ひとくち短編集
夜桜くらは
半人前の料理人
健吾がひとたび包丁を持てば、たちまちのうちに食材が姿を変えていくのだ。
その手さばきたるや、まるで魔法のようだったという者までいるくらいだ。
彼に料理を振る舞ってもらった者は皆一様にこう語る――あれほど美味いものは食べたことがないと。
そんな彼の料理を一度でも食べてしまえば、他のどんな店のものも物足りなくなってしまうというものだ。
そのため、いつしか健吾は料理の天才などと呼ばれるようになっていた。
彼自身も、それをまんざらでもないと思っているようで、時折自分のことをそう評していることもあるようだ。
そんな健吾を、一人だけ認めない者がいた。それは、彼の師匠でもある父・
彼は息子の才能を認めつつも、同時にそれを
確かに、健吾には天性の才能があったかもしれない。だが、だからといってそれで
◆◆◆
そんなある日、健吾は父に認めてもらおうと思い立ち、自ら腕前を披露することにした。
「なあ父さん……俺が作った料理を食ってくれないか?」
ある日突然、息子からこんな申し出を受けた時、誠一郎は一瞬何を言っているのか理解できなかったらしい。
しかしすぐに気を取り直すと、いつものように厳しく言葉を発した。
「お前のような未熟者が作ったものなぞ、食えるか!」
「いいから!とにかく一口だけでも!」
健吾は必死になって頼み込んだ。ここまで食い下がるとは思ってなかったらしく、誠一郎は少し戸惑った様子を見せたものの、結局折れてくれた。
そして渋々ながら、健吾の手料理を口にしたのだが……。
次の瞬間、誠一郎の顔色が変わった。そしてそのまま黙々と箸を進めていき、やがて皿の上のものを全て平らげてしまった。
それからしばらく沈黙が続いた後で、父がポツリと言った。
「……旨いな……」
それを聞いた途端、健吾は思わずガッツポーズを決めた。
その後、誠一郎はすっかり健吾のことを見直さざるを得なくなり、ついには彼の腕前を認めるようになったのだという。
それから健吾は、様々な料理を父に振る舞っていった。最初はあまり乗り気ではなかった誠一郎だったが、次第に健吾の努力を認めた上で、アドバイスを送るようになっていったそうだ。
こうして二人の絆はさらに深まっていくことになったのであった。
◆◆◆
「健吾。そろそろ本格的な料理を教えてやろうと思うんだが……どうする?やってみるか?」
ある時、誠一郎は息子に向かってこう問いかけた。
すると健吾は迷うことなく答えた。
「もちろん教えてほしい」と。
これまで、彼は様々な家庭料理を作っていた。だが、本格的なものとなると話は別だ。
そこで、ぜひ一流の料理人である父の技を学びたいと思ったのだ。
息子の返事を聞くと、誠一郎は嬉しそうな笑みを浮かべた。
そしてその日のうちに、早速修行が始まった。まず最初に和食の基本となる出汁について学んでいった。
昆布と鰹節を使った基本的なものではあるが、これがなかなか奥が深いものだった。
特に昆布については、煮出し方によって味が大きく変わるため、そこに至るまでの知識が非常に重要となってくるのだ。
健吾は持ち前の知識欲を発揮し、次々と新しいことを学んでいった。その吸収力の高さに、誠一郎も舌を巻きつつ
また、それ以外にも魚介類の
そうしてあっという間に時は過ぎ去り、健吾はついに和食の奥深さを知るに至った。
「よし……これで基本は全て教えたぞ」
「ありがとうございます、父さん!」
「……まさか、たった半年程度で全て習得してしまうとは思わなかったぞ。正直言って驚いた」
誠一郎の言葉に嘘はなかったようだ。実際、健吾の成長ぶりには目を見張るものがあったらしい。
そこで誠一郎は、健吾に食材の買い出しから全てを任せてみることに決めた。
これまでは、誠一郎が選んだ食材を使って修行を続けてきたわけだが、今度は自分で食材を選び、調理方法を考えなければならない。つまり、この試練を乗り越えられなければ一人前の料理人として認められないということだ。
当然のことながら、父としては厳しい条件を出したつもりだった。だが、当の息子は全く動じる様子を見せなかった。むしろやる気に満ち
「父さん、俺は必ずやり遂げますよ!見ていてくださいね!!」
健吾は自信に満ちた表情で宣言した。そしてすぐさま行動を開始した。
◆◆◆
誠一郎は、もう自分がいなくても大丈夫だろうと確信していた。
食材選びから下ごしらえまで、全ての工程を完璧に行ってみせると宣言した息子の目は、確かな決意に燃えていたからだ。
そんな彼の姿を見ていると、成長を嬉しく思うと同時に、少し寂しくもあるような気がしていた。
そんな複雑な気持ちを抱えながら、誠一郎は息子の帰りを待っていた。
しばらくして、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。どうやら息子が帰ってきたらしい。
だが、様子がおかしいことにはすぐに気づいた。何しろ、買い物袋を手に提げたまま、一向に台所へ行こうとする気配がないのだ。
不思議に思った誠一郎は、居間から出ていき、息子の元へと向かった。
「どうしたんだ、健吾?」
「……父さん、やっぱり俺一人だけでは無理みたいです……」
珍しく弱音を吐く息子を見て、誠一郎は目を丸くしたが、すぐに気を取り直すと、優しく語りかけた。
「一体どうしたというんだ?お前ならきっとできるはずだ」
「いや、こればっかりは父さんの力がないと……」
申し訳なさそうな顔をする息子に対し、誠一郎はふっと微笑むと、こう言った。
「俺の力が必要なのか?」と。
すると健吾は首を縦に振り、こう言った。
「どこのお店でも、みりんと料理酒を売ってくれなかったんだ。……だから、父さんに買ってきてもらわないと困るんだよ」
……そうだった。健吾はまだ高校生なのだ。未成年である以上、お酒を購入できないのは当たり前の話だった。
それを聞いた誠一郎は、思わず苦笑いを浮かべた。自分にとっては当たり前に買えていたものが、息子には買えない……。
息子が一人前になるまで、まだまだ自分がついていてやる必要があるなと思いつつ、彼は財布を持って出かけていったのだった──。
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