あの子

斎庭あかり

あの子

 この時限には体育の授業はないらしく、とても静かだ。

 洗剤の臭いのするシーツに潜り込んで、ひたすら目を閉じて気分がよくなるのを待っていた。

 中学に入ったばかりの五月だった。

 生理の二日目はいつもこうだ。今日は三時限目だからまだもった方か。養護の先生はどこかに行ってしまい、他には誰も居ない。

 保健室は白い。壁も天井も床も白っぽく、色があるのはパーテーションの向こうの先生の机と、ベッドに寝ている私だけだった。

 制服の紺、髪の黒、血の赤。

 痛いなあと下腹をさする。何で産むかどうかもわからない赤ちゃんのために毎月こんな苦しい思いをしなきゃならないんだろう?

 カチコチと時計の音と、カーテンが風にはためく音だけが聞こえていた。風が初夏の熱と春の冷たさをはらんでシーツから出ている手の甲を撫でる。かすかに漂う消毒薬臭さ。

 くぐもったチャイムが聞こえた。

 廊下に物音が増える。

 ガラッと戸の開く音がする。パタパタと上履きの足音。白い布のパーテーションの下から床に映る足が見えた。

「由加里、大丈夫?」

 声は一美か? シーツから顔を出す。

「うん、貧血なだけ。いつもの」

「給食ここに持ってくる?」

 これは楓花だ。

「ありがと。後で先生に訊いてみる」

「薬飲んだ?」

 そして美雪。

「お昼食べたら飲む。参っちゃうよね。こんなのずっと続くのかな」

 くすくすと笑い声が上がる。誰だろう?

 見える足は八本。

「あ、ごめん、四時限目始まる。後でね」

 開いた戸に少しの間声が高まり、閉じられて、やがて遠いざわめきが収まっていった。

 床に人影が一人分映って見えた。誰かが残っている。

 一人は少し寂しかったので、誰か居るのは心強い。同じクラスの子かな?


 中学の頃のことを思い出すと、一番の記憶はこの保健室のことだ。一年の最初からお世話になった保健室は卒業間際まで常連だった。

 一人で寝ていると時々あの子が来てくれた。

 いつしか他愛のない話をするようになった。昨日見たドラマや好きな歌手のこと。いつか行きたい海外のこと。重い生理の愚痴なんかも話した。

 貧血の夢うつつの中静かな存在は幻のようだった。起き上がり、パーテーションの向こうを覗いたこともあったがそんな時に限ってあの子は居ない。

 結局誰なのか最後までわからなかった。


 卒業から五年が経っていた。

「由加里、聞いた!?」

 突然古い友達から電話がかかってきた。

「一美? 何かあった? 最近どう?」

「卒業アルバム出せる? 無かったら写メ送るけどメッセつながる?」

「いつのよ。小学校から高校まであるよ。今実家居るし」

「中学中学。あー、やっぱメッセ送る! 電話まどろっこしい。ID教えて!」

 やたらとテンション高い一美に戸惑いながらIDを教え、卒業アルバムを本棚から探して話を続ける。

「懐かしいね、小松中。皆どうしてるかな」

「一年の集合写真、うちのクラス開いて」

 十二歳の私たちがそこにいる。にこりともせず睨みつける幼い私。あの頃は大人のつもりだったけど入学したばかりの中学生なんて小学生と何も変わらない。

「二列目の足数えてみて」

 一列目は椅子に座り二列目はその後ろに立っている。二列目の足は子の隙間から見えていた。立っている子は十人、足は二十二本。

 メッセの着信音がして開く。

 一美から写真が送られてきていた。右から三番目の、女の子の足に丸が付いていた。

「心霊写真だと思う。こないだテレビでこの卒業アルバム取り上げられたんだよ」

 他にもある、と写真が次々と送られてきた。

「南小で、中学に上がる直前に死んじゃった子がいるんだって。うちらと同じ年。同じクラスになるはずだったんだってさ」

 白い床白い壁白いパーテーション白いカーテン、その下からのぞく足、静かに揺れる影。

 あの子――。

「南小のその子、名前知ってる?」

「わかると思うよ。ちょっと待って」

 卒業アルバムのその写真を何度も人差し指で撫でた。

 不思議と怖くはなかった。

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あの子 斎庭あかり @manai-k

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