日常

 19世紀の娯楽はそうは多くない。とはいっても、現代と比べててであり、金があるところには相応の娯楽が数多くあった。

 中でも賭け事、ギャンブルはその娯楽の中で特に大きな勢力を持っていた。

 カード、競馬、クリケットやボウリングなどなど、様々なもので勝敗を予想して少なくない金を賭けるのだ。

 そして、古くからの街であるソールズベリーにも、ご多分に漏れずそれなりの競馬場が存在した。1マイルの直線からヘアピンのような折り返しがあり、その直線へとすぐ戻るという形のレース場だ。

 晴天のこの日、ソフィアはアリスを従者として伴い、その競馬場へと他の街からやってきた大勢の貴族を案内していた。とはいっても案内した後、あいさつ回りをすればすぐに個室に引っ込んだのだが。


「いやあ!すごいですね!ボク、競馬を見るのは初めてです!」


 そう言って、パドックを歩く馬を見てキラキラとした表情で目を輝かせるのは、一等良いドレスに身を包んだシャーロット。彼女のことはソフィアが社会勉強にと彼女のことを誘ったのだ。そうしたら、着ていく服がないと言ったので、ソフィアは彼女のことを思う存分着飾らせた。

 二人が出会って一年と半年が過ぎ、二人はもうずいぶんと気心が知れた仲になっていた。


「賭けますか?」

「いえ、それは止めておきます。こういうのはやらないというのが、父との約束なので」

「そうですか」


 ソフィアはアランはよく彼女のことを教育しているのだなと感心し、しかし、シャーロットは困った顔をしながら手元の財布に目を落とす。

 それはシャーロットが持つには 不相応なほどに高級そうなもので、実際それは彼女の物ではなく、オーガスタの物だった。


「オーガスタは結局来れなさそうですかね」

「レポートが未提出な人間にかけてあげる慈悲はありません」

「あはは……。あの人は悪魔ですわ!って言っていましたよ、彼女」


 シャーロットの声真似に、ソフィアはふんと鼻を鳴らしてオーガスタの言葉を一笑に付す。悪魔と言うのは当たらずも遠からずだが、悪魔でなくとも自分が面倒を見ている生徒が課題をクリアしないままそれを放り出すのを看過することはできなかった。

 ソフィアのその態度にシャーロットは、この人は時々こういったぞんざいな仕草をするよなぁと、あまり良家のお嬢様らしくないその所作にわずかに引っかかりを覚えていた。


「彼女曰く。このレースは3番が勝つ!だから賭けておいて!とのことですが……」

「何か問題が?」

「ボクには勝つようには見えません」


 シャーロットは真剣な表情でパドックを回る馬を見る。彼女のその言葉にソフィアは後ろに座るアリスに振り返って、「双眼鏡を」と言ってそれを受け取る。そして、スタンドのある個室からは小さくしか見えていなかった馬を観察し始める。

 3番の馬は栗毛で、筋肉がよく発達していて、落ち着いた雰囲気だ。


(う~ん。わからん)


 ソフィアはしばらく観察していたが、他馬との違いが何も分からず、小さく唸りながら双眼鏡を覗くのをやめ、それを隣のシャーロットに手渡す。


「ありがとうございます」


 シャーロットは律義にお礼を言って、双眼鏡を覗き始める。そして、一通り馬を見るだけで、特に観察もすることはせず。すぐにそれを下ろした。


「うん……うん。駄目そうですね。強い馬だとは思いますが」


 ソフィアはアリスが差し出してきた競馬新聞を開き、その中に書かれた調教の状況や体重、今までの競争成績などをざっと洗う。とはいっても、今まで競馬にはほとんど触れてこなかったので、ちっともわかりはしなかった。


「わかりませんね。どうしてそう言い切れるのですか?経験がおありで?」

「え?いや、そういう事ではないんですけど……」


 ソフィアの問いかけに、シャーロットは少し焦った表情で頬をかく。その表情からは適当な言い訳を考えているのがありありとわかった。


「直観。ですかね」


 その言葉にソフィアは小さくため息をつく。いつもの教師と生徒との関係なら、論理的にちゃんと言語化しなさいと言う所だが、今日はプライベートだ。そう言った追求はしないことにした。


「そうですか」

「ちゃんと言語化しなさいって言わないんですか?」


 しかし、シャーロットが首を傾げてそんなことを言ってくるので、ソフィアは肩を落としながら首を振る。


「競馬には全く興味がありませんからね。説明をされても解りません」

「そうなんですか?ボクを誘うくらいですからてっきり詳しいのかと」

「いいえ。父に競馬場をちゃんと整備しましょうと言った手前、大レースの時は見に来ているだけで、殆ど付き合いのようなものです」


 そう言いながらソフィアはこの競馬場と周辺の土地を買い取った時のことや、これを機に勉強をしてみるかと各地の牧場を巡ったことを思い出す。しかし、あまりいい思い出ではなかった。


「それに、白馬だ珍しい、とすこし嬉しくなって買ってみたら、葦毛だって言われるくらいですよ。私は。

 父はオルコックアラビアンの直系は掘り出し物だと唸っていましたが」

「へぇ、ソフィアさんも失敗することがあるんですね」

 

 ソフィアは競馬事業を始めようとした時、やけにジョージが喜んだことを思い出す。曰く、『このレース場は彼のエクリプスも走ったコースなんですよ!』らしい。他にも『コースを変えるなんてとんでもない!』『牝馬を、買います』と妙に圧があった。

 あまりの圧にソフィアもアスタロトでさえも押されて、結局は彼にほとんど任せることになったほどだ。だからこそ全く詳しくないままここまできてしまっているのだが。


「まあ、レースは見ていて楽しいですよ。個人的には短距離走が好きです」

「楽しみです」


 今日は一本のレースだけではなく、何本も距離を変えたレースを催し、一日中競馬場でギャンブルを楽しむことができる日だ。今年でキリの良い5回目となるこのレース群は賞金も当時としてはとんでもない額を出していて、その上それぞれの馬の調教度合いや陣営のインタビューまでも収集し、それを競馬新聞として大々的に市民にもプロモーションをしていた。

 あくまで貴族の催し物で娯楽だったものを、市民にまで浸透させようとメディアを最大限駆使するよう指示を出したのはソフィアだ。

 それにはいくつかの意図があったが、その内のいくつかは早速成就していた。

 ソフィアはパドックのほど近くで他の貴族と談笑しているジョージを遠目に見る。彼は馬について話しているのだろうか、身振り手振りをしながら大げさなまでに熱のこもった仕草をしていた。

 そんな彼の隣にはアスタロトも立っていて、彼の熱量にやや困った表情をしながらサポートに徹していた。

 ジョージのその本来の意図を忘れてそうな雰囲気にソフィアは不安を覚えつつも、気を取り直すために一つ咳払いをする。

 すると、その咳払いが合図のようにパドックから馬が出ていきはじめ、ジョージ達はスタンドの方、つまりこちらへと向かって歩いてくる。別の個室なので、鉢合わせることはないが、彼らは隣の個室に入る手はずになっていた。

 そんな折、シャーロットは手元の財布を仕舞いこみながらソフィアに尋ねる。


「そういえば、賭ける時はどうしたらいいんですか?」

「通常ならブックメーカーですが、このレースはこの競馬場が唯一の胴元になっています。アリスをお使いに出せばいいですよ」

「わかりました」


 とはいっても、負ける賭けに友人の金は出したくなかったのか、結局アリスにお使いを頼むことは無かった。

 そして、馬がコースの端に寄って、その前に一本の縄が張られる。


「ところで、君の予想は?」

「5番の子です」


 シャーロットがそう言った瞬間、縄が落とされ、次々馬が走っていく。馬の乗り方も現在ほど洗練されていないが、それでもわずかに前傾姿勢の騎手たちが馬を前へ前へと押し出していく。

 10ハロンのこのレースは、この頃にはもうこれが一般的になり始めていた一本限りの真剣勝負だ。何度も競争を行うヒートレースではない。

 一団となった馬たちが殆ど直線のコースを走り、1回目のスタンド前をそのまま駆け抜けていく。

 そしてヘアピンカーブ手前、とある馬が一旦大外に出ると、きついカーブをアウト・イン・アウトして抜け、大きく前に出る。


「ほら!」


 目立つ色の帽子の騎手と馬を指し示して、シャーロットが予想が当たったことに嬉しそうな声を出す。そして、そのままその馬が押し切って先頭でスタンド前のゴール板を通過したのだった。

 シャーロットの予想が的中したことに、ソフィアはパチパチと拍手をする。スタンドは貴族たちの歓声とため息で満ちていて、遠くからジョージの大きな叫び声が聞こえた気もした。


「これは凄い。大当たりですね」

「ぐ、偶然ですよぉ」


 シャーロットが恥ずかしそうに頭を掻きながらその拍手を受け取る。すると、後ろでずっと黙っていたアリスが小さな声でぼそっと注釈をつけてきた。


「お嬢様。我が家の馬ですよ」

「あっ、そうだったの」

「凄いですね!」


 ソフィアはさっきの聞こえた気がしたジョージの声は気のせいではなかったのかと、少し気が遠くなる。特に窓ガラスでスタンドの中と外を区切ってはいないのだが、それでも隣の個室から叫び声が聞こえるのはいかがなものか。

 その上、あそこまで見事に勝つと、この後予定されている晩餐会は少々面倒なことにもなりそうだった。


「今日の夜のパーティは一層豪勢になるでしょうね」


 ソフィアがそう呟くと、隣のシャーロットがそんな彼女の横顔に何かを察したのか、少し思案顔になる。そして、彼女はソフィアの手をとると、にっこりと笑いながら一つの思いがけない提案をした。


「抜け出しちゃいます?」


 いつもよりもさらに砕けたシャーロットのその言葉に、ソフィアは目を丸くさせ、そして、どうにも可笑しくて吹き出してしまう。


「いいですね!抜け出しちゃいましょうか!」


 ソフィアは晩餐会を内心面倒くさがっていたのを見破られたのが何となく心地よく、そのシャーロットの提案に乗ることにした。そして、心の底から笑ったせいで目元に溜まった涙を片手で拭うと、自分の手に置かれたシャーロットの手を一度握り返す。


「流石に無言は駄目ですので、家の者と話してきます。

 アリス。シャーロットをお願いします」

「かしこまりました」


 シャーロットの手を離した笑顔のソフィアは、個室から後をアリスに任せて出ていくとすぐに鋭い表情になる。

 そして、従業員用の個室に入ると、暗いその部屋で静かな声を発した。


「アスタロト。晩餐会には出ないことにする。そして、首尾はどうだ?」


 なにも競馬はジョージの娯楽のためだけではない。別の多様な目的があるのだ。そして、部屋の薄暗い部分から一人の執事がどこからともなく湧いて出てくるように姿を現し、恭しく礼をした。

 晩餐会に出ない旨はもうソフィアの中では決定事項だったので、アスタロトもそれには何も言わなかった。


「写真については魔法のようだと大好評でした」


 今回、新たに開発しておいた写真機を使って、機械的な勝敗判定を出したのだ。先ほど行われたばかりのレースの写真の現像は流石にまだだろうが、それ以外のレースに関してはもうすでに現像が済み、レースに馬を出した貴族全員に写真が配られたはずだ。


「コルセットの無いドレスに関しては、男性たちは余り反応しませんでしたね。御婦人方には好評でしたが」


 このころのドレスコードとしてコルセットは必要不可欠なものだった。ウエストの高い位置で強く縛るといった体に負担をかけるようなものは姿を消していたが、それでもスタイルをよく見せようと皆必死だった。

 そんな潮流の中の今日、何人かのモデルにコルセットが無いドレスを着せて、競馬場を回らせたのだが、そのデザインが好評だったのは僥倖だった。


(男達は多分、コルセットの有無に気が付いていないのだろうな)


 ソフィアが一人苦笑いをしていると、アスタロトは続いて真面目な表情のまま言葉を継いでいく。


「しかし、保護貿易関連法の撤廃。インディアンとの条約。どれもあまり感触がよろしくありません。

 ヌエバ・グラナダ共和国との外交に関してはジョージが音頭をとれそうですが」

「そうか……。晩餐会でも引き続き頼んだ。特に、ヌエバ・グラナダとは良好な関係を構築したい。

 キニーネに関する情報も渡していい」


 ヌエバ・グラナダ共和国とは、現在のコロンビア周辺地域に存在した国である。大コロンビアとしてこの国を含む周辺一帯がスペインから独立を勝ち取った後、いくらかの内部対立があって主にコロンビアとパナマが主体となり成立したという経緯があった。

 過去、大コロンビア末期にはソフィアもこの周辺地域を外遊先の一つとして選び、パナマの調査も直々に行っていたので、運河建築のための要素は着々と集められていた。

 キニーネはマラリアに対する特効薬であり、マラリアは上記の国々が属する熱帯から亜熱帯に掛けて常に脅威となる感染症である。パナマ運河建設の際にも大きな障害になりうることが予想されていた。


「それくらいだな。外交官としてのジョージは優秀だ。問題にはならないだろう」


 ソフィアはそれだけを言うと、さっさと踵を返し、待たせているシャーロットの元へと帰っていった。

 後に残されたアスタロトはくすくすと笑い、自身の、主人は秘密にしている思惑が上手く転がり始めていること嬉しく思いながらジョージの元へと向かうのだった。

 一方、アスタロトが一人笑っていることなどは知らないソフィアが個室に戻ってくると、そこで和やかに談笑していたアリスとシャーロットを見つける。


(本編では対立した二人が談笑しているのを見るに、やはり、ゲームと現実とは随分変わってしまったな。

 先ほどの外交関係もそうだし、もうゲームの内容は当てにしないでおくか)

「ソフィアさん。おかえりなさい」


 楽しそうなシャーロットが微笑むと、ソフィアもつられて笑ってしまう。表裏が無い彼女の表情には、ついつい釣られてしまうような不思議な魅力があり、ソフィアはそんな彼女が持つその雰囲気は好ましいと感じていた。


「さ、二人とも、少し散歩に行きましょうか」

「はい!」


 ソフィアのその言葉に二人は立ち上がり、外出の準備を始める。

 ソールズベリーは古い街だ。自然も多いし、風光明媚でもある。30分も歩けばストーンヘンジすらある。

 ソールズベリー大聖堂の尖塔は帝国一高く、大聖堂それ自体も素晴らしい建築物だ。街並みだって古くから大切にされてきたものであるし、ソフィアはそれらを崩さないように最大限気を使って大学も建てた。

 この街は歩くだけで、いくらでも時間を潰すことができる。

 しかし――


「いや、見飽きてるか?」


 ふと、生粋のイギリス人であるシャーロットとアリスはつまらないか?と、思わず呟いてしまう。

 それはあまりに小さい声だったので二人は聞き取れず、どこからか聞こえた音に首を傾げる。


「何か言いましたか?」

「何でもありませんよ」


 ソフィアは問い返してきたシャーロットに、曖昧に微笑みながら頭を振るのだった。

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