第12話 アリスは想う

「はあ……」


 アリスは廊下の窓から見える月を見上げて、一人ため息をついた。


「なんであんなこと……」


 呟いて、窓にもたれる。目を閉じて思い起こすのは、空の部屋でのことだ。

 アリスはまさか自分が合意を取っていない相手を突然押し倒す人間だとは、思いもよらなかったのだ。押し倒すだけに留まらず、まさか体を密着させ、耳元で囁き、キスを強請るなど――。


「(みなを導き、模範でなければならぬこの私が……)」


 うう、と呻き、ぐりぐりと頭を窓に押し付ける。罪悪感が湧き出る中、だけど、と心の悪魔が囁いた。


「(可愛かったなあ……)」


 押し倒した時の、ぽかんと驚いた顔。アリスを名前で呼んだ時の、照れた赤い顔と上目遣い。

 そのうえ小さな声だが初めて名前を呼ばれて、アリスの気持ちは抑えきれなくなったのだった。


 そして全身で触れた体の、ふわふわと柔らかいこと。

 耳元で息を吐けば、体が健気にぴくぴくと反応してどんどん熱くなる。いや、あれはアリスの熱だったのだろうか。

 ドキドキと激しい心臓の鼓動も、空に聞こえるかも知れないと思ったが、密着した胸から伝わるそれはもしかしたら空のものだったのかも知れない。


 その境目もわからないくらい、あの時アリスは空に夢中だった。


 手首を掴まれて押し倒されただけで、跳ね除けられない非力で細い体。でもちゃんと柔らかくて、いつまでも触れていたくなるようなしっとりとした肌。白いシーツに散らばる、柔らかで綺麗な濡れ羽色の髪。緊張で息が乱れて、半開きになった小さな口から見える赤い舌。声どころか吐息にさえ反応してくれる健気さ。

 そして――初めて見た時から、アリスを捕えて離さない、オニキスのような濡れた瞳……。


「(空……)」


 思い出して、アリスの口からはっと熱い息が漏れた。


 そう、初めて見た時から――空が落ちてきて、その瞳と目が合った時から、アリスは空に夢中になった。


 つまりは、一目惚れである。


「(まさか、こんなに誰かを愛しいと想うことがあるとは……)」


 アリス・ラデルという人間は、誠実で真面目で、責任感のある女性である。


 生まれて物心がつく頃からずっと、家族のため、民のため、国のために勉強し、働き、尽くしてきた。

 いずれこの国を背負う立場にあるのだから、それは当然であり、苦だと思ったことは一度もない。むしろ栄誉あることだと思ってきた。


 そうやって次期国王としての道を邁進する彼女は、色恋のことなどてんで考えてこなかった。

 いや、考えてこなかったわけではない。アリスはとても美しい女性である。結婚の申し出など、色んな国の王族から打診があった。


 だがしかし、アリスはその全てを断っている。なぜなら、彼女には人を愛するという気持ちが未だわからなかったからだ。

 だからといって何も愛の無い人間ではない。両親のこと、友人、仲間、部下たち、国民。全てを彼女は紛れもなく愛しく思っている。


 だがしかし、ただ一人を特別に想う気持ちがわからないのだ。この世に生を受けて二十年。恋をしたことがないのである。

 もしや自分は愛する伴侶を見つけることは出来ないのか。――そう思っていた矢先だった。


「アリス王女、上です!」


 そう衛兵が叫び、その場にいた全員が上を見上げた。

 なんと青い空から、女性が降ってきていた。ばたばたと短いスカートがなびき、黒い髪が青い空に線を描く。


「あれが、異世界の巫女……⁉」


 誰かが呟く。伝承では巫女は空から降りてくるという。であれば、そう、あの女性がこの国を救う巫女なのだろう。

 ……だがあれは、降りてくる、というより落ちてきていないか?


 顔が見えないので焦っているのかどうかわからないが、アリスは受け止める準備をした。

 風の魔法を巫女にかけ、自分でも抱き留められるように落ちる速度を緩める。抱き留めようと腕を広げた時、巫女がくるりとこちらを向いた。


 一番に目に入ったのは、その黒い瞳。オニキスのような深く黒く、だがキラキラと輝くような瞳。アリスはその瞳に射抜かれ、一瞬思考が止まった。

 すると抱き留め損ねた巫女が落ちてきて――唇が触れた。初めて知る、柔らかなその感触。思わずその体を抱きしめた。細い腰と、小さな頭、驚きに大きく開く瞳。

 アリスはそのまま、落ちた。


 といっても地上に倒れこんだだけなのだが。至近距離で見つめる空の顔は、驚くほどアリスのドストライクだった。

 青空をバックに輝く黒い髪と瞳。形の良い鼻に、小さな口。

 見目麗しい者など自分の昔馴染みにもいるが、愛しいと、可愛いと思ったのは、これが初めてだった。


 ああ、これは恋をしたらしい。


 そう気づいた時、アリスは思わず愛しさで微笑んだ。吐息が巫女の唇に触れると、彼女は顔を真っ赤にして飛びのいた。その姿もまた愛らしくて、アリスはくすくすと笑みが零れる。


 ――ああ、私は今、この誰ともわからない異邦人をたまらなく愛しいと思っている。これが誰かを愛するという気持ちなのだろう。

 そうとわかれば、必ず――捕まえてみせよう。

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