改めてご挨拶
上官と館の主とが紅茶を啜っていた頃と同時刻、メイドに案内された扉の前で、ラヴィールは一人深呼吸を繰り返していた。
見かねたメイドが、
「ラヴィール様。お嬢様もソッフィオーニさんもお優しい方ですから、大丈夫ですよ」と笑顔でフォローを入れた。
ソッフィオーニというのは、すこし前に出くわした例の可愛げのないメイドのことだろう。あれを「優しい」の部類に括るのなら、世界中の大抵の人間は「優しい」にカテゴライズされるのではないか。
「えぇと、はい。もう平気です。お時間とらせてすみません」
まったく平気ではないが、そうでも言わなければこのメイドがこの場から解放されない。仕事内容は一ミリもわからないが、すくなくとも暇な仕事ではないことくらいわかる。
「わかりました。ではお声がけしますね」
メイドはにこりと微笑むと、焦げ茶色の扉を手の甲で叩いた。
「お客様です。お通ししてもよろしいですか?」
声がけの後、ややあってから女が一人顔を覗かせた。
やはり、あの黒髪メイドだ。
くすんだブルーの、目尻が細長い瞳。殺し屋と言われた方がしっくりきてしまう。
「お客様というのは……ああ、例の専属騎士ですか」
いやちょっと待て。
脳内にいるもう一人の自分がお茶を吹き出す様が鮮明に浮かんだ。
オレの腕を捻りあげたあのゴリラはどこへいった。どこからそんなしおらしい──いや、優しい綿毛のような声がでてくるのか。
「少々お待ちください」
にこ、と唇を曲げるだけの微笑を向けられた。
眉が下がり、目の雰囲気が和らぐ。それだけでもうギャップとなる。──が、
「お待たせしました。どうぞ」
黒髪メイドが扉を開き、彼を招き入れた。
クリーム色の室内に、陽が差し込む設計になっている大きな窓。白の部屋に黒があるとそれだけで目立つ。
出会ったときと同じ黒のロングドレスに身を包んだお嬢様が、ちょこんと一人がけソファに収まっていた。
室内だというのに、相変わらずレース編みのベールを被っている。
「アランジュ当主より、専属騎士の任を課されました。改めまして、ラヴィール・ダンデリオンと申します」
深く礼をしたラヴィールの耳に、パスパスと手袋越しに手を叩く音が届く。
ドレスと同色のロンググローブがその音にしているらしい。
『わたしはアランジュ家第二子、オルガ・アランジュです。よろしくお願いします』
音を介さずに、直接言葉が頭に流れてくるような妙な感覚だった。しかも聞いたことのない声で再生されているから、余計に脳が混乱する。
「本当に、お嬢様の声が聞こえるのですね」
じっと探るような視線が背に刺さる。
「当主から説明があったかもしれませんが、お嬢様は私以外の人間との意思疎通が難しいのです。御家族はおろか、使用人でさえも会話をすることができません。……いえ、できなかったはずなのですが、あなたにはお声が届くのですね」
メイドの言葉に、オルガ嬢は小さく首を動かした。
疑問しか浮かばないメイドの発言に眉を寄せ、
「……えっと この声?は、私たちにしか聞こえないのですか」とメイドを見やる。
「そう言われても理解はできないかもしれませんね。おそらく今日の晩餐に招待されると思いますので、そこで見ていただいたほうが早いかもしれません」
令嬢は抑揚なく言った。
ベールに隠れているため、彼女が今どのような表情を浮かべているのかわからない。
「た、たいへんですね」
素直な感想を、たいして思考せずに口にしてしまった。
令嬢の息を呑む気配があった。
「あ、いや……なんというか、その……」
同情するでもない、突き放したような言葉に聞こえてしまっただろうか。冷や汗が止まらず、制服に染み込んでいく。
『……たいへん、なんて言われたのは初めてです』
そりゃそうだ。
誰もそんな、他人事のような物言いをできるわけがない。普通同情を見せるなり、令嬢を慮るような発言をするだろう。それが気遣いというものだ。
「あの、失礼──」
『あなたは、喋れないほうがいいって言わないんですね』
言いかけた言葉が澄んだ声に遮られる。声量は絶対にラヴィールの方が上だったのに、言葉に詰まる。
手を膝に置いた彼女が、じっと見上げてくる気配があった。
「喋れないほうがいいってことはないでしょ」
間を置いて応えると、令嬢がかすかに息を呑んだ気がした。
「このすっとこどっこいは敬語をどこへ置いてきたのかしら?」
メイドの憤怒が背後からでもわかる。ラヴィールは「ひっ」と肩を縮めた。
『そう、かな』
怒った雰囲気は欠片も感じない。戸惑いと疑念と、かすかな羨望が混じっている声だった。誰とも会話が成り立たないというのは、想像以上につらいことなのかもしれない。
──それにしたって、喋れないほうがいいなんて。誰かに言われたんだろうが……。
まだ知らないことしかない。あの莫大な契約金も、令嬢にはなにかあると言っているようなものだ。
悪い人ではなさそうだが、とラヴィールは心の扉に手をかける。貴族はどこまでいっても貴族だ。完全に信頼することなどできない。
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