスケースを改札にかざすと、澪は足早にペデストリアンデッキを進む。

 青海駅とアフロディーテキャッスルは直結しているが、ルナがいるハズの場所までは一度、左右に分かれた建物をつなぐ木製の床のペデストリアンデッキを通って、階下へ下りるしかない。

 その半分……デッキが広くなった辺りまで来たところで、遠目に見える駅の周辺で止まっている人が数人見える。その中の1人が、ルナだろうか。

「ルナかな……?」

澪は、今から2人で過ごす楽しい時間を期待し、心臓が少し早く動くのを感じた。

 ……あれだけ、デートじゃないと思っていても、結奈や彩花に言わせればやはりデートらしい。しかし意識すれば、どうしても緊張する。ただ、同時に何だかんだで楽しく過ごせるだろう。尤も、これが初恋の始まりなんてことは微塵も思っていないが。

 しかし、その彼女を嘲笑うように、銃声が近くで響いた。リズミカルに、8発。

「ひっ……!」

澪は引き攣った声を上げ、すぐ近く……数歩先の施設に身を潜めようとする。そこのテラウェブと英語で書かれていた。

 自動車のショールーム、テラウェブは2階建てで、中は無数の自動車が展示されている他、自動車に関する様々なコンテンツを楽しめる。澪自身は興味が無いが、今は近日開幕するモータースポーツの特集が組まれていた。

 建物はガラス張りだが、澪は入口近くのエレベーターの陰に隠れる。ガラス越しに、施設を挟む両方の駅へ向かって無数の人が走って行くのが見えた。逃げるとすれば、青海駅か東京テレポート駅、それと隣接する臨海プロムナード公園か。

 施設全体の総称としても使われるが、厳密にはテラウェブの向かい側の建物を指すアフロディーテキャッスルは、日本語で女神の城の意味。内部のコンセプトもそれに準じた形で多少入り組んでいる。

 回遊するには面白いが、初見ではフロアガイドが無くては迷いやすく、それが災いして緊急時の避難が多少ややこしい。その入り組んだ構造を上手く使えば、やり過ごすことはできる。尤も、見つからなければ、の話だが。

 しかし、このテラウェブはガラス張りで外からも見えやすい上に、自動車などの展示物が障害物になるものの、基本的には大きなホールのようになっている。隠れる場所は極めて少ない。その上、入口は1階にも2階にも有り、それは犯人の侵入が容易いことを意味する。

 ルナにメッセージを送りたいが、その間に見つかれば間違いなく撃たれる。

「ルナ……どこ……?」

澪は呟き、通知音で気付かれないようにスマートフォンの通知をバイブのみにした。


 「どうしてこうなるんだ……」

と呟いた流雫は、己の運命に苛立っていた。もうこれで4回目だ。トーキョーアタックから約7ヶ月、学校での事件からは1ヶ月だ。

 何故自分だけが、銃撃や爆弾と云ったテロに悉く遭うのか。誰に問うたところで、答えなど返ってくるワケでもない。

 「ミオ……」

流雫は、本来なら今頃顔を合わせていただろう少女の名を呼ぶ。そして、安否が気になったのか、アフロディーテキャッスルへと無意識に足を向かわせていた。それに気付く者はいない。誰もが、そこから逃げることで精一杯だ。しかし、1人その流れに逆らおうとしている。

 犯人と戦って倒したいワケでも、死に場所を見つけたいワケでもない。ただ、ミオを捜したい。銃声が鳴り響くと同時に、左側の建物に消えていった小さな人影が、もしかするとそうなのではないか、と思った。

 直感……と呼ぶには無理が有るが、それが本当にミオだったとすると、これほど最悪な出逢いは無い。そうでないと願いたいが、否定しない自分もいた。

 ……毒を食らわば皿まで。そう云う日本の言事が有った。それが合っているかは知らないが、そうやって己を必死に鼓舞させて、流雫は対向から人が来なくなった階段を駆け上がった。


 3階建てのアフロディーテキャッスル。2階建てのテラウェブ。双方の共通項は、ペデストリアンデッキが繋がる2階部分がエントランスだ。こう云う構造になっているのは、りんかいスカイトレイン側は高架の駅舎とペデストリアンデッキをバリアフリーで直結させていること、プロムナード公園側はテラウェブの試乗コースが走っていることが原因だ。

 人の声が消え、代わりに時々銃声が鳴り響く。威嚇発砲だろうか。その異様な空間は、不気味ではなく恐怖だけが支配する。

「……ミオ……?」

流雫は、他人の耳元で囁くぐらいの小声で呟く。

 声を出すワケにはいかないが、彼女の行方が気になる。結果いなかったとしても、それはそれで無事だと云う証左だ。

 しかし、先刻一瞬だけ見えた人影がミオだと云う直感を、流雫は何よりも信じた。……己の自殺行為に、我ながら呆れるしかない。流雫は思わず苦笑いを浮かべる。


 遠くから、サイレンが幾重にも迫ってくる。駅前のロータリーに数台の警察車両が止まるのが、振り返ると見える。そして青海駅の下には、片側2車線の産業道路が走っているが、そこにも止まっているのが、回転灯の赤い光が建物に反射していることで判る。

 しかし、それは流雫に安心ではなく焦りをもたらした。

 ……今回も、特殊武装隊が急行しているとは容易に想像できるが、だからと犯人が大人しく投降するとは思えない。逆に、死ぬまで戦うと叫びながら銃撃戦を起こすだろう。動機に確固たる信念が無ければ、逆に命が惜しいからかすぐに投降するが、有るならその全うのために戦う。

 流雫の故郷フランスでは、9年前の2015年に風刺新聞発行元シャルリー・エブドを狙った襲撃事件やパリ同時多発テロと云う宗教絡みのテロが発生し、以降現在に至るまでほぼ毎年、何らかのテロ事件は起きている。流雫もそれについて学んだため、テロの背景としての宗教観については多少学んでいると自負している。それでも、まだ年端もいかないだけに、無知な部分も多いが。

 そのテロの実行犯には、確固たる信念が有り、そのために戦死しても「あっちの世界」ではヒーローとして讃えられると云う「褒美」が確約されている。だから死ぬのは怖くない。褒められた話でもなく容認など有り得ないが、その信念の強さだけは感心せざるを得ない。

 もし、何が狙いか判らないが、相手が死も怖れないだけの信念を持っているのならば、先ず話して解決することは不可能で、必ず血は流れる。その血が自分の、そしてミオのものであることは、何としてでも避けたい。

「ミオ……」

何度、この数分にも満たない時間でその名を呟いただろうか。

 その声と入れ替わるかのように、後ろから何やら警察官の声が響く。流雫はそれに背を向ける形で、木の床を踏んだ。


 遠くから、けたたましいサイレンの音が澪の耳に聞こえてくる。やがて、先刻までいた高架の駅舎に赤い回転灯が反射するのが、遠目に見える。確かに、この界隈を管轄とする警察署は、急行すればものの2分で辿り着ける。

 銃を撃った犯人の正体は知らないし、知りようもない。しかし、犯行に及ぶ以上場所の下調べはインターネットの地図ででもしているハズで、付近に警察署が有ることだって知っているハズ。それでもこの場所を選んだと云うのは、何か理由が無ければ、辻褄が合わない。

 しかし、警察が来た以上油断はできないものの、ほぼ安心だ。必ず、この事件は収束する……。

「助かった……」

澪は深い溜め息を吐き、ふと顔を上げると、ガラス越しにシルバーの髪の少年が見えた。


 澪の目に映る少年は、シルバーヘアと日本人らしくない見た目だった。彼は立ち止まり、周囲を見回す。

 ……外にいた人々が逃げ惑う中、何故そこにいるのか。澪には判らないが、何か探している……或いは人を捜しているように見えた。だとしても、今そこにいるのはあまりにも危険だ。

 階下から微かに反響して聞こえる声が澪には聞こえた。自分と同じように隠れているのか。それで犯人はここにはいないと察すると、今この瞬間だけは安全だと確信し、入口のドアへと走ろうとした。

 しかし、爆発音が外から聞こえ、途端に周囲が薄暗くなり、階下からは悲鳴に似た声が上がった。

「停電……?」

澪は呟く。

 今の爆発は、まさか外の電気設備が狙われた……?

 入口ドアまでの数メートルを走るが、停電で自動ドアは動かなくなっていた。澪はそのガラスを叩く。鈍い音が響くが、外の騒々しい音に掻き消されて聞こえないことは判っていた。

 その爆発音がした方向に、パーカーをなびかせて振り向こうとした少年と、澪は目が合う。男女の区別が付かないような中性的な顔立ち、そのアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳に、澪は一瞬、吸い込まれそうな錯覚がした。


 テラウェブと英語で書かれた立て看板の隣に、入口の自動ドアは有る。しかし、流雫が中に入ろうと思ったと同時に、階下から爆発音がした。

「な!?」

と声を上げた流雫は爆発が気になり、後ろを振り向こうとする。その瞬間、ドアのガラスを叩くセミロングヘアの少女と目が合った。綺麗なダークブラウンの瞳をしていた。

 それがミオなのかは判らない。人違いの可能性も有る。ただ、ドアを叩いているのは

「中に入れ」

とでも言っているのか。今はそれに従った方が賢明か。

 流雫は自動ドアに手を突いて、横にスライドさせる。自動ドアを手動で開けるのは力が要るが、少女も少しだけ開いた隙間に手を入れて押し広げようとする。やがて1人分の幅だけは開いた。流雫が細い身体を入れると、少女と2人掛かりでドアを閉め、彼女に誘導されるようにエレベーターの陰に隠れる。

 「……何故逃げていなかったんですか……」

ルナと身長差が殆ど無い少女は、僅かに少年を見上げながら呆れるように言った。それもそうだ、この数分間で起きた混乱の中で、逃げる気配が無かったのは流雫だけだった。

 ただ、そもそも逃げようとするどころか、安全地帯のハズの駅からここまで、混乱し逃げ惑う人々の流れに逆らった。話せば、呆れるどころの話ではない。狂っている、と言われても文句は言えない。

「人を捜してて、それで……」

流雫は答える。案の定、少女は呆れ顔をした。

 「とにかく、此処にいないと……」

その少女の言葉を遮るように、階下から大きな銃声が響いた。窓ガラスが割れる音と悲鳴が重なっている。ついに犯人がテラウェブに侵入してきたらしい。

 流雫と少女は同時に顔を上げる。……一瞬の静寂が2人の間に流れた後、流雫はディープレッドのショルダーバッグに手を伸ばした。そして、背面のジッパーを開けて奥底に入れていた銃を、中でホルダーから外すとゆっくりと取り出した。

「……またか……」

思わず呟いた流雫に、少女は目を見開いて声を上げる。

「えっ……?」

流雫は溜め息をつきながら呟いた。

「どうして、僕ばっかり……」


 己の運命を呪うかのように呟く声。

「どうして、僕ばっかり……」

何度も似たような目に遭ったからこそ言えるその言葉に、澪は確信した。目の前の彼こそが……ルナなのだと。

「……正気、なの……?」

澪は問う。全員と戦うのなら、無謀にも程が有る。

「……生きたい。だから、こんなところで死なない……殺されない……」

と流雫は小さい声で言う。それは、自分に言い聞かせるかのようだった。恐怖を、そうやって麻痺させて。

「……ルナ……」

澪が思わず呼んだ名前に、彼はアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳を見開く。……まさか。

 そして少年は、ついに小さな声で名を呼んだ。

「……ミオ……?」


 「……ルナ……」

小さな声は、そう聞こえた。僕の名前を……知っていた。まさか……この少女は。

「……ミオ……?」

思わず呼び返す。……やっと、逢えたのか。しかし、こんな形で。

 それと同時に、階下では一際大きな銃声が鳴り響く。

「撃たれた!」

との叫び声が悲鳴に混ざって聞こえ、それは流雫に1ヶ月前を思い出させる。

 ……2人に迷っている時間は無い。東京テレポート駅まで走る。その前に、連中とエンカウントした時は撃つまでの話。生き延びる可能性は低いとしても、ゼロじゃない限りやるしかないし、ゼロでもどうにかするしかない。

「……誰かが死ぬのもイヤだから」

と呟いた流雫に

「……あたしも……」

とミオは言い、小さめのショルダーバッグから、鈍いシルバーの小さな銃身を取り出す。

 流雫のそれと同じで、彼女の掌より一回りだけ大きい。彼女は初めて、家の外で出した。……今まで出す必要が無かったのは、幸運でしかない。

 「まさか、ミオ……?」

流雫の声は、しかし彼女の耳には届かなかった。外から、犯人に対して投降を呼び掛ける、怒鳴りに似た警察の声が響く。

 それに対する返答は、無機質な銃声だけだ。いよいよ、待った無しか。


 やっと、ルナに出逢えた。しかし、その余韻に浸る暇は無い。最悪の初対面だった。

 ……今は2人して、この場をやり過ごして生き延びるしかない。そのために、初めて家族以外に銃を見せた。家でも、使い方と銃を持つ上での心構えなどを父から教わる時だけしか出したことは無い。

 グリップは、思ったより冷たい。それは、身を護るためだとしても人を殺せるだけの力を持つ故の、冷血の表れか。そして、思ったより重い。それは、1回引き金を引くだけで奪える人の命の重さの表れか。

 「こんなものを持って、ルナは戦ってたの……?」

そう呟く澪は戦慄を覚えた。

「……誰かが死ぬのもイヤだから」

と言った彼に呼応する形で銃を手にしたが、覚悟は間に合わない。そして、彼がどれほどの覚悟を抱えて銃を握っていたのか、思い知らされた。

 しかし、覚悟を決めるしかない。生き延びるには、これしかないのなら。

 3月とは云え少し肌寒い天気に合わせたデニムジャケットをなびかせ、立ち上がって言った。

「行かなきゃ」


 初対面は、平和であってほしかった。しかしそれは叶わなかった。そうなるのは、最早逃れられない運命なのか。しかし、こうなった以上は生き延びるしかない。

 この半年間、メッセンジャーアプリで自分を肯定し続けた少女……ミオと同じ悲壮感を抱えつつも、彼女の

「行かなきゃ」

の一言に、流雫は完全に吹っ切れた。

 澪に一瞬遅れる形で立ち上がった流雫は、閉ざされた自動ドアへ走った。

「くっ……!」

電源が落ちて動力を失った自動ドアは、やはり重い。少しスライドさせ、僅かな隙間に手を入れ、押し広げるようにスライドさせるしかない。ただ、先刻と同じだ、1人分の幅さえ有れば問題は無い。

「ふっ……!」

と声を出しながら2人で、どうにかそれだけの幅は確保できた。しかし、十数秒にも満たないほどだったがタイムロスだった。階下から階段を駆け上がってくる足音が聞こえてくる。それも、数人分重なって。

「ミオ!」

流雫は少女の名を呼び、彼女の手を引っ張り先に通す。スレンダーな身体がドアの隙間を通り、自分も後に続こうとすると、最後の一段を踏んだ1人が機銃を向た。銃声と共に、ドアのすぐ横に立っていた金属製のフロアガイドが音を立てた。

「くっそ……!」

流雫は、金属のグリップを強く握りながら、自動ドアの隙間から外に出た。……一瞬の遅れが、文字通り生死を分ける。しかし、今ここで撃つのは違う……だから応戦しなかった。

 流雫はミオの手を引き、彼が先刻までいた駅へ向かって走ろうとする。平面上は直線だが、階段を使って1フロア分下りなければならない。そして、流石に後ろを向いて走りながら階段を下りるような器用なことはできず、その間無防備になる。200メートルにも満たない、2分未満のサバイバル……その様相を呈していた。

 しかし、ミオは彼の手を振り解き、流雫に背を向ける。それはつまり、敵……ミリタリージャケットを羽織った武装集団6人と正対することになる。

 「ミオ!?」

突然のことに流雫は止まり、彼女の隣で犯人に振り向いた。

 「……何が目的なの?どうしてこんなことを!?」

ミオは声を張り上げる。ルナに対する態度とは正反対だ。まさかの事態に、相手も銃を向ける。しかし引き金を引くことはなく、構えたままだ。

「反ダイバーシティ?人種?宗教?……難民?」

その声を聞きつけてか、2人と武装集団のそれぞれ背後に、特殊武装隊が集まる。

「……何が動機か、あたしには判らない。そんなの、どれでもいいわ。でも、あたしたちはただのとばっちりじゃないの!」

ミオは叫んだ。

 彼女には、ルナに対して文字でも一度も見せたことが無かった、怒の感情しか無かった。それも、刑事の娘として思うことよりも、限りなく最悪な演出で初対面を迎える羽目になったことが大きい。

 正対する男の1人が怒鳴った。

「何をしている!撃て!」

しかし、誰も命令に反するように引き金を引かなかった。

 ……連中がここで引き金を引くことは容易い。しかし、その瞬間前後を挟む特殊武装隊に返り討ちにされることは、目に見えている。

 ミオが自分たちに振り向いた瞬間、その斜め奥の少年……流雫もまとめて射殺していれば、こんなことにはなっていなかったハズだ。特殊武装隊にサンドイッチされようと、もう少し勝機は有ったかもしれない。

 そう、連射が可能な機銃故に、文字通り数撃ちゃ当たる戦法でよかったのだ。犯人にとっては、一瞬でもミオに「飲まれた」のは完全なる誤算だった。

 「撃て!」

一際大きい声が左右の建物に反響するより早く、ミオは流雫の手を引っ張り、特殊武装隊とテラウェブの外壁の隙間を通っていく。引き金が引かれ、銃声が数発鳴った瞬間、数十発の銃声が呼応するように鳴り響き、数秒で決着がついた。


 施設は停電していたが、デッキと階下を結ぶエレベーターは何故か生きていて、2階で止まっていた。銃撃戦が終わると同時にゴンドラのドアが開き、ミオは2人で乗るとすぐ、ドアを閉めるマークのボタンを押した。

 無意識に流雫の手を引いていたことにミオは、頬を赤くして慌てて放す。……そう云うのじゃないから、と自分に言い聞かせる。しかし、少しだけ脈は早くなっていた。

 流雫はミオを見て、その意外な強さに驚きながらも、しかし安心はできないことを意識していた。

 テラウェブの試乗コースには、車両の搬出入用以外に2箇所、非常時のみ使用されるゲートが有る。試乗コースに出れば、常時施錠されたゲートを通じて外に出られる。そのうち1箇所はエレベーターの前だった。

 ペデストリアンデッキで対峙したミリタリージャケットの連中は、それが全員ではないことは2人して思っていた。

 階下がどうなっているかは判らないが、非常用ゲートから出て、警官に見つかることなくエレベーターに乗れれば、上手くいけば階段前にいる警官をやり過ごし、特殊武装隊を背後から射撃できることになる。エレベーターが、地上からは階段とエスカレーターより奥まった位置に設置されているのは厄介だ。

 澪がエレベーターを選んだのは、特別何か思いついたワケでもなく、ただ出会い頭に銃撃戦になりそうな階段よりは安全だと思っただけの話だった。しかし、それも1階のドアで待ち伏せされていては終わりだ。

 だが、勝機が1つだけ残されている。カギは、流雫自身だった。

 「……壁に、張り付いて」

流雫はミオに言い、彼女はそれに従う。スレンダーな身体は、エレベーターの壁に張り付かせればドアからはみ出ない。そして流雫はその反対側で低くしゃがみ、己の胸元に銃を寄せる。……心臓の鼓動が、何時になく早い。しかし、妙に落ち着いていた。

 窓が無いエレベーターのゴンドラは揺れながら止まり、扉がゆっくり開く。薄く人が立っている影が床に差し込み、ただ立っているだけならば不自然な、機銃の影が見えた。顔を上げると、長い銃身を真っ直ぐ、奥の壁に向かって構えた男が見えた。

 大柄な身体で、ミリタリージャケットではなくテラウェブのスタッフ用ブルゾンを着ていた。カモフラージュのために着替えたのだろうが、それには既に血がこびりついていた。……先刻1階で銃殺したスタッフから強奪したのか。自分が相手の立場なら、それでも着るのは躊躇するが。

 ……とにかく、読みは当たった。男はふと顔を下げると、ついに少年と目が合った。

 「……ボン・ジュール……」

映画よろしく、そう一言だけフランス語の挨拶を言い放った流雫は、腕を伸ばして男の股間に銃を押し当てる。一瞬何かに当たり銃身が左右に揺れるが、気にすることなく強く押し当て引き金を引いた。火薬が爆ぜる音が、小さいながらも2回ゴンドラに反響し、同時に薬莢が2個、反射的に耳を塞ぐミオの足下に飛んだ。

 流雫は銃を自分の身体に引き寄せて立ち上がる。それと同時に男は股間を血で滲ませ、血を吐きながら機銃を落とし、

「あ……が……っ……」

声にならないような断末魔の悲鳴を絞り出しながら、前のめりに倒れ始める。

 それが邪魔だと言わんばかりに、流雫はその背中をゴンドラの奥へ突き飛ばしながら外に出て、ミオに手を伸ばす。少女はその手を借りて男を飛び越える。ゴンドラが大きく揺れると同時に脱出した2人は、駅までの100メートルを全力で走った。


 駅までの十数秒は、2人にはその何倍にも感じられた。逃げ惑っていた連中がロータリー前に屯してヤジ馬となり、スマートフォンを持って近付こうとする連中を警察官が止めようと必死になっていた。

 人々が銃を持った2人に驚く。そして、その場を避けたことで生まれた広めの空間で急に足を止め、膝に手を突いて息を切らしたルナは、その場に膝から崩れる。力を失った手から離れた銃が、地面へと滑り落ちた。

 「ルナ!?」

彼に遅れて止まった澪は振り向き、彼の隣で膝立ちして、銃を膝元に置くとその身体を支えようとする。

 アフロディーテキャッスルで、そしてこの場所からでも見えるエレベーターで何が起きたか、一目見たいヤジ馬が2人にスマートフォンを向けるが、警察官の怒号と体の隙間から覗かせるレンズは、2人にとってはもうどうでもよかった。


 「どうして……」

「ルナ?」

「どうして……こんなことに……」

流雫はタイルに目線を向けたまま、息を切らしながら呟いた。

 流雫はこの1ヶ月で、既に3回もテロや銃撃と云った事件に遭遇していることになる。そして、その全てで彼は引き金を引いた。

 ……撃たなければ殺される。生き延びたいなら、撃たなければならない。結果として、相手を殺すことになっても、だ。それぐらい、痛いほど思い知らされているし、何度も覚悟した。……それでも、だ。

 吹っ切れた……と思っていた。思っていたかった。何度そう思っただろうか。でも、現実は甚だしく非情だった。

「……ようやく、ミオと逢えたってのに……。初めてが……こんな形だなんて……」

流雫は零した。今にも泣き出しそうな声が、ミオの耳に刺さる。

 彼はミオと目を合わせようとしなかった。目を合わせると、その綺麗なダークブラウンの瞳に吸い込まれそうになる。

 ……不安だけが先走るものの、結局は何だかんだで楽しい1日になるだろうと思い、そうなることを流雫は期待していた。

 デートと呼べるほどのものではなく……そもそもそう云う関係でもない……、ただの2人きりのオフ会みたいなものだ。しかしこの時だけでも、イヤなことを何もかも忘れられれば、それでよかった。

 それなのに、朝から全て吹き飛んだ。時計の針は、11時まで残り数分を示している。まだ東京に着いて数十分しか経っていないが、この数十分で何もかも台無しじゃないか……。


 澪は、膝を地面につけたまま動けない少年を静かに胸元に抱き寄せ、震える頭を撫でる。

「ルナ……」

囁くように名前を呼ぶ。同時に、この少年……ルナの全てが垣間見えた気がした。

 ……エレベーターに乗っていたのは秒単位の僅かな時間だったが、ルナはどうすべきか咄嗟に判断した。そして、怖いハズなのに怯むことなく、引き金を引いた。幸い、2人は無傷どころか返り血一つ無い。

 しかし、こんな経験は本来するべきではないし、その必要すら無い。それなのに、既にルナにとっては何度目かの経験だった。単なる高校生で、しかも何処にでもいるような、ただの少年であるハズの彼にとって、あまりにも残酷だった。

 様々な恐怖を押し殺して、ルナは今この瞬間を生きる術だけを必死に探り、手繰り寄せる。しかし緊張の糸が切れた途端、その反動に追い詰められる。それは、今生きていることへの安堵だけでは拭えない。

 しかし、ルナがあそこで「手を汚した」。だから澪は、今こうして生きている。彼女は自分が、そして何よりルナが生きていることを、強く感じていた。そして、何かが小さく弾ける気がした。

 「ありがと……ルナ……」

そう囁く澪の胸元は濡れ、ルナが震えている。溜め息に似たような吐息が聞こえた。……泣いているのが判った。怖かったからか、安心したからか。

「……ミオ……」

小さな声でその名を呼ぶルナを抱いたまま、澪はただ頭を撫で続けた。


 ミオの心臓の鼓動が、手の熱が、ほのかに流雫に伝わる。それが、少しだけくすぐったい。そして、人の肌が触れることが、どれだけ安心をもたらすのか、溜め息交じりに泣きながら、流雫はようやく知った。

 想像し得る限りで、間違いなく最悪な出逢いだった。でも、自分はどうにか生きているし、何よりミオが生きている。それだけで、流雫は救われていた。

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