コードネーム・ナインの正体

おふとあさひ

第1話 総監の犬 その1

 梅雨の中休み、昼間の太陽は殺人的だったが、日が傾いてくると、新宿の裏通りには涼しい風が通り抜けた。


 黒いスーツ姿の山月彰斗やまづきあきとは、スラックスのベルトに通した小さな革製のバッグを開け、中のモノを取り上げる。フサフサとしたピンポン玉のようなそれは、丸まったまま、ヒクヒクと鼻頭を動かした。


「いい子だ、たまベエ。今日もよろしく頼むぞ」


 手の中の小さなネズミに口を寄せてそう言うと、山月はその場にしゃがみ、アスファルトの上にそれを放った。


 誰かが撒いたのか、たばこの吸い殻が散乱している。乾いた吐しゃ物もある汚い道路を、玉ベエと名付けられたネズミが駆け抜け、向かいのビルの暗いドアの隙間から、中に入っていった。


 山月は、警視庁警備部警備課の、いわゆるSP(セキュリティポリス)である。要人の警護には、慣れているが、自らの身を案じて行動することは珍しい。それほど訝しい誘いを受けていた。



 玉ベエが戻ってくるのを待つ間、山月はスマートフォンで、ニュース記事を読んだ。


『日経平均株価続投! 終値、史上初の十万五千円台』


 日本は、空前の好景気に沸いていた。

 税収も膨れ上がったのだろう。一時期、1000兆円を超えていたこの国の国債は、償還が進んだり、買い戻されたりして、あっという間に消えて無くなった。


 現総理大臣、相田の打つ手は、やることなすこと上手くいっていて、政府の支持率も90%を超えている。外交も含め、ほとんど失敗をしないので、相田首相には、未来が見えているのではないかとの噂が流れるほどだった。


 スラックスの太ももの辺りに、くすぐったい感触。いつの間にか、玉ベエが戻ってきて、山月の体をよじ登っていた。

「そうか、中に、客は誰もいなかったか」

 耳元で、そう報告を受けると、ひまわりの種を与え、玉ベエをベルトの皮バックに戻す。


 山月の緊張は、少しだけ解れたが、全快ではない。

 警備課の一SPが、警視総監に呼び出されることなど、聞いたことが無いし、ありえないと思っている。


 暗いガラス扉に手をかけた山月は、いまだに、信じられないでいた。

 新宿裏通りのひなびたバーを指定されたことが、怪しさを倍増させている。


 バーカウンターの向こうにいるマスターらしき男と目が合ったが、いらっしゃいませ、とは言われなかった。

 それが気に障るより先に、山月は、目に飛び込んできた店内の光景に息を飲んだ。


 中に、客と思しき男が一人いた。


 カウンターにロックグラスを置いたまま、壁に掛けられたボードに向かって立ち、ダーツに興じている。

(玉ベエが、しくじった!?)

 玉ベエが、この男を見落とすわけがない。これまで、ミスをしたことがないのに。


「なんだよ、怪訝な顔で見てくんなよ、気分悪いなぁ」

 スローイングの姿勢をとっていた男は、顔だけを山月に向けた。よくウェーブのかかった長髪から覗く顔は、三十路を過ぎた山月より、幼く見える。

「あ……あぁ、ダーツの邪魔したのなら、スマンかったね。そんな気は無かったんだ」

 山月は、男のロックグラスが置かれた席から、最も離れた椅子に座った。カウンターに置いてあるメニュー表を手に取る。


 何を頼もうかと考えている間、山月は、ずっと男の視線を感じていた。


「こっちも、そういう意味で言ったんじゃないよ。別にダーツをしてたわけじゃないんだから」

 見ると、男はダーツの矢を持っていなかった。カウンターの上に、男のマイダーツと思しき矢が三本置いてある。そのトルピードのバレルには、見たことの無い幾何学模様の溝加工がされていた。


 男は、三本のマイダーツとロックグラスを一緒に掴んでカウンターを滑らせ、山月の隣の席に移動してくる。


「キミが、山月くん? SPのスペシャリストっていう人? ダーツも得意なんだって?」


 長髪の男は笑っていた。最初の印象とは異なり、愛嬌たっぷりの笑顔で、目尻が垂れ、大きな口から覗く歯は真っ白で、綺麗に並んでいる。


「そんな、ドバトが鉄砲をくらったような顔すんなよ。オレも山月くんと同じ、警官なんだよ。今日、ここで会うことは、相田さんから聞いていたんだ」

「あ……、ああ、そうだったんだ……。キミも呼ばれていたのか」


 相田とは、警視総監の相田銀次のことだろう。

 写真や映像でしか見たことは無いが、ダンディで知性のにじみ出た顔立ちが頭に浮かんだ。


 皆、恐れ多くて「警視総監」と役職で呼んでいる相田のことを、目の前の男は「相田さん」と呼んだ。


 長髪の男から目を逸らす。山月よりも若そうなこの警官が、雲の上の存在である警視総監と親しそうな理由は、何だろうか。


 山月は、今朝、相田から電話があり、ここに呼び出された。直接かかってきたのは初めてで、用件を教えてもらえていない。あらゆる可能性を考えて、それぞれの模範解答を準備してきたが、見たことの無い男の出現は想定外だった。


「なぁ、ダーツで勝負しようぜ。オレもまだ、この店で投げたことはないんだ。条件は一緒だぜ」

「お、お前は、いったい誰だ? どこの部署のモンだ?」

 山月は、馴れ馴れしく肩を組んでくる男の手を払い、睨みつける。ため口なのも、気に喰わない。

「そ……そっか……まだ、名乗って無かったな、ゴメン、ゴメン」


 長髪の男は、頭を掻きむしった。はらはらとフケが落ちる。

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