臍帯者

電楽サロン

臍帯者

 夜、目の前で老婆が轢かれた。つい20秒前に道を訊かれたばかりだった。僕は駅の行き方を教えてやり、老婆が歩き出したところだった。青信号の交差点でミニバンは老婆だけを綺麗にボンネットで撥ね飛ばした。10メートルほど老婆は転がった。五回も転がるともうネズミの死体と見分けがつかなくなっていた。

 ボロ布の肉塊はカラス避けをしたゴミ捨て場の前で止まった。老婆が最後に残したのはアスファルトに付いた三つの血痕だけだった。

 不運な死だが、予期された事故だった。歩く老婆の身体から灰色のゴムホースが天に伸びているのを僕は見ていた。これを臍の緒と呼んでいた。死ぬ前、人には必ず臍の緒が見えた。

 初めて見たのは小学四年生のときだった。僕は両親と韓国旅行に行く予定だった。釜山行きの便に乗ろうとすると、皆一様に身体から管が伸びていた。管は灰色で少しよれた和紙のような質感をしていた。管の先端は飛行機の天井をすり抜けていた。乗客が笑ったり動いたりすると、動きに合わせて管が揺れるのが不気味だった。

 僕は飛行機を降りようと両親に振り返った。ふたりの頭から管が伸びているのに気づいた時には遅かった。

 母の後ろにいた男がいきなり銃を乱射した。

 銃声と赤く染まる母のカシミヤのコートが気を失う最後の記憶だった。

 乱射した男に臍の緒は生えていたのだろうか。

 病室で見たニュースには犯人の詳細が出ていなかったから、きっと生えていなかったのだろう。犯人はまだ捕まっていない。

 サイレンを鳴らしてパトカーが横ぎった。

 老婆を救急隊員がストレッチャーに乗せる。その拍子に老婆の胸がもぞもぞとうごめくと、身体から拳大の綿が抜け出た。白くて綺麗な綿が臍の緒の端を包んでいる。そのまま綿と臍の緒は天に向かってするすると昇り始めた。一定の速度で臍の緒は天に吸い込まれる。ゆっくりと、ゆっくりと風にあおられることもなく滑り上がる。20分もすると空の点に変わっていた。

 僕は腕時計を見る。死亡時刻午後7時21分34秒。見知らぬ老婆を見送る。僕は去りゆく救急車に会釈した。

 念のためスマホに死亡時刻をメモする。簡易的に1921と入力した。臍の緒が見えるようになった後、死に立ち会ったら必ず記録しておくようにしていた。同じような数字の列が画面を埋めている。すでに100は超えていた。だが、未だに同じ数字は出てこなかった。打ち終わった1921を僕は見直す。小さな違和感を覚えた。時刻リストを上からスクロールする。

 半分ほど過ぎたあたりで別の1921を見つけた。同じ数字を見たのはこれが初めてだった。

 最初の1921を思い出すのは容易だった。2年前、夏祭りに出向いたときだった。飛行機の一件以来、僕は人混みが苦手だった。人の合間をすり抜けていると銃の男を幻視した。だから、自発的に夏祭りに行ったのは今でもよく覚えている。あの時は自分のトラウマを治せると考えていた。小さな子どもがいつの間にか一人で寝られるようになるのと同じで時間が解決してくれると思っていた。

 川沿いの商店街を僕は歩いていた。2年前の当時流行っていたポップソングがスピーカーから流れてきた。ざらついた音響が人を浮立たせていた。浴衣姿の男女が通りを埋め尽くす。一歩踏み出そうとする。僕は握る手に汗をかいていた。

 後ろから声をかけられた。振り返ると洋装の男が笑っていた。麻の白いジャケットが涼しげだった。肌が浅黒く、背は僕と同じくらいの170センチ過ぎだろう。肩からは臍の緒がうっすらと見えはじめていた。

 姿とは裏腹に男は快活そのものだった。初めて見た僕の手を引き、群衆に割って入った。強引にも我儘にも感じなかった。むしろ僕は彼の振る舞いが好ましかった。あれほど恐れていた集団も彼の背中を見ていれば不思議と何も感じなかった。

 初めて屋台の焼きそばを食べた。僕は遠慮したけれど、彼の食べる姿を見ていたら腹が空いた。射的もやった。僕は景品にチューインガムを手に入れた。銃も怖かったのに祭の熱に当てられたのだろう。存外に楽しめてしまった。僕がコルク銃を渡そうとすると、彼はやんわりと断った。

 肩にある臍の緒が色を濃くしはじめた。彼は僕を川岸に誘った。商店街の喧騒を後にする。風が吹き、祭りの熱気を身体から拭った。

 僕は誘った理由を聞いた。俯き、考えるようにして30秒。彼は僕に笑いかけて答えた。この時の答えを僕は覚えていない。言葉に被さるように花火があがったからだ。内臓を押し上げるような音だった。ピンクや緑の光に照らされて男は花火を見上げていた。臍の緒も光を浴びて独特な色を帯びていた。僕も花火を見た。銀色に輝くスターマインが夏の空を飾っていた。

 来てよかったよ。彼に礼を言おうとしたが、もういなかった。煌びやかな光の中で臍の緒と白い綿が夜空に昇るのが見えた。死亡時刻午後7時21分42秒。川の波紋を見送る。

 花火がまた打ち上がった。

 緑の光が僕を照らす。スマホをしまい、交差点を歩く。


 乱射した男に臍の緒は生えていたのだろうか。


【了】

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