キンモクセイパレード

外東葉久

キンモクセイパレード

 玄関を出た途端、昨日とは空気が違うことに気づいた。気温や天気は、さほど変わっていない。

 鼻から息を吸い込んでみる。

 あ。

 もう一度、確かめるように小さく息を吸う。やっぱり。キンモクセイの香りだ。

 道に出て、しばらく歩いていく。どうやら、一夜のうちに街の空気を全て香りづけしてしまったようだ。

 近所の家の前に来ると、香りはいっそう強くなった。庭の塀からのぞく枝には、まだ白みがかった蕾が、ぎゅっと縮こまったように粒になって集まっている。

 しばらく進んでいっても、香りは消えない。まだ慣れていないのか、かぎすぎて少しくらくらする。なぜ一斉に咲けるのだろう。

 公園まで来ると、イチョウの木から銀杏の実がぱらぱらと落ち始めていた。潰れた実は、あの強烈な匂いを漂わせていて、鼻を忙しくする。実を踏まないように、ちょこちょこ跳びながら進むと、頭上から笑い声がした。自分の足からこの匂いがするのは耐えられないじゃないか、と思いながら、イチョウ並木を小走りで抜ける。

 定期的に、キンモクセイの甘い香りと銀杏の独特な匂いを繰り返しながら、家に帰ってきた。結局、足はきちんと拭けた。

 部屋に入っても、この季節の始まりに、テンションは高まる。開いている窓際に座って、空気の違いを楽しむ。うちの庭に、キンモクセイの木がないのが残念だ。

 翌日になると、香りにもほどよく慣れ、楽しめるようになってきた。一年の間で数日しかない空気なのだから、余すことなく楽しもうという欲さえある。なんとか1日2回くらいは外に出ようと頑張ってみるものの、やはりうちの主人では1回がいいところだ。

 それにしても、主人はこの香りに気づいていないのだろうか。そちらが鈍感なのは承知しているが、ここまで来てはキンモクセイがかわいそうにも思えてくる。一斉に咲いて、これでもかと存在をアピールしているのに、話題に上ることは少ない。こちらの世界では、秋に誰かと出会えば、必ず話題に出すものだ。この時期のことを、キンモクセイパレードと呼んでいたりもし、大事な年中行事の一つとなっている。

 例えば、毎年、誰が一番早くキンモクセイの香りに気づけるか、という謎の競争があったりする。けれど結局、キンモクセイの方が、打ち合わせたように一斉に咲くので、勝負は五分五分で終わるのが恒例だ。そんなふうにふざけ合うのも醍醐味である。

 こちらとしては、盛大にパーティーでも開きたい気分なのだが、穴の空いたカボチャや、赤い服の男の方によっぽど興味があるようで、健気なオレンジ色の花とその香りには、目も鼻もくれない。

 パレードが始まって数日もすると、花は元気に開いて、目につきやすくなった。この頃になってやっと、主人は、咲いたなぁ、などと呑気なことを言っている。ここまでの数日間がもったいない。

 仲間とは会うたびに、どこの木が美しいか情報共有をする。主人を散歩に誘う方法も聞き出し、今年のパレードは、1日2回の散歩に成功した。出不精のうちの主人に対しては大健闘と言っていいだろう。

 喜びに浸っていたのも束の間。ぱらぱらと花びらが落ち始めた。木の下は、粉をまいたように黄色っぽく染まっている。それをちょっと嗅いでみて、残りの時間を楽しむ。

 不穏な香りが空から漂ってきた。

 雨の香りだ。

 この雨がきっと、街の空気を洗濯して、花を落としてしまうだろう。

 今年のキンモクセイパレードは、これで閉幕だ。

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