海月転生
天然水珈琲
第1話 海月転生
気がつくと俺は、体の感覚を喪失していた。
いや、五感のすべてが全く機能していない――というわけではないんだ。
さっきから定期的に全身がふわっふわっと、上下するような感覚はある。おまけに物の形は見えないが、視覚も完全に失われたわけではないらしく、おそらくは太陽の光だと思うが、その明るさだけは感じ取れていた。
しかし――だ。
現在機能している感覚は体の揺れを感じる平衡感覚と、明暗を判断する程度の視覚能力のみ。何だか唸りのような音が響いているような気もするが、聴覚もまともには機能していない。
そして、それら以外は全て全滅だ。
はっきり言えば、周囲の状況はほぼ何も分からないのに等しい。
そんな状態で精神的に落ち着いていられようか?
自分で言うのもなんだが、俺はその他大勢の一般ピーポーであり、スポーツや武芸に秀でていたり、危機的状況や修羅場を潜り抜けてきたメンタル強者――というわけでは、もちろんない。
つまり俺は大いに狼狽えた。
目を覚ましてからの一分間を動揺し、次の一分間で恐怖して焦り、さらに次の一分間で形振り構わず助けを呼ぼうとした。
――誰かッ、誰か助けてくれぇええッ!!
俺は確かに声を出そうとしたんだ。
――だ、誰もいないのか!? 誰かいたら返事してくれよッ!?
だけど、いくら叫ぼうとしても、声は出なかった。
いや、もしも身体感覚を喪失しているだけで声が出ていたとしても、俺にそれを判断する術はない。相手の姿も見えなければ、声も聞こえないし、体を触られたところで何も感じないのだから。
それはとてつもない恐怖だった。
――いったい俺の体はどうなってるんだよ!?
その疑問に答えてくれる声はない。
しかも。
ああ、しかも、だ。
さっきから何度も声を出そうとして気がついたのだが…………俺、呼吸をしている感覚がない。
身体感覚の喪失に伴い、呼吸を自覚できていないだけならば良いが、人工呼吸器で辛うじて命を繋いでいる……なんてことも考えられるよな?
なにせ、体の感覚を失っているんだから、その可能性は非常に高いような気がした。
やべぇ。マジかよ。
……洒落にならねぇ。俺はこれからどうすれば良いんだ?
恐怖。悲しみ。怒り。焦燥。不安。
様々な感情が一挙に押し寄せてくる。
せめて。
せめてほんの少しでも良い。「何も分からないという不安」を解消するために、情報が欲しかった。
だから俺は、強く強く、切実に強く願った。
――誰か……教えてくれ……!! 俺は、俺の体はどうなってるんだよッ!?
そして次の瞬間、「それ」は現れた。
【名前】なし
【種族】レインボー・ジェリーフィッシュ
【レベル】1
【HP】4/4
【MP】116/116
【身体強度】2
【精神強度】108
【スキル】『ポリプ化』『触手術Lv.1』『刺胞撃Lv.1』『蛍光Lv.1』『空間魔法Lv.1』『鑑定Lv.1』
【称号】『世界を越えし者』『器に見合わぬ魂』『賢者』
【加護】なし
…………え?
あ、はい……。
へぇー……こう、なってるんだぁ……。
ほえーっと、俺は思わず「それ」を眺めた。
突如として、明暗しか感じられないあやふやな視界の中心に、ホログラム・パネルのようなボードが出現したのだ。そこに記載された様々な情報が、前述したあれこれである。
それはまるで、コンピューターゲームのキャラクターステータスのよう。
ひどく馴染みのある、けれど現実にはあるはずのないそれを目にして、俺の思考は不安の限界を突破したのだ。
一言で言えば、あまりにも予想外な出来事に、不安とか恐怖を感じるより唖然呆然とした――ということ。
ええっと……そうだ。まず、冷静になって考えてみよう。
ここってゲームの中だっけ?
ゲームの中。つまり電脳空間に意識をダイブさせて体験するVRゲーム。
この可能性を、俺は当然のことながら否定する。
そこまで高度なVRゲームは、残念ながらまだまだ開発されていなかったはずだ。VRゲームと言えば、ヘッドマウントディスプレイを使用するタイプのみ。
身体感覚がほとんど失われている俺だけれど、目の前に出現した仮称「ステータス」が、ディスプレイに表示されたものではないことは、はっきりと理解できる。
――となれば、だ。
残る可能性は一つ。
そうか、これは夢だ。
夢にしては何か妙な気がしないでもないが、夢だ。夢なんだ。これは明晰夢ってやつに違いない。初めて体験したぜ。
そして、これが夢だとするならば。
俺はいつ、どこで眠ったのか。
ついつい、そんなどうでも良いことに思考を巡らせてしまった。
思い出す。
この奇妙な夢を見る前の記憶を。
『たーちゃん、クラゲってプランクトンの一種なんだよぉ』
思い出すのは、数ヵ月ぶりに再会した可愛い甥っ子。
会社から数日の夏休みをもらった俺は、お盆の時期を前にして実家に帰省していた。
家督を継いだ兄貴の息子である甥っ子は、ようやく小学二年生になったばかりだった。
しばらくぶりに見た姿はそれなりに大きくなっていたが、それよりも大きな変貌は、なぜか甥っ子がクラゲに夢中になっていたことだ。
正月に会った時にはそんな素振りなかったんだけど。
まあ、子供の頃は妙なことに興味をひかれるものだし、一過性かどうかは分からないが、何かに夢中になるのは悪いことではないのだろう。
実家に帰省した俺は、久しぶりに会った甥っ子にクラゲ図鑑を見せられながら、クラゲに関するトリビアを延々と聞かせられることになった。
『たーちゃん、クラゲってなんでも食べるんだよぉ。クラゲも食べるんだよぉ』
『へぇ……共喰いするんだ、こいつら』
『たーちゃん、クラゲは一年くらいでしんじゃうんだよぉ』
『へぇ、寿命短いんだな』
『たーちゃん、クラゲはしぬと海にとけてきえちゃうんだよぉ。すてき……』
『へぇ……素敵? えっと……に、人魚姫みたいだな?』
『たーちゃん、クラゲは古事記にもでてくるんだよぉ』
『そうなんだ……まーちゃんは色んなこと知ってるなぁ。えらいなぁ。すごいなぁ』
『えへへ』
俺は悟りを開かんとする僧侶のごとき心持ちで、甥っ子――まーちゃんのクラゲ蘊蓄に相槌を打っていた。
だからというわけでもないが、俺は一年に数回しか会えない甥っ子に存在を忘れられないよう、まーちゃんを連れて水族館に行ったりもした。
もちろん、クラゲが展示してある水族館だ。
まーちゃんはイルカショーそっちのけで、クラゲの水槽の前から動かなかった。
で。
それからさらに時間は過ぎ、そろそろ俺もアパートに帰らなければならない日が近づいてきた日。
兄夫婦とまーちゃん、それから俺と親父とお袋で海水浴に行くことになった。
そこで俺は――――
『んぎゃあああッ!?』
調子に乗って少し沖合いまで泳いでいた時、突如として足に激痛が走ったのだ。
『痛ぁあああ!? なんッ!? あぶっ!!』
突然のことに混乱し、慌てふためく俺の腕に、再びの激痛。
水に浮くことも困難になった俺は、大量の海水を飲み、そのまま海の中へ。
肺から空気が抜け、海水が入ってしまったのか、意識は急速に薄れていく。
泳ぎは得意だと自負していたが、溺れる時はこんなに呆気なく溺れるものなんだな。
海の底へ落ちていきながら、薄れゆく俺の視界の中に、そいつらが映った。
それは二匹のクラゲだ。
ここ数日、まーちゃんと一緒にクラゲ図鑑を眺め続けていた俺は、そいつらを知っていた。
カツオノエボシ。別名、電気クラゲだ。
その触手には強い毒性があることで有名であり、別に発電する器官があるわけじゃない。こいつに刺されると電気ショックみたいな激痛を伴うことから、電気クラゲとも呼ばれているだけだ。
普段は沖合いを流れているが、必ずしもその限りではない。風によって海岸へ打ち上げられることもあり、このように海水浴やマリンスポーツを楽しんでいる最中に刺されることもある。
その場合、今の俺のように激痛のショックで溺れることもあるから気をつけるんだぞ?
とかなんとか考えている場合ではない。
まずい。溺れる。溺れてる。
海水浴場のライフセーバーさんは、俺が溺れたことに気づいてくれただろうか?
死ぬのは嫌だ……まー、ちゃん……。
――――というのが、最後の記憶だ。
……うむ。
もしかして、なんだけど。
万が一、億が一、ありえないと言っても過言ではないくらいの確率だと信じたいんだけど。
……俺、死んだ?
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