OP In My Eyes In Your Eyes
雲一つ無い、綺麗な蒼のスクリーン。未だ冷たさを残す東京の空は、同じような蒼を纏いつつも、蒸し暑かったあの日を思い出させる。
……僕の瞳に映る、僕が生きてきた証。あたしの瞳に映る、あたしが生きていく光。その全てを引き寄せたのは、あの日世界から切り取られた少女が掛けた、最初で最後の魔法だった。今ではそう思える。僕とあたしが、この世界で彷徨わないようにと。
狂ったように泣き叫んで、それでもまた立ち上がって。何度も繰り返して、この手に掴みたかったのは……。
「美桜、明日河月駅に何時だっけ?」
スマートフォンのスピーカー越しに聞こえてくる同級生の声に、美桜と呼ばれた少女は
「8時かな?」
と答える。壁に吊り下げられたカレンダーには、志織と東京とだけ書いてある。
ウェーブが掛かった黒いセミロングヘアを撫でながら、ピンクの薄いルームウェアに袖を通した欅平美桜は明日の楽しみを抑えられず、微笑んでいた。
……明日は同級生、笹平志織と2人で日帰りで東京に行く。1学期の終業式の日に立った予定は、生まれて初めての東京だ。そして、同時に恋人が日本に帰ってくる。フランスに里帰りしていて、それから戻ってくるのだ。尤も、その足で会う約束はしていないが。
日本時間22時。恋人を乗せた東京行きの飛行機は、その頃の出発と聞いていた。
……両親と離れて暮らす彼の、年に一度の里帰り。だから初めてのデートは2学期に入って、と云う話になった。夏休みにデートできないのは残念……と思ったが、しかし家族といられる時間がどれだけ大事か、それは彼を見ていて思い知らされた。
……フランスにルーツを持つハーフの恋人。流雫……ルナと云う名前からも、それが窺い知れる。
何時も何処か陰を抱えたような、寂しさを湛えた目をしていた。それでも、入学式の初対面の時よりは、少しだけ明るく見えるようになった。少しだけ、その積み重ねでもいい。ゆっくりでもいい。少しずつ、彼から孤独感が消えていけば。私はそう思っていた。
私が流雫を意識したのは、その日本人離れした見た目に惚れたから、ではない。彼の陰が引っ掛かったからだ。最初の面倒そうな、少し鬱陶しそうにすら思えるような私への反応も、ただどう接するべきかが判らなかったからだった。
人と話す、仲よくなると云う経験値の明らかな不足は、しかし私といれば取り戻せる……そう思った。そうして接しているうちに、悪い言い方をすれば飲まれていった。
「よりによって宇奈月かよ」
流雫が私の告白を受け入れたことを知った男子生徒からは、そう云う愚痴も聞こえた。志織や同級生の女子からは、流雫への嫉妬だと言われた。しかし、意に介する気は毛頭無かった。
……簡単に覆るような恋心なんて、恋愛じゃない。高校生の分際で生意気な持論だと言われるのは判っていたが、誰にも覆すことはできなかった。
流雫は流雫で、人と接すると云うスタートを一気にすっ飛ばして恋人になる、と云うようなことだったから、最初は戸惑いが滲んでいた。しかし、少しずつ私の存在を意識するようになった。それと同時に、同級生からの嫉妬は無くなった……ワケではないが減っていった。
……私の好意を裏切れない、無碍にするワケにはいかない。そう云う、彼自身が生んだ義務感と云うかプレッシャーのようなものが、彼の根底に少なからず有ったと思う。ただ、それでもよかった。流雫が私を好きでいる、私の恋人であることさえ変わらなければ、後は時間が少しずつ変化をもたらしていくと思ったから。
ふと時計を見ると、既に23時近く。そろそろ寝ないと起きられない、と思った。カレンダーの日付26日にバツマークを付け、部屋の照明を消した。
大都会東京、何処に行くかは未だ決めていない。高速バスは新宿に着く。池袋と渋谷、首都タワーは定番だと思う。
ただ、初めての東京。結局は何処に行っても面白いだろう……そう思いながらも、私は同時に、それなら東京の空港に着いたばかりの流雫を誘ってもよかったか……と一瞬思った。
今となっては後の祭りだが、9月に入ればようやく2人きりで遊べるから、今はそっちへの期待を募らせるだけだ。
目を閉じた私の意識は途絶えた。目覚めれば27日、夏休み最後の日曜日。
シャワーを浴びた身体に、エアコンの風は天国そのもの。ライトブルーのルームウェアに袖を通し、無糖炭酸飲料のペットボトルを手にした少女は、濡れたダークブラウンのセミロングヘアにタオルを当てた。
「澪、明日は?」
そう問うてきた母に、澪と呼ばれた少女は
「ちょっと図書館に。残ってる宿題、全部終わらせてくる」
と答えた。
同級生2人が、あたしの最寄りの図書館まで来る。そして3人で一気に終わらせる。
「夕方ぐらいには帰れると思うわ」
と続けたあたしは、自室へ戻った。
母の前職は警察官。そして父は現職の刑事。謂わば警察一家に生まれ育った。その父は、大きな事件が起きれば数日間は家に帰ってこないことだって有る。幸い、今は直接担当している事件は無く、他の業務を手伝ったりしている。
話を聞く限り、一度何かが起きれば激務になるし、一家3人で何処かに行ったりした記憶は殆ど無い。それでも、澪は平和な日常を送れる陰の立役者としての父を、誇りに思っていた。
ベッドに座ったあたしは、開栓したばかりの炭酸飲料を喉に流す。舌の上で弾ける泡の刺激が好きだった。
机に置いたスマートフォンが、短い通知音を鳴らす。
「明日、9時ぐらいに行くね」
と、同級生からのメッセージが3人のグループに届いていた。ほんの少し遅れて
「ボクもそれぐらいに着くよ」
と云う返事が、もう1人の同級生から届く。
温和とボーイッシュ。或る意味対極の2人は、あたしと仲がいい同級生の全て。入学式の直後から、気付けば女子3人で固まるようになっていた。波長が合う、それすら意識していないほどに自然だった。
「じゃあ、駅前で待ってるね」
と返事を返したあたしは、明日持って行くノートや学校で配布された問題集を鞄に詰めた。室堂澪、と細字の油性マーカーで表紙に書かれた名前は少し掠れている。
8月最後の日曜日も、天気予報では快晴。暑くなるのは判りきっているが、図書館だから冷房が入っていて涼しい。しかし、それも有る上に大学受験を控えた高校3年生が自習室に大挙するのも、目に見えている。朝から混むだろう、と思った。
何でもない1日が、あと1時間で終わる。明日も1日、平穏であってほしい。そしてこの時間、今日と同じことを思いながら目を閉じる……。
年頃らしくない地味なことを願っていると云う自覚は有る。ただ、家族や好きな同級生と過ごせることが、何時までも続いてほしい。
そう思ったあたしを、睡魔が襲ってきた。今日はそれに抗わず、ベッドに潜った。
故郷レンヌを発った高速列車TGVの終点は、パリのモンパルナス駅。1ヶ月ぶりにフランスの首都に戻ったシルバーヘアの少年は、すぐ近くに聳える超高層ビル、トゥール・モンパルナスを特徴的なオッドアイの瞳で見つめた。屋上まで上がったことは無いが、何時見ても圧倒される。
白いシャツに白いUVカットパーカーを羽織り、下はデニムを履いている。肩から提げたショルダーバッグはディープレッドで目立つ。
ル・ビュス・ディレクト……日本で云うところの空港リムジンバス……は満席。それに揺られ、13時にロワシー、シャルル・ド・ゴール空港に着いた僕は、発着案内板に目を向けた。
パリ発東京行き、シエルフランス機の出発時刻は、15時から17時に変わっていた。2時間遅れ……長距離国際線では時々有ることだ。だが、急遽生まれた2時間をどう潰すか迷う。
空港のショップで、トリコロールをモチーフにした気になるシャツを見つけたから、日本での普段着用に買い漁るのは決めてある。だが、それ以外は何も決めていない。ロビーで電子書籍を読むかネット配信のアクション映画を見るか……。
ひとまず、少年はシャツを買い漁ることにした。フランスの誇り、とフランス語で書かれたシャツを手にする。何色かカラバリは有ったが、ネイビーと白を多く選んだのは、流雫にとっての祖国のイメージがその2色だったからだ。帰化しても、流雫の祖国はフランスであることに変わり無い。
10枚ほどのシャツをスーツケースに詰め、僕は航空券を発券することにした。フランスで発行したデビットカードを手に、シエルフランスのカウンターに並ぶ。グラファイトのスーツケースを預け、受け取った航空券に印字された名前は、Luna。
……宇奈月流雫。見た目もそうだが、Runaではないスペルで、僕が元々日本人でないことに察しが付くだろう。
両親と離れ、日本の親戚に預けられるようになって9年。毎年夏休みにフランスへ帰郷するのは、僕の恒例行事だった。
西部の都市レンヌで家族と過ごした1ヶ月、それが有るから来年まで寂しく……ない。ビデオ通話も有るから、両親とは時差と云う壁しか無い。
保安検査もイミグレーションもクリアし、搭乗ゲート近くのソファに座ると、僕は溜め息をついた。寂しくない、とは思っているが、この飛行機に乗る前の時間は最も意識する。
16時。日本では23時。紙コップに注がれた安いコーヒーを目の前のショップで手に入れた僕は、片手に開いた電子書籍アプリ、その先頭に表示されたフィクションを開いた。
……隣国ドイツのフィクションで、簡単に言えば戦闘しないファンタジー。日本でも翻訳された書物が売られている。読みにくいのは、小説ではなく台本のようなものだからだ。
……ファウスト。ストイックに神学まで究めながらも、悪魔と契約を交わして神を捨て、快楽に溺れた挙げ句地獄へと堕落する……簡単に言えばそう云う話だ。
神の信仰を疎かにした者の末路として、時には低俗な娯楽として、時には反面教師として幾度となく書籍化、舞台化されてきた作品。
ただ、18世紀にヨハン・ゲーテによって書かれたものは、それとは或る意味一線を画していて、身構えることなく読める。だから僕は、ゲーテのそれが好きで、フランス語版と日本語版の両方で読んでいた。
白い画面に規則的に並ぶ黒い活字を追っていると、フランス語と英語で東京行きシエルフランス便の搭乗案内が聞こえた。僕はアプリを閉じて、搭乗ゲートの列に混ざろうと立ち上がった。
2時間遅れの飛行機は、4発のエンジンから咆哮を上げながら重力に逆らい、滑走路から離れる。母国でなくなった今でも世界一好きな国の世界一好きな街、パリを見下ろしながら、小さくなる景色から目を逸らした僕は、小さな溜め息をつく。
……12時間後、この飛行機は日本に着く。そして数日後に迎える始業式で、僕は今年初めて仲よくなった同級生……そして恋人と再会する。日本に移住して以降、その見た目故に同級生たちから敬遠されてきた僕が、戸惑いながらも初めて手にした細やかな幸せ。
戸惑いは、未だ残っている。しかしそれも、時間の問題……だと思いたい。
離陸から1時間近くが経ち、客室乗務員が最初の機内食を運んできた。飛行機はドイツ西部上空を飛んでいる。今は夜中1時の日本に到着するまで、あと11時間。
代わり映えしない日常。誰もが当然のように享受している平和。しかし、それこそが何よりの幸せだったと思い知らされることになるとは、誰も思っていなかった。
崩れゆく少女の未来が、少年を絶望の深淵に突き落としたこと。後に少年に伸びる手が、戦慄に震えていたこと……。その全てが始まる運命の日……2023年8月27日。
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