第93話 童貞の悩みはお粗末さん(4)
「悪魔のゲームの対価ね」
女主人が言うと、トキハがイッサクに詰め寄った。
「持っていかれたのは、内臓だとおっしゃってたのに!?」
だんまりを決め込むイッサクの代わりに、女主人が言った。
「内臓って売っても数百万でしょ?そんな掛け金で、致命傷を一瞬で治す薬とかが、いくつも手に入るわけないのよ」
「では、お兄様は一体何を対価に?」
「イッサクという存在そのもの」
女主人の美しい顔が冷たい刃のように向けられ、それから逃れようとイッサクは首を限界までねじっている。
デスノスが声を上げた。
「では、こいつの妙な存在感の薄さや、国民が顔を覚えていないのはっ!?」
「そのうち私達も、この男の顔も名前も思い出せなくなるでしょうね」
「なんてことをっ」
トキハが悲鳴を上げた。
イッサクは、大きく肩を落として女主人の美しい顔を見る。
「詳しいんだな。虚ろな悪魔ヴァのこと」
「言ったでしょ?昔にちょっとって。なんでこんなことしたの?」
「そりゃ、女神様を相手にするからさ」
女主人は美しい顔から、微笑みと優しさを消した。
「はじめから消えてなくなるつもりだったの?」
デスノス、ヒスイ、トキハ、リリウィが愕然とイッサクを見た。
イッサクは情けなく笑って、みんなの顔を見回して言った。
「自分のお粗末さにほとほと嫌気がさしていたからな。だから全部を賭けた。それだけさ」
「何もなかったことになるのよ?」
「本当はそれがいちばんいいんだよ。だけど……」
「けど?」
イッサクはもう片方の指を喉につっこみ、テーブルの上に、小さな黒い瓶を吐き出した。
その瓶にデスノスが反応した。
「それは地下の宝物庫あった、GGレアとかいう」
黒い小瓶を邪神像と並べて、イッサクはため息を付いた。
「こいつは神の決定すら覆せる万能薬だ。
これを使えば、悪魔との契約も反故にできる。
いますぐ消えなくても良くなる。
そう考えたら欲が出てきた。もうすこしミナを見ていたくなった」
女主人が、イッサクの腕を掴む手に力を入れる。
「もう消える気はないということ?」
「情けないことに」
イッサクが力なく笑うと、それをみて、デスノスたちは胸をなでおろす。
女主人も、イッサクの腕を離して、子供を叱るように微笑む。
「あんたはバカね。本当に大切なものは、与えられるものなのに」
そうして白い指で邪神像を弾いた。
テーブルの上で、邪神像はゆらゆらと揺れ、ことりと倒れた。
イッサクは呟く。
「俺は十分に与えられたさ。
だから邪神様を解放して、ミナへの危険を取り除く。
俺のことはその後だ」
イッサクは邪神像をもとに戻し、「さて」とナマクラの剣を取り出し、左の手のひらに薄く傷をつける。
デスノスが覗き込んできた。
「お前の血は、封印も解くことができるのか?」
「こっちが本来の用途だよ」
「……大丈夫なのか?」
「なにが?」
「ここで封印を解いたら、店が」
「あー……」
神様の封印を解いたとき、何が起きるのかイッサクは知らない。
地味に終わればいいが、もし派手な演出みたいなことが起きれば、店が無事である保証はない。
イッサクはちらりと女主人を伺うと、女主人は見透かすように笑う。
「そうなったら面白いわね」
「……」
イッサクは引っかるものを感じながら、そういえばと、リリウィに振り向いた。
「お前はいいのか?」
「なにがぁ?」
「いや、心の準備とか、そういうの。数百年ぶりの再会だろ?」
「うーん、なんかノラない」
リリウィも気のない返事をし、イッサクは嫌な予感がした。
なにか重大な勘違いをしているのではという、不安が湧き上がってきた。
とはいえ、ここで立ち止まる理由はない。
イッサクは気を取り直して、邪神像と向き合う。
これで終わるはずだ。邪神様から見せられた夢から始まり、ミナの消失を回避するイッサクの悪戦苦闘がこれで。
血が滴る左手が、邪神像に触れた。
「王命」
乾いた音をたてて、邪神像に亀裂が走り、ぷしゅと風船がしぼむような音がした。
それだけだった。
それ以上、何も起きなかった。
呆然とするイッサク。
デスノス、ヒスイ、トキハもきょとんとしてる。
するとリリウィが頬杖をつき、鼻を鳴らした。
「やっぱコピーだったかぁ。そんな気はしてたんだ」
「え?……あっ」
イッサクは春暁の館でのことを思い出した。
たしかにあのとき、リリウィは、この邪神像が本物なのかと聞いていた。
「ちょっとまて。お前だったら、邪神様の気配で偽物かどうかわかってただろ?」
イッサクはたまらず声を上げた。
リリウィはしきりに首をひねっている。
「そうなんだよねー。
それにもヨーちゃんの気配があったんだけど、なんか微妙だったんよ」
「なんか微妙ってなんだよ!?」
イッサクはガリガリと頭をかきむしった。
リリウィの言うとおりならば、イッサクはニセの邪神像を手にとったのだろうか?だがすぐにその考えを否定する。
「この邪神像は本物だ。間違いない。間違いようがない」
いまにも頭を抱え出しそうなイッサクの目の前で、女店主が微笑む。
「だったら、どういうことになるのかしら?」
女主人は、まるでなぞなぞが解けない大人をからかう少女のように楽しげだ。
イッサクは苦り切って、天井を仰いだ。
「一体何がどうなっているんだよ……」
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