第66話 正妻(自称)は問いただしたい(4)
悄然としていてもミナは月夜に濡れる花のようで、しばしその顔に見入っていたイッサクは、慌てて目をそらした。
この美しい女に、このような顔をさせている自分こそが悪である。
ミナの美しさはイッサクにとっては災厄であり、その理不尽さに改めて絶望する。
「そんな顔をするなよ。別に責めてないし、ラヴクラフトとのことも不義だ密通だなんて思っていない。
責められるべきは、お前たちを引き離した俺達だ。
俺から開放されて、お前は自由になる。だからそんな顔をするな」
「自由……。私が?」
ミナは赤くなった目をゆっくりと上げる。
「ああ。ラヴクラフトと家庭を作るのもいいし、この国で独裁してもいいし、いっそ大陸を征服してもいい」
するとミナはやおら立ち上がると、イッサクに覆いかぶさった。
カーテンの隙間から差し込む秋の西日が、ミナの裸を薄い生地の向こうから浮かびがらせる。
長い髪が輝きながらイッサクの胸をくすぐり、瞳が真珠のように潤む。
胸の谷間から立ち上る香水がイッサクの理性を揺さぶり、そしてミナは白い左手をイッサクの頬に伸ばす。
「だったら、私のものになって。私をあなたのものにして」
だがイッサクは、乾いた音を立ててミナの手を払い除けた。
「それはだめだ。俺は童貞でいたいんだ」
その言葉にミナは答えない。
イッサクに叩かれた左手をぎゅっと握って動かず、頬が僅かに上気し、心ここにあらずという体だ。
「(しまった)」
イッサクは心中狼狽した。
咄嗟とはいえ、ミナに触れてしまったことを悔やんだ。
やがてミナはイッサクを陶然と見つめて言う。
「私はあなたとひとつになりたい」
イッサクはガリガリと頭をかきむしった。
「でもラヴクラフトとのセックスは忘れられないんだろ?」
「それは……」
「皮肉じゃないからな。特に3ヶ月前の俺をめった刺しにした時のお前はすごかった」
ミナは罪人のように恐縮し、項垂れ、慈悲を乞うようにイッサクを見上げる。
「……知っていたのに、どうして止めなかったの?怒ってくれなかったの?」
「俺が文句を言うのは筋違いだろ。お前との関係は、そもそもニセモノだ」
「ニセ……モノ……」
ミナの手足が冷たくなっていく。
「お前は妙に責任感が強いからな。義務と愛とを勘違いしているんだよ。
よく考えてみろ。
恋人と引き離されて、見ず知らずの男と無理やり結婚させられて、夫から死にかけるほどのDVをされて、さらに数年間会話もなく放置。
これでどうやって愛と呼べる繋がりができる?」
「それでも、私の心はあなたをっ」
「いいや、それは思い込みだ。
俺たちは快楽を得るから愛するようになるんだ。
俺とお前の間には、ふれあいがない。快楽がない。言葉すらない。
だから愛もない」
イッサクの言葉に、ミナは全身が凍りついた錯覚を覚えた。
いまイッサクはミナの体の下にいる。
お互いの吐息を感じるほど近くにいる。
だがイッサクの言葉と目は、溶けない氷の壁のようにミナに近づくことを許さない。
「あなたが触ってくれさえすれば私は……」
「触られたら、お前はどうなるんだ?」
イッサクの言葉が冷たく響き、ミナはわずかに体を強張らせる。
「俺はお前に触れるわけにはいかないんだよ」
「それは、わたしが汚れているから?」
「お前が汚れているというなら、お前を汚したのは俺達だ。
俺達はクズの家系で、汚穢そのものだ。
俺がいまだに王城でなんて呼ばれているか、知っているか?」
「……ロリ王」
「ロリは濡れ衣だ!
つーか子供のマノン相手にマジになるなよな!
結婚して以来一番引いたぞ、あれ!」
「あなたの二つ名って、あの中二病みたいなやつでしょ?たしか、最悪の王」
「自称したことないからな?
俺は生まれてすぐに、こいつは王族を滅ぼす最悪の王になるって予言された。
まあ実際、凡庸だったオヤジがクズになったのも俺の影響だしな」
先代の王のことが話に出ると、ミナの肩がわずかに強張った。
だがすぐにミナはイッサクを睨みつけた。
「くだらない」
「あん?」
「そんなことで、私を拒むなんて許さない。
もう私はあなたよりずっと強くなったのよ。
そんなに予言が心配なら、私があなたを守ってあげる。
だからあなたは黙って私のものになればいいのよ」
ミナは切り伏せんばかりの目でイッサクを見つめる。
さすがは国の宝剣として、並み居る敵を屠ってきた女だ。
この女なら、その圧倒的な人間の力で、あらゆる障害を叩き切るのだろう。
イッサクは深く長いため息をついて言った。
「お前は怖いな。自分の意志と力を微塵も疑わず、いまや大陸最強だ。
お前なら、世界を一つにできるかもしれない。
でも俺はお前のそういうところが大嫌いだ。
それこそ殺したくなるほどにな」
イッサクはミナを見据え、ミナもその眼差しを正面から受け止めた。
二人は初めて、心をぶつけ合っていた。
「それがあなたの本心?」
「そうだ」
「私と一つになってくれないの?」
「御免こうむる」
「なら仕方ないわね」
するとミナは数歩離れると、楽しげに微笑み、戦場に降り立った戦女神の威風を持って、イッサクを見下ろした。
「だったら戦争をしましょう」
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