1-1 Deadly Delay
2時間遅れでパリ、シャルル・ド・ゴール空港を飛び立った飛行機は、30分だけ遅延を取り戻して東京中央国際空港に着陸した。いささか時代遅れ感も否めない4基のエンジンが、ややハードな接地から少し遅れて大きく音を上げ、一気に速度を落とす。
本当はもう30分早く、つまり予定より1時間遅れで済むハズだったが、別の飛行機が緊急着陸をすることになり、一度着陸をやり直すことになったのが原因だった。
滑走路から外れて、ターミナルへ向かうトリコロールの機体。機体側面には、フランス国旗をモチーフとしたロゴに並ぶ形で、シエルフランスとフランス語で綴られている。
その一番後ろの窓から、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳が、駐機場の端に止まる1機のプライベートジェットを捉える。……あれが無ければ、もう30分早く着いた。しかし、国際線が遅れるのはよく有る話で、定刻から90分で済んでいるのだから、まだマシな方だ。1ヶ月前の東京からのフライトは、台風の影響で8時間遅れだったほどだ。
少年は、客室乗務員からのフランス語での挨拶に、微笑みながらフランス語で返す。フライト中から、日本人とは思われていないようだったが、それは外見故か。どっちにしろ、こう云う時でもフランス語が喋れるから問題は無いのだが。
オッドアイが印象的なシルバーヘアの少年は、混雑するイミグレーションを難無く通過し、パリで預けたスーツケースが出てくるのを待った。到着から50分後のことだった。
夏休みでよかった、とディープレッドのショルダーバッグを肩から提げた彼は思いながら、日の丸とトリコロールのステッカーが貼られたグラファイト色のキャリーのハンドルに手を掛ける。
それに貼られた名前のスペルは、Luna。
流雫。これで、るなと読む。日本で生活するために、元の名前ルナに漢字を割り当てた。理由は、彼が生まれた日に出身地パリでは雨が降っていて、雫……雨粒が窓から流れ落ちていたから、らしい。
宇奈月流雫。日本人の父とフランス人の母との間に生まれた混血で、夏休みに実家が有るブルターニュ地方のレンヌに帰省していた。数日後から、日本では2学期が始まる。それに合わせての帰国だった。
パリで生まれたが、両親はビジネスの都合でレンヌにいて、小学校に入るタイミングで日本に1人帰化して移住、ペンションを営む親戚に預けられている。その生活を10年、過ごしてきた。
尤も、誕生日は7月だから日本の親戚とフランスの両親の両方から祝われるし、今はウェブカメラやスマートフォン越しに会うことはできるし、そこまで不便には感じていないが。
日本特有の蒸し暑さは、このターミナルではそう感じない。しかし、ここから電車で1時間半かけて帰ることになる。更に問題は、降りた後だ。
身体に纏わり付くような熱気を思うと、軽く憂鬱になる。しかし、此処から動かないワケにはいかない。軽く溜め息をついた流雫は、地階の駅へと向かい始めた。
2023年。2019年の大晦日に第一報が海外から飛び込んできた感染症の影響が直撃する中、2年前に半ば強引に開かれた東京オリンピックは、経済回復に寄与しなかった。しかし、その後の起死回生の経済復興政策の結果、日本は再びインバウンド需要に沸き返った。だが、同時に外国からの不法難民の扱いに苦心することになる。
四方を海に囲まれた島国の日本は、陸路での入国は不可能ではあるが、代わりに船でやってくる不法難民を全て取り締まることは不可能で、既に少なからず街に溶け込んでいる。そして、それに対する生活支援を巡るデモも時々発生しているが、その中の過激派が暴徒化し、機動隊と衝突する事件も起きた。
従前レベルまでの経済復興をほぼ成し遂げた日本の次の課題は、悪化した治安だった。
エスカレーターを下りようとした流雫の目に、数人の男が見える。大きな、登山用ほどではないが大型のバックパックを地面に置いて広げ、荷物整理をしている。
それ自体は空港でもよく見る光景だ。しかし、そこに黒の光沢を見た。何故かは判らないが、一瞬イヤな予感がした彼は、エスカレーターに乗ろうとした足をステップに落とさず、背を向けた。それと同時に……。
轟音、そして地震とは違うインパクト。階下から一気に上がる煙、けたたましく鳴り始める火災報知器と重なる悲鳴と怒号。
「走れ!!」
と誰かが叫んだ。それと同時に聞こえ始める銃声。
流雫は、スーツケースを捨てて走った。何処が安全なのか知らないし、何しろ空港の警備員も含めて誰1人冷静に、今何が起きているか脳が追いついていない。
偶然開いた到着ロビーの自動ドアから受託手荷物の受取場に入ると、逆走防止のストッパーの下を潜る。本来は保安上御法度で、案の定警備員と空港職員が彼の前に立つ。しかし血相を変えた流雫からは
「ばっ、ばくっ!人っ!たすけっ!」
と断片的な言葉しか出てこない。
爆発音と振動に、その場に居合わせた乗客たちもその場から動けない。職員は、流雫の様子を見ると、咄嗟に制限エリアの方へ流雫と乗客を避難誘導した。
本来、一度受託手荷物の受取を過ぎると戻れないし、戻すことは空港の保安上重大な規約違反だが、今は文字通り非常事態だ。
流雫は2時間前まで機内で、空港でテロリストと戦う警察モノのフランス映画を見ていた。ド派手なCGの演出で、施設や飛行機が爆発していた。
それと似ているが、決定的に異なるのは、フィクションか否か。そして今は当然、後者だ。
どれほどの時間が経っただろうか。……アナログのスマートウォッチに目を落とすと、2時間ぐらいだったことを知らせる。夏の終わりの太陽は、その角度を少し変えただけだ。しかし、半日ぐらい経ったような感覚になるほど、頭が時間の認識さえも鈍らせていた。
出発フロアでは保安検査場は閉鎖され、搭乗ゲートの改札も止まった。国際線のターミナルビルは足止めされた旅行者が密集し、中には警察官や警備員に詰め寄る者もいた。そして飛行機から降りてきた旅行者は、制限エリアに缶詰状態となった。
ターミナルから手荷物返却場を逆走してきた流雫は、彼を保護した空港職員から、制限区域へ逆走したことを咎められた。ただ、前代未聞の非常事態だっただけに、形式上に留められた。
重要参考人として警察官に引き渡されることになり、空港島の端の警察署へ連行された。無機質で殺風景な部屋に通されると、目撃者として何を見たか話すことになった。出されたアイスコーヒーを見つめる、オッドアイの目は曇っていた。
……男たちのバックパックに、遠目に少し不気味な何かが見えたこと。それが何かは知らないが、とにかくイヤな予感がして、エスカレーターに乗るのを止めたこと。何かが爆発した音と同時にフロアが揺れ、誰かの言葉で走り出して、直後に銃声が聞こえ始めたこと。逃げ惑う中、安全そうな場所が手荷物返却場だと思っていたこと。
……2時間半前の記憶だが、できることなら今すぐにでも葬り去りたい。それでも、必死に掘り起こして動揺混じりに話した。時折、落ち着かせようと飲んだアイスコーヒーは、この時ばかりは苦味も酸味も何も感じない、ただの黒い液体でしかなかった。
あのプライベートジェットが緊急着陸しなければ、あと30分は早く着いていた。そうすれば、今頃は何事も無く、居候しているペンションまで帰り着いていたハズだった。飛行機が遅れただけで、まさかテロに遭遇するとは思っていなかった。何かの番組のサブタイトルを真似すれば、致命的な遅れと云ったところか。
……まさか、日本でテロとは。それが流雫の正直な感想だった。確かに、この2年足らずで凶悪犯罪も増えた印象は有る。ただ、それでもフランスでほぼ毎年発生しているようなテロは起きないだろう、と思っていた。その理由を問われても、今までが平和だったから、としか云いようが無いが。
よく、日本は平和ボケしていると言われるが、まさにその通りなのだろうと、流雫は思い知らされた。ただ、日本には百聞は一見に如かず、と云う言事が有るが、こればかりは一見より百聞の方がよかった。
コーヒーを飲み干して、警察官が書いた調書を確認する流雫は、ただ早く帰りたい、今日のことを忘れたいと思っていた。
警察署を出る間際、別の警官がスーツケースを流雫に手渡した。あの混乱の中で避難優先で置き去りにしたのが、このタイミングで戻ってきた。誰かに蹴られた足跡こそ有ったが、それだけだったのは奇跡だと思った。
足跡をウェットティッシュで拭き取っていると、彼のスマートフォンが鳴った。ネット通話機能を兼ね備えたメッセンジャーアプリからの通話の着信通知。1日前に別れたばかりのフランスに住む母親からだった。
フランスは朝だが、偶然ブレイキングニュースを見て、流雫の飛行機を調べ、慌てて掛けてきたらしい。流石、旅行関係で働いているだけの事は有る。無事だと伝えると、ライトブルーの瞳で、眼鏡を掛けた母親が安堵の溜め息を零すのが聞こえた。
その1分後、今度はペンションを営む親戚から掛かってきた。それもニュース速報を見ての事だったらしい。
流雫は無事と伝えた後で、帰り着くのがかなり遅れるだろうと話した。事件は収束したものの、爆発の影響で地階が封鎖され、鉄道が使えなくなっていた。
残る手段はバスだが、それもこの混乱で何時乗れるか判らない。それなら逆に、空港の無事なところで時間を潰し、バスと列車を乗り継ぐことで帰ろうと思った。
それから2分遅れて、最後に掛かってきた相手は、流雫が通う高校で交遊関係が有る3人の同級生、そのうちの1人だった。
しかし、その男子生徒は彼の無事を確かめたかったワケではなく、逆に彼を崖に突き落とした。
……一度前置きを受けた後で、突き付けられた残酷な現実。その一言に、流雫は目を見開き、唇を震わせ、スマートフォンを持ったまま文字通り膝から崩れ落ちた。コンクリートを移す視界が一瞬で滲む。
生き延びた天国から、地獄に突き落とされた感じがした。力が入らない体で、少年は空を見上げた。彼を嘲笑うかのように晴れた、何処までも碧い空に向かって、狂ったように泣き叫んだ。
碧一色の空を滲ませる流雫に、ふと或る名前が浮かんだ。
ファウスト。ドイツでは有名な伝説で、400年以上前から様々な文学、芸術作品の題材として広く使われてきた。16世紀頃に実在したとされる博士の名、ヨハン・ファウストが由来で、現在では19世紀に発表されたヨハン・ゲーテの戯曲が最も有名だ。
結末も含め、展開は作品によって異なってくるが、大まかな概要は共通している。
ファウストは己の人生に満足せず、悪魔メフィストフェレスと契約を交わす。16世紀の劇作家、クリストファー・マーロウの作品では24年とされるその期限が切れた後、永遠に地獄に落ちることを条件に、人生のあらゆる快楽や知識を欲しいままにできる魔力を、悪魔から与えられると云う契約だった。
そしてその死後、悪魔は魂を地獄へ連れ去ろうとする。
……もし、流雫がファウストのようにメフィストフェレスを召喚できるのなら、今この場ででも召喚しようとし、そして契約しただろう。死後、永遠に地獄に落ちることと引き換えてでも、悪魔の力で或る少女を生き返らせられるのならば。
しかし、死者を生き返らせることはできないのは、どの作品でも同じだった。少女は、もう戻ってこない。
それぐらい、何度も読み耽ってきたから判っている。判っているが、形振り構わない。とにかく生き返らせたい、生き返らせられるものなら。
それだけが、今この瞬間の彼の願いだった。
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