憩いの別荘

はじめての感情

──騎士団の先輩方に挨拶するという理由で、ラヴィールはオルガ嬢の傍を離れていたときのこと。


 尿意に襲われ会場を離れたものの、用を済ませたら彼はすぐに戻るつもりだった。スッキリした帰り道に、不審な男が屋敷内をウロウロしているのを見かけるまでは。

 式典の前の方に座っていた、自分と同年代の少年。親近感と興味から、彼は「あの」と声をかけた。

 振り返った少年の顔を見て、ラヴィールは息を呑む。

 鋭い眼光で睨んできたからではない。ましてのっぺらぼうだったとかでもない。単純に、少年の容姿がこの世のものとは思えぬほどに整っていたのだ。

 少女と少年の中間に居そうな美少年は、長い睫毛をパチリと上下させる。それだけで時が遅くなったように錯覚した。

「主役がどうしてここに?」

 高すぎない、少年特有の声。温厚で柔和な、疑念を失わせるような声と表情だった。

「手洗いに。それより、屋敷の関係者ではありませんよね。迷われたんですか?」

 質問を返された美少年はなぜか驚いた顔になり、じりじり滲み寄ってきた。ほとんど変わらない身長のせいか、水色の瞳の細部まで見えてしまう。

 どういう状況だこれは。なぜ男同士がこんなに至近距離で見つめ合うことになっているんだ。

「……あの、近いです」

 肩を軽く押すと、美少年はハッと目を丸くして「ごめんごめん」と軽く謝罪した。

「君はんだね」

 意味深な発言にラヴィールの眉が寄る。

「たいていの人って僕に反感というか疑心というか、そういう負の感情を感じにくいんだけど、君はそんなことないもんね」

 と喋る美少年から無意識に距離をとる。

 他人の屋敷内を勝手にうろつく輩を前に、疑心を抱かない人間など果たしているのだろうか。

 剣柄に手を添え、

「話が逸れてます。この屋敷にどのようなご要件ですか」

 鋭い視線が美少年を射抜く。

「どのような……」

 うーん、と考えるように視線を彷徨わせた美少年は、近くにあった庭園の薔薇に手を伸ばした。

 パキッと微かな音を立てて手折った薔薇をもつその手にうっすら血が滲む。奇怪な行動に唖然とするラヴィールに、

「怪我しちゃったから、医務室に案内してほしいんだ」

 と微笑みながら美少年は言った。

「……そんくらいの怪我なら、医療テントで事足りるかと」

「この薔薇、毒があるんだよ?毒の処置も医療テントでできるものなの?」

 血が垂れる指を揺らしながら美少年が言う。

 傍から見れば、この少年が勝手に内部へ侵入して起こした事案であり、かつ目的が見えないうえに強引に屋敷の内部へ入ろうとするこの輩を医務室に案内することのほうがリスクがある。

 薬を持っていくなどのほうが懸命な判断なのだが──……。

「毒!?」

 と血相を変えたラヴィールは、未だ血が止まらない美少年の指を勢いよく掴み、その傷口に唇を寄せた。

「へっ!?」

 血を吸い上げられた美少年は羞恥に顔を真っ赤に染める。

 ペッと血を吐き出したラヴィールは、

「応急処置です。手は洗えば俺の唾液なんてなくなります。今だけ我慢してください」と真剣な表情で言った。


 指を掴まれたまま美少年は硬直する。

(なんだコイツ!この僕に許可もなく触れるなんて、いやそもそも人の血を舐めるか普通!?いやいやそうじゃなく、僕の立場を思い知らせてやれば──)


 そしたらコイツは、恐れ戦き僕にひれ伏すだろう。そして、──……。


 真っ直ぐなラピスラズリ色の瞳と視線が絡む。周りが男ばかりで忘れられがちだが、紫黒髪の美少年に負けず劣らず、ラヴィールも端正な顔をしている。彼は美しいもの、綺麗なものを好む。故に美少年はラヴィールを嫌いになれなかった。

 それに、損得勘定抜きで、もっと言えばよこしまな感情抜きで初めて心配された瞬間だった。

 美少年は結局なにも言うことができず、促されるまま腕を引かれ医務室へ連れられた。



 これが、二人が並んで医務室へ入ってきた成り行きだった。

 説明を受けた専属メイドはおもむろに立ち上がり、無言でラヴィールの腕を力強く引いた。

「……身内が、なにか失礼をしませんでしたか?王子殿下」

 警戒心を隠す気のないメイドに腕を掴まれたまま、ラヴィールは驚愕に目を見開く。

 予知を見たメイドがここまで警戒する王子殿下と言えば、一人しか心当たりがない。


──未来でオルガ嬢と側近の処刑を決めた、張本人。


「案内してもらっただけだよ」

 ふわりと微笑む隣国の王子になにかを感じたのか、メイドはいっそう警戒を強めた。

「用があったのは君のお姫様なんだけど……」

 メイドの奥にいる令嬢を一瞬見やるも、

「お姫様より面白い子と会えたから、今日はいいや」とラヴィールに視線を戻した。

「君、ラヴィール・ダンデリオンっていうんだよね?愛称は?」

 顔を近づけられたラヴィールは迫力に負け、

「ラビ、です」と口走る。

 王子は「ラビか、良い響きだ」と満足そうに何度かうなずき、

「僕はヘルゼ・メチェイクト。隣国の第二王子だ」と目を細めた。

 自己紹介に「やはり」と確信する。

 けれど夢で見たときより目つきは温和だし、話は通じそうだ。「残虐、無慈悲」という言葉が似合わない容姿と雰囲気に戸惑う。が、ラヴィールはハッと思い出す。

「手!解毒!」

 慌てる少年に、メイドは「毒?」と目つきをさらに鋭くする。

「王子殿下。毒殺されかけたにしては、お顔色も体調も良好に見えますが」

 メイドの問いに、王子は「あー」と軽く手を振りながら、

「毒のある薔薇の棘が刺さっちゃって」

「………………アランジュ家の薔薇は、すべて毒を生成しないものが植えてあります。それを、ご存知なかったのですか?」

「へぇ?初耳だ」

 王子とメイドの間に見えない火花が散る。

「じゃあ毒の心配はないんですね。ひとまずよかったです」

 ラヴィールの安堵したような表情に王子の眼が見開かれる。他人に心配されることが珍しいとでもいうような反応だった。

「簡単な手当ならやりますから座ってください」

 ラヴィールに言われるがまま、王子は木製の椅子に大人しく腰掛ける。様子を窺っていたソッフィオーニは信じられないものを見る目でその光景を眺めていた。

「……君、変わってるよね」

 王子の呟きに首を捻り、

「どの辺がですか」と返した。

「君は、迷いなく僕の毒を吸い上げたよね」

「……そうですね」

 王子相手に無礼だったか、とラヴィールは気まずさを露にした顔を上げる。

「僕のことよく知りもしないのに、どうして助けようと思ったの?君はここの屋敷の顔を意識しているわけでもなさそうだし」

 血を洗い流した指にガーゼを巻く様子をじっと見つめながら王子は言う。ややあって、ラヴィールは「王子が」と口を開いた。

「王子が、金髪ではなかったので。あと人に優しくあれと母親がよく言ってたので。その真似事です」

「優しく……?他人に優しくしてなんの意味があるの」

「……さぁ」

 わかりません、とラヴィールは目を伏せる。

「母親は尊敬できる人でしたが、……理解できない部分は、たくさんあった。けど優しくするのは、いつか自分が得をするからだと言ってました。優しさはいつか、信頼や絆となって返ってくるそうです」

 けど本当かはわかりません、とラヴィールは繰り返す。

 夜になりかける空を思わせる瞳には暗い影が落ちていた。

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