新藤にゃるは光だ

区院ろずれ

新藤にゃるは光だ


 何かの作品を好きになることを「沼にハマる」と最初に言い出したのは、誰なのだろう。


 そんな疑問を抱えながら、アクリルスタンドを大きな段ボール箱にそっと入れる。まだ肌寒さの残る、陽だまりに照らされた3月の空気。古びたアパートの一室、グッズの入った段ボール箱はもうそろそろ満杯になる。時計は14時を指しており、真紀は大きく欠伸をした。


 ポスター、A4サイズのファイル、ブルーレイのDVDボックス、ぬいぐるみキーホルダー、設定資料集、その他もろもろ。ひとつひとつ手に取って見返しても、買った日のことまでは思い出せない。気がついたら買っていた。よくもまぁここまで集めたなと思うと同時に、まだまだ集めたいという欲が湧き出して止まらない。底の見えない「沼」から、愛と物欲が湧き出す。


 緑色の髪に、赤色の瞳をした少年が、グッズの海を眩しく彩っている。新藤にゃる。バンドを組んだ5人の男子高校生の群像劇、青春アニメ「エコー・オン!」の主人公。5年ほど前から、俗にいう「推し」である。彼は今日も真紀の心を離さず、ひとつ前の次元の向こうで笑っている。


 にゃるは推しであり、推しは光である。人生のいろんな場面で、にゃるは真紀を照らしてくれた。


 彼が照らしてくれた恩に報いるように、彼にささげたものがある。少ない給料を切り詰めて生み出したグッズ代、夏と冬のボーナス、スマートフォンで作品の情報を集めるための、毎日の寝る前の数時間。きっといくつものお金と時間を、新藤にゃるに費やしてきた。


 けれど、それももう、大っぴらにはできない。二次元オタクであることは、彼氏である慎太に伝えていない。これからも、伝えない予定でいる。


「真紀、ちょっと」


 リビングから慎太の声がする。


「はーい、ちょっと待ってて」


 慌ただしく水色のスリッパを履き直し、真紀は部屋を出る。


 これから真紀は、慎太と同棲を始める。




 4月、高校の事務室で、真紀は回覧のバインダーに挟まれたチラシを見つめていた。生活協同組合のチラシ。今回はスープが大幅に安く販売されている。


 県職員として高校の事務室に配属されてから、今年で3年目になる。仕事にもだいぶ慣れてきたし、お客さんへの対応でも慌てることが少なくなった。


 同棲中の慎太も県の職員で、同じく学校事務の仕事をしている。同期の飲み会で出会った彼とは、付き合って2年目。慎太は大卒で、真紀は高卒で県職員になった。


 同棲を始めてから1カ月近くが経過しようとしている。特に大きな喧嘩もなく、平穏な日々を送っている。一人暮らしのときとは違い、アニメグッズを部屋に飾ったり、堂々とアニメのDVDを見たりすることができなくなった。深夜にこっそり見るようになったのは少し残念だが、我慢できる。実家にいるときもそうだったし、大きなストレスはない。


 慎太には、にゃるが好きなことは言わない。言う予定もない。


『真紀、こんな変なの好きなんだ。俺には理解できないけど』


 いつかの兄の言葉が蘇る。自分が二次元のものが好きであるという事実を再認識するたびに、兄の声が脳裏に浮かぶ。


 人に自分の好きなものを教えるのが怖くなったのは、いつからだろう。


 物心ついた頃から、紙や画面の中でしか生きられないものに触れていた。


 小学生の頃の真紀は、輝かしいアニメーションやゲームの世界に見惚れた。自分の生きてる世界と大きく違う、色彩に溢れた綺麗な世界。自分一人じゃ受け止めきれなくて誰かに話してみたこともあったが、みんな聞く耳を持たなかった。それもそうだ。みんな、キラキラのラメ入りボールペンや、お菓子づくりの方が好きだった。


 兄に話してみると、大いに馬鹿にされた。それ以降、兄が大学に行くため上京するまで、兄は真紀を痛々しいオタクの代名詞のように扱った。


『こんなもの好きになるなんて人としておかしいんじゃない?』

『現実にいないやつにキャーキャー言ってバカみたいだよな』

『こんな前髪長くて髪色派手な奴、いるわけないじゃん。気持ち悪い』

『オタクって夢見がちっていうか、現実生きてる? 頭大丈夫? 死ねば?』


 テレビでアニメが放送されるたびに、アニメイベントが情報番組で紹介されるたび

に、真紀に聞こえるような大声で言っていた。


 真紀は誰かに、兄以外の人にも、好きなものを教えるのをやめた。


 他人の言葉を気にする程度の愛で、二次元オタクを名乗っていいのか迷うときがある。数少ない同じ趣味の友人と話すたびに思う。でも、怖いのだ。心から好きなものを否定されるのがどうしようもなく、怖い。アニメ・漫画・小説好きを公言している友人や芸能人を見るたびに、羨ましくてたまらなくなる。遠い昔の兄の言葉が、未だに心を鉛のように重くする。


 チラシの下に綴られた注文用紙に、ボールペンで「今野真紀」と名前を書く。


 ボールペンを置いたときだった。ピロリン、と軽い電子音が鳴る。音の出所は真紀の鞄の中からだった。ピロリン、と、また音が鳴る。マナーモードにするのを忘れていたと、スマートフォンを鞄から取り出す。


『今野康太:久しぶり』

『今野康太:まきにお願いがあるんだけど』


 メッセージの差出人の名前を見て、少しだけ身体が強張る。久方ぶりに目にした兄の名前。兄とは連絡先を交換した覚えはない。母が教えたのだろうか、と少しだけぎこちない動きで脳みそを回転させる。


 マナーモードにして、真紀はそのまま鞄の奥にスマートフォンをしまい込む。奥に、湧き上がる何かを塞ぐように。


 面倒な予感がする。真紀のこの根拠のない予知は、結構な確率で当たる。


 真紀はボールペンを再び手に取る。今は仕事をしよう。浮かぶ不安を押し込めるように、そう思った。スリープモードになったパソコンを起こし、予算申請の画面を開いて、作業を始めた。


 帰ったら夜中にエコー・オン! のDVDを見よう。真紀は心に決めた。仕事で忙しくなったり、面倒ごとが起きたりするときは、どうしても新藤にゃるの面影が恋しくなる。


 新藤にゃるは彼氏じゃない。新藤にゃるは面倒ごとを片付けてはくれない。新藤にゃるはこの世に存在しない。


 でも、挫けそうなときは必ず心を助けてくれる。ただそれだけでいい。


 ただそれだけで、いい。



 今日の夕飯はコンビニで買ったレトルトのカレーにした。最近発売されたちょっと

高価なビーフカレー。初めて買ったとき慎太が美味しい美味しいと褒めるものだから、見かけるとつい買ってしまう。


 まだ少し肌寒い部屋で、黒いニットのカーディガンを羽織る。ごはんできたよ、と髪をドライヤーで乾かしている慎太に声をかけて、リビングに戻り、椅子を引く。


「今日カレー?」

「うん」

「コンビニのやつ?」

「ご名答」

「よっしゃ!」


 慎太は些細なことですぐに喜ぶ。幸せのハードルが低いのだ。だから予想通り、今日はあのビーフカレーだと分かるなり、ぱあっと擬音が似合うほどに顔を輝かせる。その顔が見たくて、いつも慎太の好物ばかり作ってしまう。慎太のたったひとつの笑顔で幸せを感じてしまうあたり、幸せのハードルが低いのはお互い様かもしれない。


 いただきます、と二人で手を合わせてスプーンを進める。慎太はうまいうまいと口癖のように繰り返す。その笑顔に少しだけ心臓のなにかが和らいで、揺れる。


 真紀は小さく口を開く。どこか気まずそうな表情で。


「明日、早めに家出るね」

「オッケー。仕事?」

「まぁ、そんなもん」


 仕事。そう割り切れたらいっそ楽だろうと心のどこかで思う自分がいる。


「お兄ちゃんが骨折して、車の運転ができないんだって」


 昼のメッセージによると、兄は会社のフットサルサークルで、右足を骨折したそうだ。


「え、大変じゃん。でも、お兄さん実家でしょ? ご両親は?」

「それがお父さんもお母さんも早出だから……お兄ちゃんの出勤時間と微妙に合わないの。だから、私」


 私のこと散々軽く扱った癖に、都合のいい時だけ連絡よこして。そんなことを心の中で吐いてしまう自分がいる。兄からの連絡が来て、どこか気まずく感じる自分が嫌だった。家族なのに。血のつながった、兄なのに。


 真紀の中でドロドロと黒いものが渦巻いている。その正体は分からない。自分でも分からないからこそ、恐ろしい。恐ろしいと思いながらも、渦の流れに抗えない自分がいる。


「……なんで私なんだろう。いくら駅が遠かったりバスが無かったりしてもさ、タクシーでも頼めばいいのに」


 ぽつりと、黒い水たまりに雫を零すような声だった。心からの言葉は、無意識のうちに口から零れ落ちる。


 真紀は口にしてから、はっと息を吸う。私、今冷たいこと言わなかった? そう思って、脳みそが焦るようにぐるぐると回りだす。


 慎太に冷たい女だと思われたくない。しまった、しまった。慎太の前では醜い感情を見せないと決めていた。真紀は、真紀自身の綺麗なところだけ、慎太に見てほしかった。そう決めていたのに。


 慎太の顔をおずおずと見る。慎太は眉の端を下げて、笑っていた。


「お金かかるからね。しょうがないよ、家族じゃん」


 なんてことない口調で、慎太は「俺の妹もさー」と、話を始める。


 真紀は小さく息を吐き、スプーンを置いた。心の中の黒いものが、ほんの少しだけ薄れる。薄れてはいても、消えてはくれない。


 慎太の笑みに、悪い受け取り方をされていないことを察し、安堵する。でも、慎太の思い描く「家族」はきっと温かなもので、自分とは違うのだと察してしまう。


 分かっている。自分は虐待されていたわけじゃない。父と母と仲が悪いわけではない。兄とただ性格が合わなかった、それだけ。自分よりももっと辛い思いをしている人はこの世にたくさんいる。SNSやインターネットサイトで、苦しい思いをしてきた方々を見てきた。


 SNSや漫画、小説、エッセイでよくある、主人公・執筆者のパートナーは、高確率で主人公や執筆者の心を支え、寄り添う者である。苦しい思いをした者のことを心の底から理解する。心無い言葉などかけず、心の奥底から生まれた温かな言葉をかけてくれる。


 理解。慎太も話せば理解してくれるだろうか。優しい慎太のことだからきっと話を聞いてくれるだろう。漫画やアニメが好きなこと、本当に好きなものを隠してしまう性格なこと、兄とうまくいっていないこと。


 でも、怖い。


 癖のように、また羨ましくなる。慎太にすべて打ち明けたい。でも兄のときのように馬鹿にされたらどうするの? 家族と上手くいっていないことを引かれたら?


 心の奥底に未だいる、幼少期の自分が声を上げる。兄に好きなものを馬鹿にされたあのときの真紀は、未だに真紀の中に存在し続けている。事あるごとに真紀を見つめ、釘を刺しに来る。本音を閉じ込めるように、殺すように。


「……お腹いっぱいになってきちゃった」


 そう呟くと、慎太が「残すなら俺が食べようか?」と笑う。その笑みがあまりにもいつも通りだから、真紀は少しだけ、苦しくなった。



 エコー・オン! のアニメのオープニング曲を止める。嫌味なくらいの快晴の下、真紀は車のエンジンを止める。広々とした畑のど真ん中にある一軒家。久しぶりに見た実家の外観は、相変わらずどこか冴えない。灰色の壁とこげ茶色の屋根の二階建て。広い庭には、母が植えたであろう名前の知らない小さな花が咲いている。


 心臓の音がいつもより早い。緊張している。馬鹿みたいだ、と真紀は心の中で吐き捨てる。どうやって兄との時間を乗り切ろうかと考える、その思考自体が緊張の種なのかもしれない。真紀は両手をこすり合わせ、緊張の所為で微かに冷えた指を温める。


 普通の兄妹はこういうときどんな会話をするのだろう。世に問いたくなる。もしかしてきっと、自分は「普通」というものに憧れを抱いているのかもしれない。真紀はそんなことを思った。


 がらら、と音がして、真紀ははっと我に返る。兄が玄関の戸を開けた音だった。兄は鍵を閉め、松葉杖をつきながら、ひょこひょこと歩いてくる。スーツ姿の兄を見るのは初めてだった。兄が大学を卒業して実家に戻ってきたころには、入れ違いで真紀は一人暮らしを始めていたから。


 兄はドアを開ける。


「お待たせ。よろしくお願いします」

「うん」


 なんだか慣れない敬語に、簡単な言葉しか返せない。慎太よりも大柄な兄は、学生の頃から背が高く、筋肉質だった。


 エンジンをかける。ぶろろ、と無機質な音を聞きながら少しだけ発進を待って、ゆっくりと庭をあとにする。


「仕事は順調?」


 無言の空気を切ったのは、兄の声だった。どことなく明るさが滲み出た声。


「まぁそれなりに。お兄ちゃんは?」


 お兄ちゃん。面と向かって放ったその言葉の響きが鼓膜を震わせる。兄は笑って「俺もそれなりにかな」と答えた。


 兄の声はハキハキと切れ味がよく、空気を切り裂くようによく響く。アナウンサーみたいな声だと、真紀は個人的に思っている。


 兄は骨折したフットサルサークルの話を、どこか武勇伝のように語る。フットサルのことはそこまで詳しく分からないが、兄は専門用語を使って、真紀の反応を気にせず話す。真紀は適当に相槌をうちながら、とりあえず骨折した原因となったプレーは、兄の身体を張った、すごいプレーだったことは聞き取れた。


 赤信号の十字路で、ゆっくりと車を停止し、右ウィンカーを出す。


「真紀、運転上手じゃん」


 フットサルの話をやめたかと思うと、兄は真紀の目を見てそんなことを口にした。そういえば今更ながら、兄を自分の運転する車に乗せるのは初めてだったと、真紀は気づいた。


「大人になったな」


 真紀は赤信号だというのに、一瞬ブレーキから足を外しかけた。車は幸い、1センチ程度しか進まなかった。


 ___あのお兄ちゃんが、私を褒めた。


 真紀の心臓に何かが滲む。それは少し、喜びに似ていた。記憶の中の兄はいつも何かを否定して、褒めてくれたことなんて一度もなくて。青信号になったのを確認して、車を発進させる。花が沿道に咲く、広い道路を直進していく。切り裂くように、軽やかなスピードで。


 兄の言葉をうけて、兄に苦手意識を覚えた、好きなものを教えることに恐怖を覚えるようになった。でも、それは子供の頃の話だ。今はもう大人になったんだ。兄も、自分も。真紀は真っ直ぐに前を見つめた。快晴の下、少しだけ視界がきらきらりと明るくなったような気がした。


「俺も彼女連れてスノボ行ったんだけど、山道すげー怖くて。坂のとこでスリップしたんだよ。ドラレコの映像あったかなぁ」


 兄はそう言って、黒いリュックのチャックを開ける。がさごそとスマートフォンを探す兄に、運転中だから映像出されても見れないよと言いかけて、やめた。代わりに小さく微笑んだ。


 音が止む。同時に赤信号にたどり着き、ゆっくりとブレーキを踏んだ。


「あったあった。見てこれ」


 兄の手元をちらりと見る。


 刹那、一瞬だった。見てすぐに、真紀ははっと小さく息を吸った。


 視界の端に映るスマートフォンの、カバー。一瞬見えただけでも分かるほど大きく描かれた、青い髪の少年の顔。真紀は見覚えがあった。友人が好きな『青の鼓動』という漫画が原作のアニメ。その主人公、確か名前は、藤原マサ。


 ____現実にいないやつにキャーキャー言ってバカみたいだよな。


 いつぞやの兄の言葉が脳裏に蘇り、蔓延る。先ほどまでの小さな嬉しさを拭って掻き消すように。


「……その、スマホカバー」


 声が途切れる。聞かずにはいられなかった。兄はどこか照れくさそうに、頬をカリカリと指で掻いて微笑んだ。


「これ? 『青の鼓動』ってアニメにハマっちゃって。真紀知ってる?」


 つらつらと綺麗に並べるように、話を進める。兄の澄んだ声が、今はどうにも、緊張感を与えてくる。


「うん、ちょっとだけ」

「面白いよ。今度見てみて」


 ___こんなもの好きになるなんて人としておかしいんじゃない?


 声が響く。姿の見えない闇が心を覆う。やめろ、やめろ。思い出すな。真紀はぐっと唇を噛む。胸の奥に鈍い感情が宿る。重くて黒い、感情が。


 青信号に変わったことに少し遅れて気づいて、真紀はおずおずと車を発進させる。ゆっくりと踏んだ右足の指先が、冷えていくことに気づく。兄の、たったこれだけの言葉が、指先を再び冷たくさせる。


 やだ、嫌だ。その事実さえもが嫌だった。


「俺ドはまりしちゃってさ、漫画全巻大人買いしちゃったんだよね」


 耳を塞ぎたくなるのを我慢して、真紀は息を吸った。これ以上、聞きたくないと思った。


「お兄ちゃん、私に昔、こんな変なの好きなんだって言ったの覚えてる?」


 真っ直ぐに前を見たまま、真紀は続ける。


 声が止まらない。感情が、止まらない。


「頭大丈夫? 死ねば? って言ったんだよ」


 声に熱がこもる。


 ___どうして私にはあんなこと言ったのに、自分だけ楽しい思いをしているの? 


 そんなことを思う自分に、真紀は気づいている。


 兄の顔をちらりと見る。


「何それ? そんなの言うわけないじゃん。それよりさ___」


 軽い声だった。



 兄を会社に送り届けた後の記憶がない。ただ淡々と仕事をして、淡々と車を運転して、アパートの部屋に帰ってきた。


 鞄を床に放り投げるように置く。そのままつかつかと、切り裂くような大股歩きで真紀は寝室に入り、ベッドに倒れこんだ。枕に顔を埋める。


 未だ響く頭の中の声に、歯を食いしばる。


 そんなの言うわけないじゃん。


 うるさい黙れ。昔の私に、お前が言ったんだ。他の誰でもないお前が。真紀の心の中に渦巻く感情が、ふつふつと煮立っている。


 怖い、と真紀は自分自身に恐れを抱いた。このまま兄に電話して、叫んでやりたい。お前のせいだと言ってやりたい。でも、それすらも怖い。自分の中にこんな感情が宿っていることが怖い。いつから自分はこんなに兄を許せない自分になった? いつの間にか育った心の中の毒虫が這いずり回る。


 ___だめだ、だめだ。たったひとりの兄なのに。実の家族なのに。仲良くしなきゃいけないのに。


 真紀はゆっくりと起き上がる。クローゼットを開いた。クローゼットの奥から段ボール箱をずりずりと引きずりながら出す。新藤にゃるのグッズが入った箱だった。アクリルスタンドをそっと取り出し、真紀は両手でそっと握りしめた。


 本当は心のどこかで分かっていた。兄が嫌いなのは次元の違うものではない。真紀のことだと。真紀が嫌いだから、真紀の好きなものに容赦のない言葉を浴びせるのだと。


 本当に仲良くしなくちゃいけないのだろうか、好きなものをこんなになるまで馬鹿にされて、好きなものを好きな自分を、こんなになるまで、言葉で刺しておいて。


 ただ好きなものを好きだと思うことが、こんなにも苦しいなら、いっそのこと最初から好きにならなきゃよかった。新藤にゃるは何も悪くない。全ての原因は兄と仲良くなれない自分だ。分かっている。


 新藤にゃるは彼氏じゃない。新藤にゃるは面倒ごとを片付けてはくれない。新藤にゃるはこの世に存在しない。


 その当たり前の事実が、今はこんなにも、苦しい。


 そう思った刹那、こんこん、とドアが鳴った。


「真紀、いる?」


 慎太の声がした。慌ててアクリルスタンドを箱に戻す。ちょっと待ってて、と少し掠れた声で口にする。ずっと歯を食いしばっていたせいか、喉が痛い。


 クローゼットに箱を押し込む。どうぞ、と声をかけると、ゆっくりと慎太が入ってきた。


「夕飯、慎太が当番だよね? なんかあった?」


 平静を装って、軽く微笑む。


「いや、真紀の車が駐車場にあったから、先帰ってきたんだと思って。お兄さん、会社に間に合った?」


 お兄さん。痛いところを突かれたように、心にじんと、何かが滲む。


「うん、まぁね」


 少し間をおいて、そっか、と答えて、慎太はベッドに腰かける。そして、ぽんぽん、と布団を叩いた。優しいその叩き方は、こっちに座ってという合図だった。いつものように、真紀は静かに腰かける。正直なところ誰かと話す気分でもなかったが、慎太なら仕方がないと思った。


「なんかあったって顔してる。大丈夫?」


 慎太の眼差しは穏やかで、眉の端が少し下がっていて、真紀は軽く俯く。そんな心配してもらえるような自分じゃない。そんなことを思うと口が重くなって、どんな言葉を紡いだらいいのかわからなくなる。


「なんでそう思うの」

「そりゃわかるよ。昨日の夕飯のときも少し、顔色悪かったし」


 慎太はゆっくりと腕を上げる。そして真紀の髪をさらりと、柔く撫でた。


「無理に話さなくていいけど、話してほしいな」


 慎太は優しく、真紀の左手を取る。


 温かい。心にくすぶる何かが絆される。話してしまいたい、心の内をぶちまけて、本音を吐露したい。


 そんなことを考え出したら、止まらなくて。


「私、お兄ちゃんと、その、仲良くないの」


 止まらなくて止まらなくて。


「……お兄ちゃん、昔、私に言ったこと、覚えてなかった」


 零すような声が静寂を生み出す。怖い、と心臓の糸が張り詰める。けれど、慎太の手の温もりが、真紀を孤独感から引き離してくれている。だから、言葉が口から流れ出す。


「分かってるの。もう10年近く前の言葉を未だに根に持ってるなんて、馬鹿みたいだって、分かってるのに。お兄ちゃんのこと嫌いになっちゃいけないって、分かってるのに」


 真紀の瞳に、1ミリグラムの雫が宿る。悔し涙なのか悲し涙なのか、真紀には分からない。零れずにとどまる涙を拭う代わりに、真紀は鼻をすすった。


 ____夢見がちっていうか、現実生きてる? 頭大丈夫? 死ねば?


 兄の言葉が未だに幼い真紀を、心の中に閉じ込める。真紀はぎゅっと、慎太の手を握り返した。


「私が大人になれないんじゃない。あいつの言葉が私を大人にさせてくれないんだ」


 本心からの言葉を発して、真紀の頬に涙が伝う。


 やっと放った言葉を、慎太はどう受け取るだろう。怖い。家族とは仲良くすべき。分かっている。


 分かってはいる、けれど。


 真紀は願うように、目をぎゅっと閉じた。  


 慎太の指が手から離れ、真紀の涙の雫をそっと撫でる。真紀は顔を上げた。


「無理しないでいいんだよ。頑張ったね」


 驚きで目の幅を大きくする。だって絶対、家族と仲良くしなきゃダメだと言われる。そう思っていたから。


 穏やかな慎太の眼差しに、心が揺れる。


「……引かないの?」

「そりゃあ少し、その、驚いたけどさ。でも、引くまでいくわけないじゃん。だって、真紀が泣くほど苦しい思いしてんのに」


 慎太と目が合う。涙でぼやけた視界が開いていく。


「無理しなくていいんだよ。俺はよくわかんないけど、でも、お兄さんを好きになれないことも、昔言われた言葉を許せないことも、無理しなくていいと、思う」


 無理しなくていい。その言葉に、張り詰めた身体の内側が、優しく解けていく。慎太の声が、心に渦巻く感情を上書きする。


 完全に互いを理解することは不可能だ。血のつながった兄弟でさえも不可能だ。


 だけど、言葉ひとつでこんなにも身体は軽くなる。


 真紀は手を離し、涙を両手で拭った。顔を上げ、真っ直ぐに慎太を見つめる。


 心から話したいと思った。目の前のこの、愛しい人に。


「慎太、私、話したいことがあるの」



『ライブ楽しんできて!』


 メッセージとともに、白いうさぎのイラストのスタンプが送られてくる。慎太からのメッセージに、椅子に座った真紀は『いってきます!』と返した。


 スマートフォンの電源を切る。ざわざわとした暗闇は心地よく、期待と緊張でいっぱいの心をさらに満たしていく。ライブ会場はペンライトの光と、エコー・オン! が好きな同士たちの話し声で溢れている。 


 エコー・オン! のキャラクターの声優が出演する特別バンドライブ。チケット戦争を見事勝ち抜いた真紀は、この日を迎えることができた。


 慎太に二次元オタクであることを打ち明けてからというもの、視界が明るいものに感じる。きっと『好き』という気持ちが溢れて、世界を彩りはじめて、止まらないのだと真紀は思う。


 照明がゆっくりと消え、視界の暗闇が濃くなる。真紀は勢いよく立ち上がる。


 テンポの良いギターの音が響き渡る。間違いない、エコー・オン! のアニメのオープニング。キャー! と歓声が上がる。


『楽しむ準備、できてる!?』


 新藤にゃるの声。ステージの液晶画面にアニメのオープニングシーンが流れ始めた。一段と大きい歓声が上がる。


 真紀はペンライトを持っていない方の手で、白いブラウスの心臓のあたりを握りしめた。


 ___にゃる、にゃる。


 液晶画面の向こうのにゃると目が合う。声優さんに手を振る。


 ___にゃる。


 心の中で名前を呼ぶ。繰り返し、愛おしさが溢れる声で。


 ___彼に出会えてよかった。彼を好きでいて、よかった。


 新藤にゃるは彼氏じゃない。新藤にゃるは面倒ごとを片付けてはくれない。新藤にゃるはこの世に存在しない。


 だからなんだ。


 歌声が響き渡る。瞳に映る光景のすべてが光り輝く。


 新藤にゃるは推しだ。新藤にゃるは支えだ。


『行くぞー!』


 新藤にゃるは、光だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新藤にゃるは光だ 区院ろずれ @rukar

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ