第2話 よくできました

 特急きさらぎの窓の外に、赤い屋根が見えた。御山の媛首神社だ。

 私は憂鬱な気分になる。あれが見えたということは、目的の駅まであと二十分もないということを意味している。

 大宮駅から上越新幹線とき99号に乗り新潟駅へ。そこから特急きさらぎに乗り換えてしばらく───二時間程度揺られた先に、私の実家の最寄り駅はある。

 厭な実家は目前。

 最悪な気分。息を吐く。


 私の母はおかしい人なのだと気付けたのは、東京に出てからのことだった。

 東京の大学に進学して初めて、私は色んなことを知った。

 普通のお母さんというのは、道具を使ってまで子供を叩いたりしないこと。

 一度も百点満点を取れない人がいるのは、当たり前だということ。

 MARCH以下の偏差値の大学は、お母さんの言うような、言葉の通じない猿の群れなんかじゃないこと。

 そもそも母の言葉はその大半が現実味のない虚言でしかなく、KO大に入れない人間にも人権は当然のようにあった。いい人も沢山いた。母の何十倍も賢い人だって沢山いた。

 私の母はコンプレックスでできているのだと、ようやく分かった。田舎の高校では一番だったらしいけれども、受験に失敗して目当てのK大学に入れず。地方の国立大学を出て、働いて、出会ったのはK大学を出た父で。結婚し。それで母のコンプレックスが解消されるわけもなく。留学経験もなく実家も決して裕福ではない苦学の人であった父を、T大ではないという一点で見下しながら、自分のことを低学歴だと見下している、なんて被害妄想に閉じ籠った。その末に裁判を起こして親権を握って、父を家から追い払った。そんな傍迷惑で、自分に自信を持てず、他者を尊敬できず尊重できず、子供を自己実現の道具としてみている毒親。子供を───私を、なるべき理想の自分に育てようとした鬼女。

 百点を取ったことがない私に、百点以上を取らせようとし続けた女。それが私の母だった。

「私はね、あなたのことを考えてるの」

 これが口癖。いつだって私のため私のため私のため。

「この点数じゃはケーキ食べられないね。せっかく用意したんだけどな」

 中学以降、誕生日のケーキを食べた記憶がない。いつだって私のせい私のせい私のせい。

 少しでも反抗的な姿勢をみせれば、言いたいことがあるならはっきり言いなさいと怒り、言ってやれば言ってやったで親に向かってなんてこと言うのとヒステリックに怒り散らす。

 高校受験は県内で一番レベルの高い学校を狙わせられ、当然のように落ち、怒られ、そして浪人した。

「あんた本当にお父さんの子供なの?」

 これを言われたときは流石に泣いた。私ってこんなに泣けるんだって自分でびっくりするぐらい泣いた。うるさいって怒鳴られて、キラッとした何かが左目に入って、以降何も見えなくなった。

 大学受験も第一志望は受からず。もう一年浪人させてあげられるお金ないんだからねという言葉を毎晩のように聞かされながら勉強して勉強して勉強して

「はぁ」

「お母さんね。もうあなたの自由にさせてあげることにしたわ」

 K塾の模試の結果が悪かったのを見て、母は唐突に、けれどようやく諦めた。

 ふざけるなと。その時深く思って。私は、いったい、いまさら、いまさら自由、に、はあ、何を、どうして、理解、なんで、左目、ケーキ、何をいまさらそんなことを、言うんだ、この女は。

 でも、違う。この感情は、間違いだ。だって、

 期待に応えられなかった私が悪い。

 沢山お金と時間をかけて育ててくれたお母さんの期待を裏切り続けた私に、怒る資格なんて最初からないと思った、そんなわけないだろという心の叫びを無理矢理圧し潰して、はは、嬉しいじゃないか、これでようやく自由になれるんだから、この家から出て、都会に出て、好きに生きていけるだろうに、何を不満に思うことが、ある?

 自由に、なれる?

 まさか。そんなことはない。

 都会に出たとして、私一人で住む家を用意するのは無理だ。勉強しかしてこなかった私は、お金を稼ぐのも、住む場所を用意する方法も、何も知らない。母の手を借りるしかない。

 これは自由ではないんだってわかった。一度仮初の自由を与えたうえで、自分の力ではうまくいかないことを思い知らせて、自分の意思で戻ってこさせる、支配のための自由だった。

「結局、私がいなきゃなんにもできなじゃない。でも大丈夫よ。こうすれば絶対幸せになれるから」

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

 母の顔が、父の顔が、祖母の顔が、祖父の顔が、あまりに、憎い。

 特に母の、母の笑顔が、心の底から

「私たちの命運はお前にかかっておる」

 こんな小娘に一族の行く末とやらを背負わせ、

「一族のため」「殿様がお前を好いてくれたのじゃ」「断る理由などあるまい」「お父様も喜んでおられたぞ」

 知らない知らない。そこにお前の幸せがあったとしても、私の幸せはかけらもないじゃないか。私は、私はお前の心を満たすために生まれてきたわけじゃない! この婚姻はお断りさせて

「ならん! この……育てた恩をなんと心得ておる!!」

 うるさいうるさい。うるさいぞ鬼婆

「絶対幸せになれるんだから」「お前が嫁いでくれたおかげで我らの今後は安泰じゃ。ありがとう。ありがとう」「絶対幸せになれるんだから」

 違う、これは私の夢じゃない。私の母はこんな顔をしていない。私の母の顔だ。

 私はこんな着物を着たことない。こんな男と契ったことはない。こんな女に、夫を奪われたこともない。こんな、なに、これ。木の床。障子。大きな座敷。闇。蝋燭。ゆらゆら。絡み合う白。白。私の。その、


「───斬首せよ」


 ああ、これは、夢か。


 いつの間にか寝ていたみたいだ。

 私は目を覚ます。

 幸い───不幸にもかもしれないが、目的の駅を通りすぎてはいなかった。

 スマホに通知が来ていた。見知らぬアドレスからのメールだ。最近よくある。就活サイトに登録して以来、知らないアドレスからのメールはひっきりなしに届く。煩わしいが、今の時期、通知を切るわけにもいかない。舌打ちしつつ、念のため確認する。

『殺せ』

 そうすることにしました。

 特急きさらぎは駅に着く。

 改札を抜けて、NEWDAYSにより、ボールペンを買う。黒を買ったあと、赤にすれば良かっかなと思ったけど、まあ別にどちらでもいいか。

 不思議と気分は軽かった。ボールペンを弄り、カチャカチャ言わせながら道を進む。

 東京から見ても京都から見てもこの土地は艮の方角で鬼門に当たる。蝦夷の地には怪外が住む。まつろわぬ民。土蜘蛛の土地。

 鬼が棲む。

 妖異が棲む。

 龍が棲む。

 天狗が棲む。

 夜叉が棲む。

 祟りが起こる。

 おんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおんおん

 こみやかわ おおた ゆるすまじ

 わがち わがみ わがこつにくをなすすべてのもの ゆるすまじ

 わがはは わがちち わがそぶつにいたるまで すべてすべて ゆるすまじ


「ただいま」


 廊下の向こうからお帰りと声がする。

 扉の開く音がする。

 母が笑顔でやってくる。

 私は笑顔でペンを振る。

 玄関に大きな花丸が咲いた。


 百点満点。よくできました❗

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