出会い

 ロンディニウムの夜は暗い。それは昔からそうだった。だが、近年は昼も薄暗くなってしまっていて、最近は特にそれが酷くなっていた。

 次々無節操に建てられる工場、工場以外にも人々が生活するために必要な施設も増えていく。それらが石炭や蒸気の煙、化学薬品のいやな臭い、キッチンや暖炉の煙と匂いなどを出すことでこのロンディニウムに薄もやを漂わせていたのだ。

 そんな薄暗い昼の街を、サックコートまたはラウンジコートと呼ばれる少しゆったりとしたスーツに身を包んだ男が歩いていた。そのコートは黒色が少し色褪せてしまっていて、被っているシルクハットもよれてしまっていた。

 ズボンは特に色褪せていて、彼の出で立ちは都市労働者でかつ中流階級の下の方の人間だとすぐに見て取れた。

 しかし、彼はそんな中流階級の人間にあって、とても特徴的な部分があった。顔を包帯でぐるぐる巻きにしていたのだ。

 今時のロンディニウムでは、時にそういう人間は見ることができる。化学薬品か熱せられた蒸気かを被ってしまい、酷く顔を焼かれてしまった不幸な工場労働者だ。

 しかし、その一方で男はそんな不幸な人間とはまた違った雰囲気をもっていた。

 だが、その違った雰囲気の理由を言語化できる人間は少ない。


「最近、テムズがよっぽど汚くなってきたな」

「なあ、その“よっぽど”って使い方間違ってねぇか?」


 二人の労働者が休憩中なのか、テムズ川の欄干によりかかりながらそんなことを話していた。そんな労働者を見つけると、包帯の男はしっかりとした足取りで近寄っていく。


「聞きたいことがある」

「ひっ!」

「うげ……」


 包帯の男の声は静かだがやけによく通る声だった。ロンディニウムの街中を埋め尽くす人々の声だけでなく、どこからか鐘のように響く歯車がかち合う音、近くでパイプが変形する音、ちょうど背後の工場から鳴る蒸気機関のレシプロが鳴らすガゴンと言う音、それらにまったく負けない声だった。

 労働者二人は包帯の男を見て引きつった顔をするが、包帯の男はそんな反応を全く意に介さない。


「この辺りに銀の輪亭と言うパブがあるそうだが、どこにあるか知らないか?」

「あっちだよ。変な気を起こさないでくれよ……」

「ありがとう」


 包帯の男の質問に労働者二人は逃げるように立ち去りながら、路地を指を差して応える。その方向を包帯の男がちらりと確認すると、背中を向ける労働者に律儀に軽く頭を下げてそちらの方向へと向かい始める。

 そして、包帯の男は路地に入って一本道になっているそこを歩く。工場の裏手になっているのか、熱がこもっており、何か酸っぱいような匂いも漂っている気がした。


「……迷ったか?それとも、適当な嘘だったか」


 包帯の男は一本道の先にあった二股の分岐に立ってため息をつく。先ほどの労働者達は分かれ道があることを教えてくれなかったので、恐らく後者であろうことは何となく察しを付けることが出来た。

 彼はその分岐路で左右どちらへ行くかを迷う、。右はむき出しの工場のパイプをくぐっていかなければならず、左は何かオレンジ色の廃液の水たまりを股がなければいかない。

 さあ、どうするか?と首を傾げながら、包帯の男はスーツの懐に手を入れながら耳を澄ませる。相変わらず工場の稼働音はうるさく、そんな中、それに交じって人の忍ばせた足音が聞こえていた。

 すぐ、背後から。


「誰だ?」


 包帯の男は懐に手を突っ込みながら問いかける。すると、潜んだ足音が、ほんの2、3m後ろで突如止まった。


「僕聞きたいことがあってね」


 そして飛んでくるのは男の固い声。どうやら、向こうもこちらを警戒しているようだ、と包帯の男は感じる。そして、ここまで近づいたということは、向こうこちらを害する手段があるという事でもあった。


「最近、この辺りで何人も人が行方不明になっているんだ。知らないかな?」

「知らないな」


 全く予想だにしなかった問いかけと、本当にその事柄を知らなかったことに、包帯の男は肩を落として懐で掴んでいたリボルバーのグリップから手を離す。


「振り向いていいか?」

「……ゆっくりとなら」


 包帯の男がその声の言う通りにゆっくりと振り返ると、そこには仕立てが良いインバネスコートに身を包んだ、亜麻色の髪を持つ男が立っていた。


「ふむ。怪しくない男だな」


 包帯の男がそう言って懐から手を抜き、両手のひらを空に向けてやれやれといったジェスチャーをする。

 彼のそんな行動に毒気を抜かれたらしい男は少し口角を上げ、首を軽く振りながら言葉を返した。


「そういう貴方は実に怪しい男だ」

「当てが外れたか」

「たぶんね」


 まだ疑いのこもった視線を向けられていることに包帯の男が、さてどうするかと少し考える。明らかに怪しい人間であることは自覚していたので、身の潔白を証明するのは難しい。

 なら、相手が満足するまで付き合うか、と包帯の男は彼に指を向ける。


「じゃあ、好きに質問するんだな。大抵のことには答えてやろう」

「名前は?」

「偽名だが、ダン。でいい。ついでに君の名前も教えてくれ」


 いきなりの偽名宣言に質問者は大きく肩を落とす。そして、これでもう完全に気が抜けたらしく、彼は額に手を当てながらため息交じりに名乗りを上げた。


「アラン。アラン・ホームズ」

「アラン・ホームズ?」


 その名前にダンは目をわずかに大きくさせながら問い返し、それにアランは戸惑いながら頷く。すると、ダンは顎に手を当てながら俯き加減に何かを考え始めてしまう。

 ダンにはアラン・ホームズと言う名前に心当たりがあった。彼の服装はインバネス・コート、それに加えて彼の体格は少し華奢。


(ああ、彼が主人公の父親か)


 ダン、その正体であるソフィアは、目の前の男が霧の都のマギ本編開始直前に死んでしまう主人公の父親だと察した。彼が死んだことで、主人公はその真相を探るために彼のコートを借りて探偵となり、この街を駆けずり回り始めるのだ。


「ふっ」


 ソフィアはつい笑ってしまう。いったい何の因果か、本編開始前にこんな所でキーマンに出会えるとは。


「僕に何か?」

「いいや。君の名前を小耳にはさんだことがあっただけだ。その記憶を引っ張り出していた」


 戸惑うアランにソフィアは嘘は言わずに適当に誤魔化す。そして、ソフィアはポケットに手を突っ込みながらアランへと声をかける。


「恐らく、私は君に協力できるが。どうする?」

「……信用できない」

「それもそうか」


 怪しい男のダンが自分のことを知っていたという事に、先ほど鳴りを潜めた警戒心を再び露わにしたアラン。そんな彼に、ソフィアはどうしたものかと考えながら、突如なんてことないように歩き始める。そして、アランの横を通り過ぎ、今来た路地をまた戻り始めた。


「あ、ちょっと!」


 急に立ち去ろうとしたソフィアのことをアランは追いかけ始める。そして、ピッタリ数歩分後ろを歩きながら彼は声をあげた。


「質問!まだ質問がある!」

「どうぞ」

「君は何者なんだ?」

「特に何者でもないが。そうだな……、今はただロンディニウムを散策したい人間だ」

「嘘だろ?」


 アランが明らかに怪しい男が『特に何者でもない』と言うことに非難の声をあげる。すると、ソフィアは足を止めて半身で振り返り、包帯の奥から楽しそうなアメジスト色の瞳を光らせ答える。


「嘘じゃないんだな、これが。今は特に目的がない」

「……」


 胡乱気な視線をアランが無言で返すと、ソフィアはポケットから片手を出しその手をひらひらとさせる。


「そもそも、このロンディニウムに来たのがつい数日前なんだ」


 なおも無言のアランにソフィアは帽子の角度を直しながら、壁際に沿うように張られたちょうど腰のあたりの高さのパイプに腰かける。少し暖かいパイプだった。


「じゃあ、逆に聞こう。君は私のどこが疑わしい?答えて」


 アランは狭い路地で、ソフィアと逆側の壁に背を付けながら、足元から頭の先までじっくりと観察する。


「まず一つ。足取りが随分軽い」

「要領を得ないな、もっと詳しく」

「見た目ははっきりいって中産階級の下、そういう人間はどうしても足取りが重くなる。不安や、疲れ、他の負の感情からね。なのに貴方にはそれがない」

「お見事。他には?」


 ソフィアはそう言いながらパチパチと手を叩く。


「包帯は汚れてこそいるが、綺麗だ。怪我人だったり、怪我が治っていても本当に困っている人はもっと包帯が汚くなる」

「素晴らしい。まだあるだろう?」


 アランは段々と自分がテストされている気分になってきていた。加えて、自分のとしても、段々と目の前の男は潔白ではないにしろ悪い人間ではないと思い始めていた。


「声や発声、抑揚、そう言ったものが綺麗だ。下町でも、他の地方から来たわけでもなそうだ……もしかして貴族かい?」

「実に鋭い。ただ、私の身の上に関してはご想像にお任せするよ」

「はぁ……ロンディニウムに来たばっかりって言うのはそうかもしれないな。靴も古く見えるがすり減っていない」

「ふむ。他にはもうなさそうか?」


 ソフィアは立ち上がって自分の服装を見回す。自分でも鏡を見て気が付いていた部分があらかた指摘され、やはり時々街歩きをする程度では簡単に街に馴染むことはできないかと少し反省した。


「最後に」


 アランが指を一本立て、それにソフィアは顔をあげる。


「思慮が深すぎる」

「……それは自分でも気が付いていなかったな」


 そして、思ってもいなかったことを言われて、ソフィアは一本取られたと楽しげに笑い、またパイプに腰かける。そんな行動にアランは頭を掻き、妙に警戒心を薄れさせるような気安さがある目の前の男のことを警戒しすぎることは止めることに決めた。

 とはいっても信用するわけではないが。


「まだ質問したいことがあるんだけど、いいかい?」

「もちろん」

「僕のことはどこで?」

「探偵とかいう奴だろ?あまり多くはないからな、知っていたよ」

「あー……、なるほどね」


 アランは目の前の男がスラムツアーなどをしたがるタイプのもの好きな貴族だったとしたら、確かに自分のような珍しい人間のことは知っているかと納得する。何度か貴族を連れて下町を案内したこともあったので、そのつながりかもしれなかった。


「納得できたかね?」

「したよ。まあ、怪しい人間であることは変わりないけど」

「良いと思うんだがな」


 ソフィアは自分の顔を覆っている包帯に触れながらからからと笑う。煤だらけのこの街でマスクの代わりになるし、顔も隠せる、場合によっては相手に恐怖を与えられるかもしれない。

 怪しすぎることも、包帯の男と言う虚像へ焦点を当ててしまい、真実がぼやけるという事にも期待ができた。

 ソフィアはアランからの疑いが薄れたことを確認すると、妙に暖かいパイプから腰を上げる。そして、その場から立ち去ろうとして、自分の本来の目的を思い出した。


「ああ、そうだ。銀の輪亭ってパブを知らないか?探しているんだ」

「知っているけど……どうして?」


 アランも壁から背中を放してソフィアの斜め後ろを歩きながら問いかける。

 すると、ソフィアはわずかに上ずった声でその店に行く、二つ目の理由を語り始める。


「ヴァン・ホーテンのココアを美味しく飲めると聞いてね!後、固形チョコレートが食べられるとも」


 バンホーテンココアはちょうどこの時期に開発された、初めての酸味が少ない現代的なココア飲料である。史実ではそれが洗練されるのも、また固形チョコレートが開発されるのはもう少し先なのだが、この世界ではもうすでにそれらが完成間近になっていた。


(ゲームでキャラクターがたむろしたり待ち合わせするのが銀の輪亭で、そこで皆ココアなりチョコなりを飲み食いしていたからな。その都合だろう。

 本当の理由は今のうちに原作に出てくるスポットを見ておきたかっただけで、入店するつもりはなかったのだが、まあいいか)


 アランはその二つを味わったことがあるのか、味を思い出しながらうんうんと何度も頷く。


「ああ、そうか。あれは美味しいからなあ。よし、案内しよう。よく知っている場所だ」

「楽しみだ」


 すると、なぜかソフィアが先に歩き始め、船頭となってしまう。狭い路地なので二人並ぶことが出来ないのはそうなのだが、アランは彼の傍若無人さにため息をつきながら彼の後を追う。

 路地を抜けて、広い通りに出てもソフィアは適当に左に曲がって歩き続けて、アランは小走りでそんな彼の隣に立つ。

 アランが何でそんな適当に歩くのだと、隣の男に言おうとしたら、彼の視線の先に、一人の子供が束になった新聞を抱えて声を張り上げているのが見えた。


「新聞!新聞はいりませんか!」

「一部くれ」


 ペーパーボーイと後に呼ばれるようになる児童労働者に対し、ソフィアは新聞の代金の5セントだけを支払う。そんなやり取りの最中、ペーパーボーイがエプロンのように吊り下げている木の看板には新聞の第一面の内容が大々的に示されていて、それをアランが読み上げた。


電気的Electrical信号機semaphore、もしくは電気的Electrical通信telegraph、か。気になる?」

「まあね。その内、電信Telegraphとだけ呼ばれるようになるだろうな」


 新聞の第一面には『電気的通信の発明!』と乗っており、その下に続く解説記事には、ソールズベリー女学校の研究者が通信プロトコル含め新たな通信技術を発明したと書かれていた。


「どういうことだ?」


 アランの問いかけに、ソフィアは彼の肩を叩いて先導する様にと促す。そう気安く接せられたアランは迷惑そうに眉を顰めつつも、悪い気はせずに目的のパブの方へと歩き始める。

 そうして歩きながらソフィアが新聞を読みその内容を確認すると、それをアランへと『自分で考えろ』と言わんばかりに押し付ける。アランは新聞に書かれていた、公開された分の技術関連の解説を読んで頭をひねり、「やっぱりよくわからない」とソフィアに視線を向けることで解説を促した。


「一般化するだろうってこと。政治、経済、情報、その他にかかわる人間のみならず、普通の人々の手紙もこれで送るようになるだろう。

 今の内に慣れておくといい、きっと便利だ」

「ううん……僕も結構古いタイプの人間だからな。中々難しそうだ」

 

 新聞を読む限り、この記者もこの技術が広く使われていくようになるとを考えているようだった。曲がりなりにも情報を扱う仕事だからか、この類の技術にはとても敏感で、メディアそのものがこれから成長するだろうという言説も書かれていた。


「それにしても、ソールズベリー女学校は凄いな。どんどん世界が変わっていく」

「そうだな――」


 アランは感慨深げにそう言って新聞を折りたたんで小脇に挟む。そして、そんな彼の隣を歩くソフィアは、街行く人々の数年前からほとんど変わっていない光景をみながら頷く。

 この数年、確かに多くの技術は進歩していた。しかし、人々の生活は変わらない。それどころか悪化してさえるように見えた。


「――世界は変わっていくものだよ」


 そんな光景の中、ソフィアは感慨深く言うのだった。

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