第8話
今日もまた、神への祈りを忘れてしまっている。
「………はぁ」
式場の椅子に座り背もたれに持たれかけ、ただ呆然と女神の象を眺め溜息をミカエは漏らした。
なにもせず、ただ呆然と見上げている。
別に神に祈りなどしているわけでもない。むしろしているという風に表現するのならば、今現在ミカエがしているのは神への冒涜に等しい。
神などワタシ達を救いはしないないのだと、教会でそれも女神像の目の前で見上げて考えるなど恥知らずにもいいほどだ。
そんな、聖職者らしからぬ投げ捨てた考えにふけっては、そのたびに無気力感が増幅して何もする気が起きなかった。
「どうして……」
どうして、なんで、ごめんなさい……そういう鬱々とした諸々の言葉。誰かへ謝罪する訳でもなくただひたすらに口を開けば溢れてくる。
それを呟いて涙が溢れる時もあれば、訳の分からない笑みがこぼれて来るときもある。あまり正常な人間のする事とはいえず、自覚していながらも、どうすることもできなかった。
あの日、地獄のようなできごとからすでに三日程が経っている。いやどうだろうか、あの日からただこうしてここに座り続けているミカエにとって、その日数の感覚すらまともとは到底言い難かった。
何もせずに木陰に座る老婆のように。なにもしなければなにもしようとしない。そんなミカエを見かねて、食べ物や飲み物を込んできてくれたリムとロプトルは、あまり手の着けていないそれらを見る度に彼女を励ますような言葉を言っていたのかもしれない。
例えそうだとしても、そんなこと今のミカエの耳には届きようがなかった。
ミカエにとって、地獄はまだ終わっていないのだ。あれから教会にはミカエを除き、ロプトルとリム以外教会で見る顔はいなくなった。リアは寝たきりで起きないし、子供たちは犠牲――みんな死んでしまった。
あの後、地下室へ入り中を見渡すもあるのは血だまりばかりで、誰一人として残っていなかった。リムの読みでは子供たちが扉を開けてしまったのか、そもそも部屋の中にアイツらが現れたのか。そんなことを言っていた気がする。
泣いていたし、怒り狂って目まいがして混乱しながら嘔吐した。前の光景を見るどころではなかったし、今となっては記憶は曖昧で、実際に起きた事なのかそれともただの幻なのか自覚がない。でも、思い返そうとすれば自分が自分でなくなりそうになって、その度に悲鳴を上げ、自らの声で現実だという事実を実感してしまう。
だから、こうしてなにも考えずただ謝り続けて、神を無宗教者さながらに罵っている。
そうして、虚無の限りを尽くした人間のすることなど、大概が相場は決まっている。
ミカエは自身の鎖(ロザリオ)を顕現させて手に取る。その鎖の先に着く刃をただじっとりと見つめる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
生きていてごめんなさい。
助けられなくてごめんなさい。
ワタシが、こんなモノを使えるから…。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
全部ワタシのせいだ。
吸い込まれるように動いた鎖は、引かれて止まっていた。
ジャラリと鎖が音を鳴らす。
次いで、いつの間にか目を閉じていたミカエが目を開けた。それに一瞬安堵した溜息が微かに聞こえて、一瞬で緩んだ心となったミカエは、涙を滲ませ鎖の引かれた方を見上げた。
「バカ」
鋭く睨みつけて、でも暖かい一言は目の前で鎖を握り引くリムのものだった。
聞いたミカエの瞳から次第に涙がにじみ出る。
「……だって」
何を言っていいのか分からず、胸の奥から絞り出した言葉がそれだった。だって、全部ワタシのせいだから。ワタシが生きていたせいで。
そう、言いたかったけれども。それ以上の言葉はのどに詰まって、吐息と消えていく。
「あなたが死ねばリアが悲しむ」
その一言にハッと目を見開いて、ミカエはひどく落ち込んだ顔をする。勘違いした自分が恥ずかしいと。
「アナタはやはりリアが一番なのですね……」
「ええ。私が生きている理由はリア以外にないもの。ごめんなさい、でもこれは覆せない事実なのだから。幻滅したかしら?」
鎖を離し、自重したように聞かれた問いに、ミカエは涙ながらに首を左右に振った。
知っている。だから、悔しいのだと。善悪関係なく、素直に弱った自分にさえ妹だけが大事だと言える彼女のことが眩しくてミカエは仕方なかった。
だからなのか、堪らなくて申し訳なく(・・・・・・)なって手にしていた鎖を投げ捨てて、声を荒げさせた。
「ええっ、知ってますよ!! アナタがリアのことしか気にしていないなんて、だから……ワタシは死ぬべきなんです。罪を償って……」
そこでもう耐え切れなかった。顔を覆い隠し、うずくまって鳴き声を上げる。
呻くような鳴き声が伽藍の教会へと響く様は、悲痛なレクイエムが奏でられているようでもあった。
それにリムはなにも言わない。いや、言えなかった。あの時、ミカエが教会の子供たちを非難させて自身も一緒に避難していれば、あるいはと――そうすれば教会の子供たちだけは助かっていたのは事実で、引き換えとしてそうすればロプトルやリアは間違いなく……。
結果は袋小路だ。その程度のこと賢いミカエが考えない訳がなく、それをリムも分かっていたから、痛ましく何も言えなかった。
けれども、ミカエの言う罪とはなにか。リムはこの時、何も分かっていなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「ちょっとリムっ、なにミカエを虐めてるのっ!!」
葬儀のような悲しみに満ちた雰囲気を破り飛ばした怒号は、救い、だったのかもしれない。
教会の入口から叫び、慌てて走り寄ってきたのはロプトルで、彼女はリムを押し退けて泣くミカエの横に座り、そのまま抱きしめていた。
「ミカエ……。ちょっとリム、ミカエに何したの⁉」
「別にどうという訳では……」
「じゃあ、これは何だって言うの。あんなことがあって、そっとしておこうっていたのはリムじゃん!!」
「いやだから……ああ、もう……」
睨みつけるロプトルにリムはだからと、頭を抱えながらどう弁解すべきか迷った時。涙ながらに、ミカエがロプトルを遮った。
「違うの……」
「違うって、なにが……」
「違うの……」
「だから、なにが?」
「だって……街を襲われたのも、みんな死んでしまったのもワタシのせいなのですからっ」
慟哭して吐いた言葉に、ロプトルの目を剝いて止まる。
先ほどまで、漂っていた鬱々しい雰囲気は虚空へと消え、今度はただ、虚無の静けさが場を染め上げる。
小鳥の囀りが微かに聞こえると、静かにミカエは続けた。
再度顕現するミカエの鎖。
「ワタシがこんな力を持ってるから。ワタシはこの力で街の外に出て、ギニョールを毎晩狩ってたんです……。最初はただ、少しでも街の人の恐怖や笑顔を守る為に貢献できるならって、小さなころからやってた。
でも……している時に気づいた。ワタシはただ悪者を懲らしめて、それが楽しくて気持ちよくて堪らなく楽しんでていたんだって。
それはロプトル。アナタが来たから気づいたんです」
「え、何言って……」
焦点の合わない瞳でロプトルの顔を見て嘲笑するミカエに、言い知れぬ恐怖を感じたロプトルは生唾を飲む。
「アナタが来てからです。悪戯をされてそれに怒って罰を与えるたびに、ギョニールを狩っている時と同じ愉悦感と同じだなって……。
最初は気のせいだと思った。でも、それは悪戯されて怒って、街の外で狩りをするたびに同じだなって感じて。
それでも止められなかった、だって裁けば裁くほど気持ちがいいものっ。一人突き刺せば体の芯はうずいて、周り一体を駆逐すれば頭は溶けたようになる。
だから、そんな神に仕えながら見境のないワタシを裁くためにこんなことが……。
それにあの子たちだって本当は……」
人は人の上に立ち、正義を振りかざして気持ちよくなる。誰かの悪行に対してお前は間違っていると正論を述べるのは実に愉快だろう。相手は間違いている以上、世間一般的には絶対的に許されないモノであり。ゆえにそれらに対して悪は悪だと断じて上位に立つ。だれも反論しようもなければ、相手も罰せられて当たり前のクズである。結果、この世が認めた暴力。後ろめたさなどなければ、むしろ罪を裁くという感覚は極上の美酒となんら変わらない。
それを、毎晩毎晩、自分がそれに酔いしれていると知りながらも続けたのは、もはや悪を裁く悪と大してなんら変わりのない。
ミカエは神に仕える教会の主。そんな彼女は世の道徳をしりながら、悪は決して許さず自分の快楽の為に裁き続けた、それが今回の発端だと言っている。
そのことに咥え、ミカエはいま教会の在り方さえも今は後悔している。なぜなら、孤児院のようなことをしているのは間違いなく。形は違えど、正統さを盾にした快楽の一遍でしかないのだろう。と。
身寄りのない子供たちを集めて、面倒を見て、教えて、絶対正義の名のもとに自分の好きなようにするのは間違いなく。実に愉快だったと
聖職者でありながら欲に落ちてしまったから。総ては自分が悪いと。
「何言ってんの、よく分かんないよ。ねえミカエ、どうしちゃったの?」
「これがワタシなんです。快楽に目がくらんで人として破綻している……。今も、神様なんて糞だと、そう思っている邪な自分がいる。だから、こんなの神様が許す訳ないっ」
「……ミカエ」
焦点の定まらない瞳と震える両肩、鎖を握る手は震えて、今に、再び自身へと刃を突き刺すような勢いだった。
懇願するようにロプトルをへとすがるミカエだが、彼女とは思えぬ異形的な行いはロプトル恐怖心をより駆り立てて、気づけばロプトルの体は後ずさっていた。
そこに一言、小さな溜息と共に割るようにリムが言い放つ。
「ごめんなさい。あなたをそこまで追い詰めていたなんて。私は知っていたわ、毎晩、外壁の外へと行くのは。
だからこそ言わせてもらう。そんなことで奴らが天罰を下す訳がない。安心しなさいミカエ、アナタのしていたことはまがいなりにも街の人の役にたっていたのよ」
「じゃあ……なんで……」
「私が居るからよ。私の素性は覚えている? 私はこの街で唯一外の街から来た物。この外に出れば襲われる魔境を奇跡的に超えてね。だから、今回のこともいつか起きると知っていた」
見上げるミカエに、ただ淡々とリムは続ける。
「奴らは経緯は知らないけれども勇者を求めてる、勇者を役目としている物を。そして試練を与えて、その試練を乗り越えなければ街は滅びることになる。私の街のように。
私の役目は勇者よ。だから奴らが試練を下す原因は――」
「まって!!」
そこでロプトルが遮った。
「じゃあなに。リムは守護(マリア)が消えるのも全部知っていて、それを黙っていたっていうこと」
「ええ、とは言っても黙って待っていた訳ではないけど。毎晩外壁へ行っていたのも、異変が起きてもいつでも対応するため。ミカエが外に出ているのを見つけたのも、そのついで、たまたまだけど」
「ならミカエのせいじゃなくてリムの……」
「だからそう言ってるじゃない。私のせい――」
「もうやめてっ!!」
二人の話を止めたのはミカエだった。顔を手で覆い、うずくまって泣いて咆哮する。
「違うのっ、ワタシのせいなのっ、だからそうじゃっ」
その言葉にリムは眉をしかめ、言い返す。
「違うわ、私のせいよ。あなたは何の罪もない。人として当たり前のことをしていただけ」
「違うのよ。だって」
「違わない」
「……もういいよっ!!」
立ち上がったロプトルが叫んだ。もう我慢ならないと、彼女も涙を浮かべて目を真っ赤にして。今まで我慢していた何かが爆発するように、ただの少女は自分自身を荒立てた。
「そんなのどうでもいいよっ!! 誰が悪いとかなにがいけないとかそんなの知らないっ!! みんな死んじゃった、みんなみんな!! 街も壊れてリアも起きないっ、それが自分のせい? だからいまさらそれが何? 告白して謝ってどうにかなると思ってるのっ!? ミカエもリムも自分勝手だよ、ふざけないでっ!! 返してよ……」
そこで、声は小さくなってロプトルの膝が気が抜けたのか落ちた。
後は泣きじゃくるだけだった。止まらない涙を袖で拭ってただ、止まらない思いをさえずる。
「ねえ返してよ、街もみんなも……アタシの楽しかった頃を……」
「ロプトル」
「………」
泣きじゃくるロプトルへミカエが触れようと手を伸ばす。
「触らないでっ!!」
「ちょっと、ロプトル……」
触れようとした手は弾かれて、彼女は立ち上がりその場から走り去ってしまう。
その事態に、ミカエもリムも何も言えなかったしどうすることもできなかった。
そんな中、リムが何かに気づいた様子でただ一言。
「リアが起きたわ。もう行くわね……」
逃げるようにして立ち去る。その去り際、再び一言だけ口にして。
「次の試練は、出来る限り街に被害がでないようにできる限り努力はする」
リムは去っていく。
「っ―――。ああぁぁぁぁっ―――‼」
後に残ったのはミカエの泣き叫ぶ声のみ。
虚無の教会に絶叫が響き渡って、ミカエ、リム、ロプトルをただ絶望の淵へと誘うようだった。
もうどうすれば良いのか分からない。うずくまったミカエは真にこの時、自分のしてきた全てを後悔したのだった。
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