林檎の森

鳥ヰヤキ

林檎の森

 ――「そしてお前を棄てるのか。」

 ――「きっとそうよ。」

 ――「だから僕の出世を食い止めたいんだな。」

 ――「そうじゃないわ。私はどなたの出世だって喜んで来ましたわ。自分は出世という卵がかえる鳥の巣のようなものだと思っていますわ。」[※1]



 林檎の森



 気がつくと暗い森の中にいた。自分が暮らす森ではない、架空の森であることはすぐに分かった。首が痛くなるくらい見上げても、葉の先さえ見えないくらいに幹は高く、樹冠というよりはもはや屋根のようだった。あらゆる光を閉ざすためだけに機能している、闇色の暗幕だった。

 フェイツはそれ以上見上げるのも、周りを調べるのも諦めた。(いつものことだ)と分かっていたから。

 この様な夢をたまに見る。フェイツはその場に腰を下ろした。地面は柔らかな草や花に覆われていて、座っても痛みはなかった。暗闇を孕む程に鬱蒼と茂った森の中に、こんな草原があること自体がナンセンスだ。森の中とは、植物が光を巡って争う猟場なのだから。

 光の射さぬ場所は枯れた世界であるべきだ。

「『貧者の恋人』、という物語があってね」

 高い高い、見上げることすらできない場所から声が降ってきた。ずいぶん遠くからだろうが、その声だけはまるで真横から気さくに話しかけられたかのように、自然と耳に届いた。そして周囲を見渡そうが、それが姿を見せることはない。暗闇に、木々の影に、足の先くらいは見えるかもしれないが、だからどうしたというのだ?

「身を立てる前の貧乏な男ばかりを愛しては棄てられてきた女が、やがて運尽きて死んでしまうのだけれど、彼女の墓には、彼女が生前好きだったレモンが沢山供えられていた――かつて女が愛した男達がこぞって持ち寄った、レモンの山がね――鮮やかで明るい燈明のように」

 そんな話。そう声が途切れた瞬間、ぼそっと、目の前の草むらに赤い影が落ちた。

 真っ赤な、艶やかに熟れた林檎だった。

「お前が死んだら、私も供えてやろうかな」

 ぼそっ、ともう一つ、二つ。鈍い音を立てて林檎が落ちる。

 柔らかな草地に阻まれ、それは転がることも砕けることもしない。ただ恭しく受け止められ、光源もないのに宝石のように光っている。

「赤い林檎を塚のように並べてやろう。玉のように、珊瑚のように。それはそれは華やかだろうね」

「そうされたいのは貴方の方デショウ」

 すっくと立ち上がったフェイツの肩を掠めるように、足元に林檎が落ちる。フェイツは俯きかけていた顔を正面に向けた。足元が辛うじて見えるくらいの薄闇の中、歩き出した。

「僕は一つだって要らない」

「へぇ」

 ゴッ、という鋭い音がした。草花を押し潰すように林檎が落ちてきた。重さか、速度か、あるいはその両方が加算されていた。その合間を真っ直ぐに歩く。黒い革靴の表面が、赤い林檎の色を反射させて鈍い朱色を帯びる。

「じゃあ、私が死んだら、お前は林檎を供えてくれるのかい?」

「さあ」

「そんな温情が、お前にあったかな?」

「さあ。…………ただ、もし、全てが終わる日が来るならば」

 そこで初めてフェイツの顔に表情らしきものが生まれた。それは、胸の底から迫り上がる、抑えようもない嘲笑の色だった。

「ああ――清々した、という開放感で、一つくらいは寄越してあげたくなるかもネ」

 森全体がざわめいた。クックッと、喉の奥を震わせて笑うような声が、すぐ耳元で聞こえた。

 魔王は喜色を滲ませて笑っていた。彼もまた、どうしようもない愚弄の気配を隠せなかった。

「いいね。……いいけど、残念だ」

 フェイツは歩き続けている。夢の端へ向けて。

 明晰夢だとしてもこの夢はあまりにも自身の思考と繋がりすぎていて気持ちが悪い。そして夢の中に出てくるこの男もまた、あまりにも本人でありすぎる。つまりこれは、境界を共有しているだけの実際の二人芝居で、自分は自分自身で彼は彼自身で、なんとまぁ遊びのない形だけの幻想なのだろう(つまりこれは幻想ですらない、ただの会話だ)。

「残念だけど、ね、フェイツ」

 ゴッ、と落ちてきた林檎の破壊力は既に砲弾のそれに匹敵していた。

 フェイツの爪先を貫いた。靴の内側の、木製の義足が千々に砕けた。

「私は永遠なんだ」

 そうしてよろめいた体の、次は右肩に直撃した。赤い林檎が骨や肉を破壊して、地面で甘い果汁をぶちまけながら砕けた。フェイツは痛みに青ざめながら、喉の奥でヒュッと息をした。

「そして、無限なんだ」

 既に落下する林檎は赤い雨のようだった。柔らかな腹を貫かれた痛みはさすがに堪えた。迫り上がってくるものを押し留めながら、固く目を瞑り、体を丸めて、間もなく訪れる筈の終局を待った。

「お前も道連れだよ、フェイツ」

 ゴッ、と、頭蓋が、



 耳の奥がキンとして、静寂が痛いほど体に張り付いていた。持ち上げた上半身の内、右肩の感覚がなく、ゆっくりと腕を持ち上げて恐る恐るそこに触れた。指先は、眠る前と寸分違わず同じ形の肉体に触れた。

 弾けるようにベッドから飛び降りようとして、自分に足がないのを忘れていた。ゴッ、と落下した体が冷たい木の床に叩き付けられた。当然の習慣としていた義足を装着する過程、それを忘れるくらいに動揺していた。

 そのまま両腕で床を掻いたが、ギリギリの理性をもって、震える手で義足を嵌めた。緩衝剤を使わず直接魔力で繋げた為接触点が灼けるように痛んだが、構わず立ち上がって洗面台に走った。そして吐いた。

 腹が割かれたように痛かった。というよりは、全身が痛みの凝結になったかのようだった。吐き気のままに吐いて、ようやく落ち着いた頃、脂汗で濡れた真っ青の顔を持ち上げると、鏡に自分の顔が映っていた。

 右目を覆うように朱色の痣が浮かんでいた。それは一粒の林檎の実の入れ墨のようだった。呆然と自分の顔を指でなぞると、しかしそれは錯覚で、ただ弱り切った自分のいつもの顔があるばかりで、何度見返しても痣などはなかった。

 口をゆすぎ、顔を洗った。そして、洗面台の端に両腕をついて支えながら、何度か息をした。……それでも気分は全く楽にはならなかった。嘔気は収まったものの、それはもう胃に何も残っていないからに過ぎない。

「…………」

 目を瞑って首を振っても、瞼の裏にあの赤い色が張り付いているかのようだった。


「……アノ」

 冷たい水を飲み、夜に沈む現実の森の景色を眺めて、ようやく寝床に帰ろうとしたフェイツが発したのは、気の抜けた問い掛けだった。

「そこ、僕のベッド……」

 非難や説教ではなく、もはや単なる呟きだった。フェイツが先ほどまで眠っていたベッドの上では、真横になった白い子ヤギが堂々と寝ていた。

 軽くつついても、プゥプゥと寝息を立てる柔らかな腹が上下するばかりで、一向に目覚める気配はない。

「…………はぁ」

 溜息を吐き、呆れ果て、そして諦めた。義足を外し、子ヤギをどかし、その隙間に自分の体を滑り込ませた。子ヤギのメリーは、むにゃむにゃと口を動かしながらも目を覚まさず、寝そべったフェイツの体に抱きついた。

「僕は枕デスカ?」

 師匠なんですけどネ、これでも……とぶつぶつ言いながらも、疲労もあってか、意識はすぐに眠気に引っ張られた。一瞬、眠ることが恐ろしくなって目を開けたが、さすがの魔王もこんなに間抜けな状況にいる奴に、悪夢を見せることはないだろうと高を括って、目を瞑った。

「…………」

 メリーの体毛に覆われた体は柔らかく、芯から温かだった。豊かな生命の気配の結晶だった。

 それは穏やかな現実感だった。程なくして、フェイツも静かに眠りに落ちた。それから朝まで、何の夢も見なかった。



 終わり


 ※1 引用元:『掌の小説(川端康成/新潮文庫)』より『貧者の恋人(p.267)』

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