ただの悪夢であればいい
その日の夜、宿舎に帰ったラヴィールは気を張っていたためか、洗われた綺麗なシーツの上にダイブし、そのまま眠りについた。
「ラビ、聞きました?お嬢様のご婚約のお話」
なんだそれ、と思う前に「聞いたよ」と不機嫌な声が応えた。手には見たことのない剣が握られ、心做しかいつもより視点が高い。いつも鍛錬する場所ではない。庭の門番を振り切る時にこんな庭を見た気がしないでもないが──、
いや、そこじゃない。それは今はどうだっていい。それより愛称で呼ぶこの女は誰だ。声に聞き覚えはあるが、まさか。
「……ラビ」
視点がその女──会ったばかりのメイドに向けられた。髪の長さは変わらず、無表情が少しだけ崩れている。
「言ったでしょう。そんな想いはつらくなるだけだと」
心配している声色だ。それに反発するように、
「わかってる!」と自分が叫ぶ。
メイドはそれ以上何も言おうとはせずに口を
そこで場面が切り替わり、いつの間にかベールを被った令嬢と対面していた。
『隣国の王子様との婚約だなんて、私には勿体ないお話だよ』
と微笑む令嬢の声には震えが混じっていた。
そこからは一場面ずつ、映像が怒涛の勢いで展開されていく。
あっという間に結婚式を挙げ、かと思えば令嬢は牢屋のような場所で高貴な身分の罪人のような生活を強いられ、そして。
「魔女を許すな!」
「魔女を吊し上げろ!」
令嬢は太い柱に
なぜこんなことに、と問う前に答えはわかった。まるで自分がずっと経験してきたことのように、鮮明に今までのあらましが浮かんだ。
隣国王子に見初められ嫁いだ矢先、生きるか死ぬかの毎日を送っていた市民の怒りが爆発したことから始まった、貴族制度反対の運動に巻き込まれたのだ。
その後、嫁いできた令嬢は財を使い果たした悪魔の貴族、魔女などと揶揄されて極悪人のレッテルを貼られてしまった。その証拠が定かか確かめもせずに。
ついに市民は王宮に乗り込み、令嬢は捕らえられ、火炙りの刑が決まってしまったのだ。その専属騎士であったラヴィールと専属メイドも刑を受けることとなり、ラヴィールは手錠を付けた状態で令嬢を見ることしかできなかった。
そこで、映像が途切れた。
目を覚まし、ゆっくり身を起こす。汗でシーツがぐしょりと濡れていた。瞼の裏に残る光景を振り払い、靴を履く。
水差しを乱暴に傾けてカップに水を移す。だが震えた手ではカップをうまく持てず、落としてしまった。
「……ただの夢、だよな」
そうではない、と本能が言う。あんなに鮮明な夢がただの夢なわけがない。かと言って、それが現実に起こる確証もない。
逃げ出したい、と思った。
今すぐ専属騎士なぞ辞めれば、きっと己の命は助かるだろう。だってオレには野望がある。それに貴族を嫌っているあの市民たちの気持ちは痛いほどに分かる。
──けれど。
貴族は皆、順風満帆な、贅沢な暮らしをしているのだと信じて疑わなかった。血税を取り立て、私服を肥やしているのだと。高貴な服を身にまとい、己を尊い存在に見せることがすべてなのだと。
少なくともこの家の人間は違うのだろう。侍従はみな忠誠心をもち、主に仕えていた。それは人望があるのと同義だ。
その一家を見捨てて、本当に後悔はしないだろうか。ラヴィールよりはるかに身分が高いはずなのに、自分の意見を言っていいのか躊躇うような素振りを見せる令嬢に、このまま死の道を歩ませてしまっていいのか。
──だが本当に善人かまだわからない。
慕っているのはあくまで使用人たちだ。ラヴィール自身じゃない。使用人たちの反応で「良い人間」だと決めつけては、結局色眼鏡をつけていることに変わりない。
とどのつまり、自分の目で見て判断していくしかないようだ。
問題を後回しにしたことに変わりはないが、どっちみち自分の指針を定めなければ動き方なぞ分かるはずもない。
とりあえず寝よう、とラヴィールは濡れた敷布を畳み、予備のものに変えてから布団を被った。
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