水槽と眼

ミナベシオリ

第1話

 柔らかな夜の空気の中をひとり逃げていた。

 夏だった。湿気で衣類が身体にぴったりと張り付いていて、ほとんど隙間がない。胸と下着の間に一本太い毛が挟まっていて、その毛のまわりが唯一僅かな隙間をつくっていた。そこで外気の細かな水の粒は汗と混じり、身体の下流に向かっていった。纏う水気がわたしから出たものなのか、まわりからやってきたのか、すでによくわからない。空には星がよく見えて、それなのにとても月明かりが明るい。不思議な夜だった。

 ウィンカーを右に出す。小さな光が眩しくて明滅を追えない。少し頭が痛いような気がした。指で窓を触りひんやりとした感覚を味わいながら、信号が変わるのを今か今かと待っている。今日も疲れた。いつもと同じように。いや、いつも以上に?

 ――眩しい。

 対向車?車のライトが近い。

 明らかに同時に前進してはいけない車が動いている、と気づいたのは明確に右足のペダルを踏んだあとだった。

 あ

 一瞬血の気が引いて、ブレーキを強く踏んだ。後ろの座席に積んでいた荷物が勢いよく落ちる音がした。いけない。何がどこにあたったのかがわからない「ゴンッ」という鈍い音が響いた。一つ前の信号が青になったのを自分の目の前の信号が切り替わったと勘違いしたらしい。

 ただでさえ湿っているシャツがまた一段と湿り気を増してきた。毛穴の一つ一つが汗を排出しながら小刻みにふるえているようだった。少し静止して、生暖かいため息を吐いたところで、目の前の信号も青になった。バックミラーを見るが、真後ろには車はいなかった。首を素早く動かして、視線を右の後部座席の窓から右前方へ移動させた。

 やってしまった。

 歩行者や自転車が進行方向にいないかどうかを、呼吸を確かめながら数度確認した。安堵して、アクセルを踏む。車のアイドリング防止機能が解除されて、やや大げさなエンジン始動音がドドッと鳴り響く。

 気をつけなければ。わたしはほんの1時間ほど前までバーで酒を飲んでいたことを思い出して、大きく息を吸い込んだ。酔っている時に感じる熟れた柿のような匂いが、確かにした。

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