君を王にするために

餅野くるみ

第0章

 肌を刺すような夕日が差し込む教室の中、一人の男がたおれていた。

 元は美術室か何かだったのだろうか、石膏像せっこうぞうだったであろうものが散乱し、まだ新しいその粉塵ふんじんが独特の匂いを放っている。机や椅子は半壊し、カーテンが大きく裂けたその有様はそこが非日常であることを雄弁ゆうべんに物語っていた。

 男は壊れた木製のロッカーを背にうつむいて座しており、動く様子は微塵みじんも感じられない。その空間と同様に彼の状態はとても正視できるものではなかった。

 パーカーか、あるいはジャージであったのか、いずれにせよラフな服装なのはかろうじて見てとれるが、焦げ付いた穴、非対称で不自然な破れ方などそれが創案者そうあんしゃのデザインでないことは一目で分かる。――男の右腕は肘から先が無く左脚はあらぬ方向へねじ曲がり胸部には黒ずんだ孔がぽっかりと空いていた。誰がどのように見てもそれを生きている状態だとは言わないだろう。


「また、逃げちゃったんだね……」

 誰かに向けられたであろうその声の主は捻じ曲がったドア、入口であったか出口だったものか、そちらの陰から発せられた。

 現れたのは一人の女性であった。少し小柄で癖のある黒髪の短髪。伏し目がちだが黒く大きな瞳は日の光に照らされて淡く輝いている。

 白いブラウスにパステルピンクのカーディガン、水色のロングスカートという普通の装いは、この非日常の中にあって逆にその存在を際立たせていた。

 彼女はたおれた男に向き直り、両膝をついた。 

 凄惨せいさんな光景であっても視線を逸らす様子はまるでない。

「私は君に助けられたと思っているんだよ……?」

「その時の言葉を、意味を、君自身が捨ててどうするの?」

 彼女は諭すように男に告げる――その言葉は今の彼に届かないと分かっていながらも。

 彼女は知っていた。目の前の彼の命はここで絶えていること、そしてこの世界のどこかで彼がまだ生きていることも。

 矛盾をはらんだ言い回しであるが、決して間違ってはいない。それだけの力が彼にはある――例え命を落としても別の時間、別の場所で再び生命活動を開始することができる。

「……私は君の考えが全部間違っているとは思わないよ」

 でもね、と彼女は続ける。

「今の君のあり方が正しいとも思えないんだ」

 彼女は顔を上げる。その瞳に映るのは強い意志と決意。

「……私があなたを捕まえる」

「逃げる私を助けてくれたあの時と同じように」

「私はきっかけしか作れないかもしれないけれど、それでも絶対に・・・あなたを逃がさない、逃がしてあげない……!」


「……ディバイド」

「我ず」

 言葉と共に彼女の身体が光を放ち、二人の間に小さな桃色のキューブのようなものが現れた。

「……やっとここまでこれたんだよ?」

「これが私の答え、選択、自分で決めたこと」

 立体は徐々に大きくなっていき、やがて二人の姿を包み込んだ。明滅めいめつしながらも徐々に光を増していくその光は既に外界のそれより明るいものとなっていた。

「――ストック」

 彼女がつぶやき、彼女だけに聞こえたその言葉と共に「箱」は消失し、後には壊れた教室と静けさだけが残された。

 茜色に差し込む光は、照らすべきものは無いとばかりに、もう何者も映してはいなかった。

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