第2話 予兆

 くぐもったチャイムが一時を告げる。休憩の時間だ。この「休憩」というのは決まった時間が定められているわけではなく、断続的な電気の供給が一定時間止まることが分かると発表される。そのため、時には午前中に休憩が入ることもある。私自身としては、退屈とはいえ仕事をしている方が暇つぶしになって好ましいのだが、同僚の多くは休憩そのものを神聖なものと見なして崇敬しているようだった。

 とはいえ、今から数十分から数時間は仕事ができなくなるのは明白だ。どこかでこの退屈な時間をすりつぶす必要がある。私は普段、出勤時と退勤時以外はあまり庁舎の外に出ることはない。格別面白い見世物も、何か魅力的な露店もそこにはない。あるのは役人以外は誰も利用しない石畳の道と、空疎なショーウィンドウだけだ。店の主人がいつから消えたのかは分からないが、彼が二度と戻ってはこないことと、この店に政府から配給される公式物資が到着するまでに半年以上を要することは確実だろう。

 ただ珍しいことに、今日は外に出て散歩しようという気になった。少し興味深いものが見えたからだ。そもそも、このコンクリートの監獄に自主収容されている身としては、こういった仮釈放の機会をみすみす逸するのは賢明でないという気がしてきた。もし職員が外を散歩したいと考えたなら、まずはボードに記入する必要があった。

 「十三時十分 外出」

時代遅れな筆記具に手こずりつつ、なんとか書き終えると、私は足早にエレベーターの前まで移動し、下向きの矢印が刻印されたボタンを押し込み、しばらく佇んでいたが、自分の愚かさに気付くまでにそれほどの時間は必要なかった。電気が止まっているのになぜエレベーター(停電していなくても停止することもあるが)を使うことができようか。

 私はくるりと踵を返し、エレベーターとは反対側に位置する階段を足早に下って行った。少し高い音が自分の革靴と灰色のコンクリートの間で跳ね回るのを感じつつ、一分もしないうちに玄関のホールに着いていた。たまたま他の職員と時間がズレたお陰か、ホールは人の体温の余韻を残しつつも、私以外に誰もいないことをその静寂で主張していた。そしてこの無人状態は、静寂だけでなく、ホールの全容を落ち着いて観察する余裕まで私に与えてくれた。まず目につくのは停電でそのひび割れと色落ちを露わにしているシャンデリアだ。政府によれば、「心ある市民の寄贈品」とのことで、根元にある外国のプロダクトコードは、我が国の国民の高い外国語能力を示しているのだろう。次に目につくのは、錆び切ってザラメ砂糖(最後に砂糖が配給されたのは三年前だが)のようになった金具と、それを隠すように上から塗られた乳白色のペンキだ。ただそのペンキでさえも剝がれかけており、そろそろ再度の塗装が必要なのは明白だったし、どんなに外見を取り繕っても、近いうちに引力に誘われて、物理学的に本来あるべき場所に復帰するのは誰の目にも明らかだった。

 しばらくシャンデリアに視線を投げつけていたが、いくら待ってもシャンデリアが物理学的な自己主張をする気配はなく、少しがっかりしながら私は玄関をくぐった。玄関を抜けて石畳の上に降り立つと、秋風が袖口の中に侵入してくる。寒さに身震いしながら左右を見渡していると、先ほど庁舎から見たときよりも鮮明に「それ」はそこにいた。

 数十人の、怯えてやせ細った市民がそこにはいた。官庁街には飲食店はほぼ存在しないか、閉鎖された廃墟と化した店舗跡しか存在しない。どうやらゴミ箱を漁って飢えをしのごうというわけではないらしい。ちなみに政府の見解によれば、我が国には物資は掃いて捨てるほどあり、やせ細った市民がゴミ箱を必死に漁っているというジャーナリストの写真に対しては、捏造、もしくはリサイクル業者を撮って悪質なキャプションで印象操作をしているということらしい。ただ少なくとも、目の前の市民の群れがリサイクル業者でも、ゴミ箱を漁りに来たわけでもないことは明白だった。彼らはじろじろと官庁街の建物に舐めまわすような視線を向けると、今度は建物の周りを回りながら何かを話し合っているようだった。ただ、その内容を聞ける距離まで接近するのは不可能だろう。それに気付かないほど彼らが愚鈍でないことは、その鋭い視線からも明白だったし、何より彼らが私の身分に対して親愛の念を持っているわけがないのも簡単に察することができた。彼らはしばらくその「視察」を実行するようだったので、私は車道(最後に車が走っているのを見たのは三か月前だが)を横切り、彼らの斜め後ろに陣取って見物を始めた。彼らを見ていてまず気付くのは、彼らの足元の貧弱さだ。多くは裸足で、数人は黒ずんだ作業靴を履いているが、底は抜けかけ、穴だらけのそれは、もはや靴と呼んでよいのかも怪しい代物だ。被服も酷いもので、色落ちしてほつれたズボンに、ネズミの巣の方がまだ清潔に見えるような、シミだらけの布切れを身体に巻き付けている。恐らく古代の野蛮なバイキングですら彼らには同情してしまうだろう。

 そんな中、奥の建物の裏から出てきた一人の市民に私は目を奪われた。別に周りと比べて特段見た目が違うわけではない。が、その特徴的な面長で目元に黒子のある人物は、もし私の来ている背広を着せたらそこらの大臣や高級官僚よりも威厳があるだろうと思えるほど、英雄的な空気を放っていた。その雰囲気は、裸足に茶色っぽいぼろ切れといういで立ちには収まりきらない程のもので、何か一撃が加わってしまえば、あっという間にこの官庁街の目の届く範囲を席巻することは明らかだった。彼は身振りを交えながら建物の偵察の成果を共有しているようだったが、その表情や周りの人間の反応などから、かれに弁舌の才能があることも明白だった。

 すると刹那、彼が次の偵察対象を見て説明しようとした瞬間に、私の視線と彼の視線が空中衝突した。彼はコンマ数秒の間、思考を巡らせると、仲間に何かを手短に伝え、一斉に裏路地に入り込んで退散を始めた。私も慌てて追いかけたが、彼らの軍隊(我が国の軍人は給与の未払いと武器の横流しで有名だ)さながらの整然とした動きには付いていけるわけもなく、裏路地の入口に着いた時には、彼らは既に突風のように過ぎ去っていた。昔、まだ書籍が燃料として見なされていなかった頃に読んだ本の一節を思い出した。

 「嵐の前には、風が止む。」

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