虚構の国

@heinkel

第1話 嘘の国

 雨に濡れた石畳に、湿った足音が響く。この「官庁通り」はわが国でも珍しい舗装路だ。街路時の葉が落ち、隙間から青空がこちらを覗いている。自分の職場までは駅から歩いて10分、この通りを直進すれば気付かぬ間に右手に見えてくる。曇った窓ガラスに無機質なコンクリートの柱、そして不格好かつ不相応なオーク材の正面玄関。そんな中、ひときわ自己主張が激しいのがこの「今週のスローガン」と題されたカラフルな垂れ幕。今週は「買いだめは国民の恥」という無意味なスローガンが風に揺らいでいる。  玄関を潜り、正面ホールのシャンデリアを見上げていると、馴染みのある大声が背中に突き刺さる。

 「おはよう!元気かい?」

声の主はレイ。部署は違うが、大学の法学部からの友人だ。真面目で明るく、上司や同僚からの評判も良い好人物。強いて言うならば、この声量が玉に瑕、といったところか。彼は「輸入課」の職員であり、私のいる「市場課」とは市場価格の統制についての会議でくらいしか会うことは無い。

 月並みな世間話をしながらエレベーターに乗ると、彼は少し声を抑え、自らが先月に関わった鉄筋の輸入コンテナが、受取り直後に港ですべて海中に廃棄されたという話をしてくれた。このような話は珍奇なものではなかったし、「市場課」でもその手の話は当たり前の前提として受け止められていた。市場価格、月の輸出入量、賃金の上昇率。そんなものに意味がないことなど、入省して一年もすれば誰でも理解できることだ。

 エレベーターのランプが鈍い音と共に点り、「市場課」のフロアに着いたことが分かった。レイと軽い挨拶を交わし、エレベーターを降りる。壁に掛かった「出勤ボード」に名前と時刻を書き込む。先月までは油性のインクで書き込む形式だったのが、油の不足からか、古き良き時代を想起させる木製板に墨で書き込むようになっており、不器用な私は袖に墨が付かないよう、たいそう苦戦して何とか書き終えた。


八時五十分 ソウ


 書き終えて室内に視線を巡らせる。右手に自分の仕事場があり、一日を壁に向かって並んだコンピュータの列に身を埋めて過ごすことになる。左には課長の机があり、年季の入ったそれは、一種威圧的な空気を醸し出していた。一通り見まわして変わり映えのない一日を予感したところで、ようやく仕事にかかる気になった。仕事、と言っても上司から転送されてくる数値を訂正するだけの単調で色の無い作業でしかない。この市場課は公式には「市場の価格を統制し、潤沢な物資を市場に公平に分配し、市民生活の充実を図る」ことが主任務とされている。が、現在取り掛かっている市場価格の目標修正も、先月の市場価格のレポートも、何の意味も持たない空虚な数字の群れでしかない。簡単な話で、我が国に市場やそれに類するもの、そんなものは存在しない。我々の作成しているこれらの虚無の集合体は、外国向けの政府会見の資料にしかならない。一般市民はみな、公営市場や正規市場に何か月も希望を託すのをとっくにやめ、郊外や地下鉄、裏路地での取引で糊口をしのいでいる。政府の公式見解によれば、我が国のような物資が溢れている国家では、そのような行為はあり得ず、もし存在するとしても、「ごく少数の物好き」によるものであり、政府が取り締まるには当たらないそうだ。この決定のお陰で市民は今までのように停電した地下鉄で警官(時には客として来ることもあったが)に怯えずとも堂々と取引ができるようになり、ドブネズミ(政府によれば存在しない動物だが)に噛まれて、ありもしない抗生物質を求めて彷徨うことを恐れる必要はなくなった。明るい太陽のもと、人々は完全な「商業的自由」を手にし、市場は半ば風化した中古品と粗悪な偽造品で溢れている。

 一通り数字を修正し、時計が十一時を回った時に、私はあるニュースを目にした。頭上のモニターは一日中、何の意味もない捏造されたニュースを垂れ流しているのだが、そのニュースは少し奇妙だった。

 「首都近辺で騒擾が発生し、警官隊が集結」

このようなニュースは、我が国においては過去数年間で数回見かけたかどうか、というぐらい希少なものだった。三年前の反政府組織の蜂起の際に、そのニュースを目にしたことだけは覚えている。ただ、その手のニュースはいつも曖昧で、必要最低限の情報を伝えるのみだった。反政府組織の人員の犠牲者数などは、一度も公表されることはなかったし、これからもないだろう。そもそも政府の公式見解では、我が国のような、富裕かつ自由な国家において、このような反乱はあり得ず、もし存在するとしてもそれは若者のクラブ(停電で機能が停止したものばかりだったが)での騒ぎと同列のものとされ、ただの噂として片付けられた。そんな与太話にかまけているより、国際社会へいかに自国が豊かで自由かを宣伝する方が重要なのだ。

 確かに、国民の過半は毎日カビの生えたパンと塩味の薄いスープを主食にしているし、識字率も三割あればいい方だろう。電気も一日のうち、官庁街ですら三時間は停電する。国内の電化率などは、考える意味もない。

 それでも、こんな惨状でも、たとえ祖国が嘘で塗り固められた廃墟と化していても、今作っている報告書は外国の駐在記者に会見で発表され、一部の海外メディアはそれを引用するだろう。それでいい。たとえ嘘であったとしても、誰も信じてくれなくても、自分の仕事に意味があると信じなければ、今まで無視してきた、現実という名の怪物がどんな思索の絡まりの中にも侵入してきて、たちまち自分が押しつぶされてしまうのは明らかだった。そもそも、国家そのものが嘘にまみれた体面と海外からの投資を横領することで成り立っているのだ。自分のような働きアリに、このような崩壊が運命付けられた国家にしてやれることが、果たしてあるのだろうか。一つできることがあるとすれば、今すぐにでも崩壊に巻き込まれない場所まで逃走することだろう。もし、三か月間の渡航許可申請を通り抜け、半世紀前の博物館から引きずり出してきたかのような旅客機で半日のフライトから生還できる幸運の持ち主であるならば、だが。

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