第二十九話「冷たい夜のこと」
一 百年前の
浴びる程無尽蔵に。ありがたみは無く、常にそこにあるが誰も見ることのできない存在。
繰り返す毎日の
そうなることとは露知らず、
それが貴族というものであった。
「おいあまり前に出るんじゃぁない。お前は私に就き習う修道士なのだから」
「はいはい。大司教様」
「
「だ、誰が馬鹿だよ」
「お前しかおらんだろうが」
「(なあお前って、そんなに偉いのか?)」
「(まあな。だが、お前のその服を借りるのには一苦労したぞ。
「(俺ほど口は上手くないもんな)」
トリファの肘は名も無き道化師の脇腹に直撃した。
「(ぐうふ……)」
「おやおや、隊長が悪そうですね」
「ん……? おやあなたは……この度は我々をお招きいただきありがとうございます」
「ああいえ、お構いなく……それでそのあの、この方は隊長が悪いのでは? そんな悠長にしていて大丈夫なのですか?」
「え、ああ。そうですね、こういった場所は初めてで、視野を広げるための修行として連れているのですが……少々人に酔ってしまわれたようです。どこか座れる場所に案内していただけると助かるのですが」
「おお、それでしたらこちらへ」
「ご迷惑をおかけいたします」
「(恐れ入るよ)」
そうして二人は人のいない空き部屋のようなところにつれていかれた。自由に出入りしても良いことを伝えるとその人物は居なくなってしまった。
「本当に偉いやつなんだなぁ」
「なんだ急に……変な奴だ。今更だろう? そんなことより、だ。
「まさか、俺は一人で行動させる気か? そ、そんな……」
「っは! 今になって弱気なことを言うんじゃない。私はお前の探す人物の顔を見ていない。だから私が目立ち、お前は、ひたすら、歩き回って探すんだ。いいな?」
「ち、地図もないんだぞ?!」
「ふっ。お前は口が上手いんだろう? 私は出る。お前はしばらくしたら出るといい。多少の事なら私が尻を拭ってやる」
「期待しているよ」
――ぎぃ、ばたん
「はあ……しょうがない。なんとかなるだろう。なんてったって、私は
そう自分に言い聞かせ、名も無き道化師は一人扉を飛び出した。
相手の目線がいつもより気になる。それは自分にとっては異常なことで、嘲笑、侮蔑、憤怒、滑稽、様々な感情を目でぶつけられることには慣れているはず、と高を括っていた彼は金ぴかの装飾や、規律正しく並ぶ蝋燭、赤い絨毯の毛並み一本一本が、まるでそれぞれが意地の悪い
――きゃははは!
道化師はその肩を短く震わせた。渡り廊下の先に月明りに照らされた人影を見た。
「(……なんだよ、うるさいな)」
男の視線に気が付くことなくその甲高い声は何度も響いていた。あまりに煩いその声の正体を詳しく探るべく柱の影に隠れた。
「あなたは本当に醜いわね! まるで小さな蜂みたい! きゃははあ!」
「ヒキガエルみたいじゃない? ぼてっとした頬に曲がった背中、突き出した首!」
その言われたままの少女は足を引っかけられ、立ち上がろうとする度に足蹴りで阻止される。泣きそうな顔で二人を
「わた、私、そんなじゃ、ないわ!」
「「……はあ?」」
「継承権も遠いアンタが、継承権があるだけで、生意気言うなよ!」
「泣きつくんでしょ? どうせ……でも良い子と教えてあげる。王も女王もアンタなんか鼻先の毛ほども興味ないんだから。怪我しようが、気づきもしないわよ……ふふ……」
少女の決死の反抗も空しく、その二人はドレスの端でぱしんぱしんと
見兼ねた道化師は靴を脱いだ。そしてそれらを片方ずつ手で持つ。それらを規則正しくかつこつと鳴らし、その音を次第に大きくしていった。
「……! 誰か来る。もう行こ!」
「泣きついてもしょうがないんだから! 黙ってないと承知しないんだからね!」
そういうと二人の悪魔はどこかへと行ってしまった。
「うう、ううう……」
男には影に隠れて見えなかったが、その
「(一刻も早く見つけないと、ああ、気分が悪い……)」
足早に歩いている男は、もはや周囲の目などは気にしていなかった。
――どん!
「おっとと、あー、その……えと、大丈夫ですか、お嬢さん、って」
男は目の下の端で体勢を崩す少女の腕を掴んだ。
「素晴らしい反射神経ね、さぞ目がいいんでしょうね? 靴音さん」
「君は……さっきの、か」
先ほどいじめられていた少女であった。その少女は右肩を下げながら上目遣いで道化師の目をしっかりと見つめていた。その小さな手は掴まれた腕を反対の手でしっかりつかみ返していた。
「くんくん、やっぱり靴音の正体はあなたね」
「私の足、そんなに臭う?」
「うふふ、王族にため口を使うなんて、なんて破天荒な教徒なのかしら」
「しつれい、まだ、未熟なもどで」
「動揺してるわね。あなた道化師でしょ。人を探している」
「え!? い、いや知らないですね、誰ですその道化師はは!」
「いやあからさま過ぎでしょう。流石に……いいわよ、協力してあげる(みっともない姿を見せてしまったし)」
「えなに、ちょっと最後の方聞き取れなかったんだけれども」
「王族は二度同じことを言うことは無いの。あなたの探している人は私より六つ上の親戚よ。名前は……とりあえず道すがら話すわよ。時間がないのでしょう?」
「あ、ああ。そうだな、助かるよ。じゃなくて、助かります」
「もう遅いからやめなさい。たぶん、もう浮いてるし」
周囲を見渡すと、確かに男を見てにやにやしている。それを確認すると、いつの間にか口角が上がっていた。それを自身で認識し我に返ると、既に先を行く王族の少女を追いかけた。
「で、名前って?」
「シャルルよ」
「へえいい名前だな。そんな名前だったんだ」
「あら、ありがとう」
「なんだ君の名前か」
「『なんだ』とは酷いわね。あなたが主語を言わないからでしょう? 直した方が良いわよ」
「君はひとこと言えば十倍にして帰ってくるな」
「『君』じゃないわ。さっき言ったでしょう?」
「ああ、シャルルね」
「シャルルさまよ」
「はいはい。で、彼女の名前は?」
「気が変わった。もう教えなーい」
「おいおい、子供じゃあるまいし……」
「なによ。身から出た錆でしょ?」
「身から出た……なんだって?」
「錆び。あなた本当に学が無いわね」
「君が王族じゃなければ殴ってたかも」
「あら、二回も同じこと言わないってさっき言ったわよね」
「わかったよ! シャルル様」
「よろしい……もうすぐ着くわ。ここが彼女の部屋よ」
そういい合っているといつの間にか豪華な扉の前にいた。
「準備は良い? まあ待ってあげないけど」
「ちょちょっと」
――こんこんこん
「入るわよ」
そうシャルルが言うと返事を聞く前に扉を開けた。男は扉の死角に隠れ、目も閉じた。
「ああ……やられたわね」
そういうシャルルの言葉を聞いてから男は恐る恐る中を覗く。すると部屋はがらんとしており誰もいる気配がない。窓は開かれており夜風が中へ心地よく入っていた。
「彼女、今回は
「逃げ出す?」
「ああ、抜け出す、の方が近いけれれど……彼女、腹立たしいことに、上下の関係とか縛られないのよ。何度紐でぐるぐる巻きにしたって、気が付いたら居なくなってるの。そうして、町の酒場とか治安の悪そうなところに行って、使用人らを困らせているの」
「なるほどね」
「どうせ、あなたとの出会いも、その辺の酒場で偶然出会ったのでしょう? で、一目惚れ」
「一目惚れ? 私はただ、借りたものを返したいだけだ」
「じゃあ隠れる必要なんで無かったじゃない。顔赤いわよ」
「うるさいな。何か心当たりはないのか?」
「残念。こうなったら彼女、まあ数日は帰ってこないわね。まあ私も誰かに告げ口することもないのだけれど」
「じゃあ、俺は行くよ。もうここにいないんなら、いる必要はないし」
「あ、そ……さっさといけ好かない上司を連れて帰んなさい」
「それもバレてたのか」
「ふん、あなたがいなければバレてなかったわ」
「悪かったな」
「まあ、私もあなたがいなければ、その……まあ……ありがとう」
「ふっ、可愛い所もあるんだな」
「処刑するわよ」
「おっと、失礼。
「あなた、名前聞かなくていいのかしら? 乞えば、教えてあげなくもないけれど」
「いいよ別に。本人から聞けばいい。達者でな」
「ええ、またどこかで…………行ってしまったわね。はぁあ……。こんな夜、早く終わればいいのに」
道化師は足早に、トリファ・チャズリックを探し息もつく間もなく、王宮から脱出した。
※カソック:修道士の着る普段着のようなもの。階級によって縁取りなどの色が違う。
二 冷たい夜のこと
相変わらず
「ああ、寒い。早く夜よ、明けてくれ」
「素敵な夜じゃなくて?
ふいに掛けられた言葉に、一瞬耳を疑ったものの、すぐに飛び起き辺りを見渡した。
「ききき、君は……!」
「お久しぶり。暗いわね。明かりを貸してくださる?」
「あ、ああ。汚い所だけど……よかったら、隣、どうぞ」
すると無邪気に道化師の隣に座った。
「楽しい夜になりそうね。ありがとう。暖かいわ」
二人は酒場の裏の小さな宮殿の中で身を寄せ合っていた。いつぞやのランタンに火を点けると、それは二人をすっかり包み込み照らし出した。
「ああ。その、君の名前は?」
「あら? 前も言わなかったかしら? 名前なんて、些細な事……」
「それは王族だから?」
「え?」
「知り合いの、王族がいてね。実は。彼女がこういったんだ『王族は同じことを二度言わない』ってね。君も同じかと思ったんだ」
「ふふ、あなた意外と交流が広いのね! あー、まあ……あんまり好きじゃないの。自分の名前。ありきたりって言うか、身内のほとんどが同じような名前だし、みんな名前で呼ばないから……ごめんなさい。私の名前はクラークよ。よろしくね」
「あ、ああよろしく」
手を数回布で
「ふふふ、強い」
「ああごめん」
「へえ、あなた意外と力があるのね」
「まあね。玉に乗りながら逆立ちしたり、人を抱えたりするからね。何人も」
「ええ! 何人くらい?」
「じゅ、十人くらいな」
「凄いわ……ちょっと触って良い?」
道化師は照れながら腕を
「こういうの、誰も見てくれないから。嬉しいな」
「あらもったいない! こんなに、
「それより、その。君って……」
「クラークよ」
「あ、ごめん。クラークって、本当に素敵な女性だね」
「今更?」
「ははっ、そういう所も素敵だ……ワインでも飲むかい?」
「え? ここにワインなんてあるの?」
「そうとも。君の大好きな赤いワインがね」
きょろきょろと見渡す。といっても狭い空間にそんなものがあるとは思えない。この宮殿には二人で寄り添ってもう隙間がないくらいだった。
「ここに」
そういうと枕代わりにしていたのか空のボトルを取り出した。
「楽しませてくれるのね」
「ここにありますは、クラーク嬢の大好きな赤ワイン。これは年代物のワインで香りは……んん素晴らしい。君と出会う今の今まで空けていないこのワインは、なんと君と出会った年。まあつまり今年なんだけれど……この製造所は知り合いのブドウ園から作られていてね。口に広がれば体中に染込み、全身を赤く染め上げる。一瞬で天国に行ったような気分になれると評判でね」
「美味しそう! 早速お酌してくださる?」
「ああ、勿論」
そういうと欠けたグラスを二つその辺から盗ってくると一つを彼女に手渡した。そして巧みに喉をならしながら注いた。
「気を付けて、とても薄い高級なグラスなんだ。優しく口を付けなければ切っちゃうかも」
「ええ、これはこれは、王族御用達のグラスね!」
「今宵のここは宮殿のテラスだ。御覧くださいお嬢様。庭園は手入れが行き届き、草木一本も生えていない。庭師も素晴らしい人格者でね……まあこの話は後でもいいか」
「素晴らしい景色ね。庭師にもお礼を言わなくちゃ」
「乾杯しようか」
――きん……
高く小さく響き渡る幸せの音色。それは在りもしないグラスに満ちた赤い色。
二人はぐっと飲み干すふりをすると再び身を寄せ合った。
「酔ってしまったかしら。身体が熱いわ」
「言ったろう? 一瞬で天国へ行けるってね」
「あら? 『行った気分になれる』じゃなかったかしら?」
「それは言葉の
「ふうん。もう一杯くださる?
「仰せのままに」
――とくとくとく……
「うまいわね。流石は
「よければ、だけど」
「なに?」
「ええと……君の名前を、俺に、いや僕に……くれないか? 気に入らないんだろう?」
「ふふ。そうね……
「それは、言えてる」
「酔ってるのかな、可笑しいよな」
「そう? だったら私も随分酔ってるかも……今襲われたら、逃げられないわね」
自分でも気が付かないうちにクラークの頬に手を伸ばしていた。そのことに驚き手を離そうとするも、その手を柔く握り返される。
「……君は、言葉が上手いな」
「あなた程じゃないわ」
「……」
「月は、見ていないわ」
「……え? 月がどうしたの?」
「月は何でも照らしちゃうでしょう? 好きじゃないのよね。でも今日は月も見ていない」
「そうだね。ずっとこんな夜が続けばいいのに」
「でも、また陽が出てくるわ。そしたらあなたとはお別れ」
「奪って、逃げても……?」
「そうね……難しいかも。口だけじゃ、きっと捕まっちゃう」
「僕には力もある!」
「ふふふ。そうねいつか、私を逃がしてくれる?」
「君が望むなら、いや……望まなくても……」
二人は小さな宮殿で身を寄せ合った。悲劇の主人公のように悲しみの中の幸せを探して。この場所に劇のような
その光は
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